Scene6:黒アゲハ蝶
子どもの頃、僕らはよく近くの公園に来ていた。
翠とふたりで、花壇のそばのブロックに腰掛けて、枝で地面に絵を描いたりして遊んでいた。
春の日差しは暖かく、心地よいそよ風が吹いていた。
その風に乗って、僕らのすぐ目の前を、一羽の蝶がひらひらと舞ってきた。
「あっ、黒アゲハ蝶だ」
いつも見かけるアゲハ蝶よりもひとまわり大きく、漆黒の羽は優雅で、思わず見惚れてしまうほど美しかった。
「黒アゲハだ、きれいだな、翠」
嬉しさが込み上げて、思わず指さしながら声をあげた。
翠も蝶の方を見つめて、
「うん、そうだね。あんなふうに飛べたら、きっと楽しいだろうね」
と、穏やかに言った。
僕らが動いたら、蝶が驚いてどこかへ行ってしまうかもしれない。
そう思って、じっと動かずに、その姿を見つめていた。
夢中でアゲハ蝶を見つめる翠の横顔を、僕はそっと見つめていた。
──このまま、翠もどこかへ行ってしまうのではないか。
そんな不安が、ふと胸をよぎった。
アゲハ蝶はゆっくりと上下に羽ばたきながら、僕らと花壇のまわりを、ひらひらと何度も旋回していた。
……きれいだ。
その時だった。バサッと風を切るような音がした。
「おい、採ったぞ!」
虫網が空中で翻り、蝶の行く手を遮るように振り下ろされた。
羽をばたつかせる黒アゲハ蝶。
完全に捕まったわけではなかったが、そのまま地面へと追いやられる。
金属の輪の部分と地面の間に、蝶の体が挟まってしまった。
「……あれ、死んじゃった? なんだよ……」
網を持っていた少年が、残念そうに声を漏らした。
そこへ、少年の友だち数人が駆け寄ってくる。
「お前、採ったんじゃないのかよ。残念でした」
「ちぇー、つまんねーの」
口々に言いながら、少年たちはからかうように笑い合った。
「……あっちに別の蝶がいたぞ! 行こうぜ!」
その一声で、まるで何事もなかったかのように、少年たちは走り去っていった。
あとに残されたのは、土埃をかぶって無残な姿になった、黒アゲハ蝶だけだった。
僕は、この無慈悲な状況に、ただ涙を浮かべることしかできなかった。
翠は、ゆっくりと立ち上がり、両手で蝶をそっと包み込んだ。
「翠……」
僕は涙をぬぐいながら立ち上がり、翠のそばに駆け寄って覗き込む。
黒い鱗粉が、翠の掌にこぼれていた。
翠は、花壇の陰になった、一番大きな葉の重なりの上に、蝶の亡骸をそっと置いた。
「翠、この子……大丈夫だよね?」
僕は心配そうに問いかけたが、蝶の姿はどう見ても、もう助からないものだった。
翠は何も言わず、ただじっと、黒アゲハ蝶の姿を見つめ続けていた。
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