Scene4:夜に沈む音

パタパタパタ……パタパタパタ。


ベッドのすぐ横、窓を叩く雨音が静かに響いていた。


どうやら深夜から降り始めたようだ。

耳元で反響する雨の音は、奇妙なほど心地いい。


まるで水の奥底で響く、静かな鼓動のようだった。

横たわる体は、水面にぷかりと浮かんでいるような感覚に包まれていた。


雨の雫が、ひとつまたひとつ、体に落ちては静かに波紋を描く。


その波紋が、奥の奥へと――とぉん、とぉん――ゆっくりと染み込んでいく。


雫を受け入れた僕の体は、沈んではまた浮かび、ゆらゆらと揺れながら夢のなかを漂っていた。


雫が落ちるたび、波紋は円を描いてゆっくりと手足の先へと広がっていく。


――――気持ちがいい。


その波紋は、僕の内側を少しずつ塗り替えていく――まるで、今までの僕じゃなくなるように。


とぉん……とぉん……


全身を預けて、意識も体も深く、深く、沈んでいく。


このまま、どこまでも沈んでいけたら……そんなふうに思えるほど、心地よく、満たされていた。


――――すい。すい。すい……。


水滴が落ちる音の合間に、かすかな声が聞こえた。


どこかで聞いたことのある、懐かしい声。でも――誰?


その声は、ずっと耳元で反響している。


この声は、いったいどこから……?


意識が、少しずつ現実へと引き戻されていく。


声の在処を探るように、僕の心がざわめいた。呼んでいる、あの声が。心地よく、優しく。


ゆっくりとまぶたを開くと、夜の暗闇が視界に広がった。

カーテンの隙間から、ほのかに月明かりが差し込んでいた。


――月明かり?


窓に当たった雫が、いつものように流れ落ちているはずなのに……?

僕は上半身を起こし、カーテンの隙間から窓を覗き込んだ。


だが、そこにあるのは――雨ではなかった。


赤い……なに、これ……?


――手だ。


大小さまざまな掌が、パタパタパタ……と不気味なリズムで、窓の外側を何度も何度も叩いていた。


赤黒く濁った掌には、骨のような節や、爪の欠けた指が混じっていた。


中には人間のものとは思えないほど異様に長く伸びた指や、掌の真ん中にぽっかりと“口”のような裂け目があるものまで――。


「ひゃっ……!」


思わず漏れた声と同時に、喉が引きつる。呼吸が詰まり、胸が強く締めつけられるようだった。


そのときだった。


空気が変わった。


何かがすぐ近くまで“にじり寄って”きている。

声も音もないのに、耳の奥に冷たい違和感が染みこんでくる。


ぞわり、と背筋を何かが這った。


そして次の瞬間。


「っ!? あっ、足……!」


僕の両足首が、冷たい“何か”にがっちりと掴まれた。

それは生き物の手のようにぬめり、異様なほど硬い爪が、皮膚に食い込むようにして絡みつく。


逃げる間もなく、身体がベッドの縁から引きずられる。


「やっ……やだ! やめ――っ!」


抵抗しようとするが、両腕はシーツに滑って空を切るだけ。

次の瞬間、ドンッ、と背中が床に打ちつけられ、衝撃で呼吸が止まった。


視界が暗転する――

耳鳴りが広がり、世界がすうっと遠ざかっていく。


最後に見えたのは、黒い影のような何かがこちらに顔を寄せてくる光景だった。

目も口も判然としない。けれど、そこに“強い意思”が宿っているのが分かった。


それは、僕を知っている。僕を、見ている。



朝、スマホのアラームが鳴り響いた。


いつものように枕元に手を伸ばそうとして──

そのとき初めて、自分がベッドの上にいないことに気づいた。


僕は、ベッドの足元に横たわっていた。


「……痛っ。なにこれ……」


後頭部と腰に、鈍い痛みがある。

どうやら寝ている間に、ベッドから落ちてしまったようだ。


頭をさすりながら、ゆっくりと身体を起こす。


今までで一番、寝相が悪かったかもしれない。

なんだか、妙な夢を見ていた気がする。


カーテンの隙間から差し込む、柔らかな光が部屋をぼんやりと照らしていた。

その穏やかな明るさに少し安心しながら、なんとなく窓の方へ視線を向ける。


カーテンは、閉じたまま。

それなのに、胸の奥にかすかな違和感が残っていた。


……そうだ。昨日、この窓には――無数の掌が貼りついていた。


思い出した瞬間、背筋がひやりと冷えた。


怖い。怖気づきそうになる足を、なんとか前に出す。


僕は意を決して、カーテンの前に立った。

両手で布を掴み、強く目を閉じてから──勢いよく、左右に引き開ける。


恐怖に打ち勝つように、そっと瞼を開いた。


差し込んできたのは、朝の穏やかな光。


窓の外には、見慣れた景色が広がっていた。

掌の痕跡なんて、どこにもない。


……やっぱり、夢だったのか。


張りつめていた力が抜けて、思わず苦笑いがこぼれる。


そう――

僕は、あの「呼ぶ声」を、もう忘れてしまっていた。


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