第三話「研究区画B3実験室」

 その日、蒼士は学院図書棟の最上階にいた。天井まで届く高い書架が並ぶ静かな空間。新入生向けの初期カリキュラムを終え、いよいよ本格的な学院生活が始まろうとしていた。

 窓の外には、相変わらず美しい人工湖が広がっている。だが、蒼士の視線はそこではなく、いちかの手元にあった一枚の写真に注がれていた。

 「これが……地下区画の制御室?」

 写真には無数の配線が這い回る巨大なコンソール装置が写っていた。幾重にも折り重なった感情波形データのグラフがスクリーンに浮かんでいる。

 「そう、例の地下B3層。私が昨日、すみれと会った後にこっそり撮ったの」

 いちかは声を潜めながらも、どこか誇らしげだった。

 「完全に許可外の侵入だな……」

 巧が呆れ顔で呟くと、愛海も少し心配そうに言葉を添えた。

 「いちかちゃん、危ないよ。下手すれば罰則だってあるかもしれないのに」

 「それはわかってる。でも、ここまで核心に近づいた以上、やめられないわ」

 いちかの目は真剣だった。彼女はただ好奇心で動いているわけではない。蒼士はその覚悟に静かに頷いた。

 「すみれが言っていた“適合者候補”って言葉……やっぱり気になるよな」

 「ええ。私たちが特別な素質を持っているって話。でも、それが本当なら、どうして事前に教えてくれなかったのかしら?」

 いちかが問いかけると、今度は巧が理知的な口調で続ける。

 「恐らくは、意図的に情報統制してる。感情共鳴は不安定要素が多すぎるから、未熟な段階では余計な予断を与えたくないんだろう」

 「つまり……俺たちは今、いわば『試験段階』に置かれてるわけだな」

 蒼士は軽く息を吐いた。自分たちが普通の生徒ではなく、より深い何かに巻き込まれ始めていることは、すでに疑いようがなかった。

 すると、いちかがふと立ち上がる。

 「実はね、もうひとつ情報を掴んでるの。今夜、B3実験室で新たな適合測定が行われるらしいわ」

 「測定……?」

 「ええ。偶然、研究員の会話を聞いちゃったの。適合者候補に選ばれた学生が非公開で呼び出されるんですって」

 「非公開で……?」

 蒼士の胸が一瞬ざわめいた。それはまるで、自分たちの運命が既に大きな渦へと巻き込まれつつある証のように思えた。

 「私、潜入してくるわ」

 いちかはさらりと言い切った。

 「ちょっと待て!」

 蒼士が思わず立ち上がる。危険すぎる。昨日のような“幸運”が続くとは限らない。

 「私一人なら見つかりにくいし、例の許可証もまだ有効。何かあったら連絡する。蒼士たちはここで待ってて」

 「……無茶だぞ、いちか」

 「無茶でも、やる価値があると私は思う。取材記者って、そういうものなのよ」

 冗談めかした口ぶりだったが、目は本気だった。




 結局、いちかは一人で行動を開始した。夜の帳が降り始めた学院の裏手、関係者以外立入禁止の警告看板を軽やかにかわし、地下への搬入用通路から研究区画に潜入する。

 「ふふ、新聞部の特訓は伊達じゃないわよ」

 小声で独りごちながらも、いちかの動きに迷いはなかった。長年の取材経験で培った“嗅覚”が、目の前の扉の向こうに“ネタの匂い”を感じ取っている。

 静まり返るB3層の通路。まるで生き物のように脈打つ配線ケーブルの海。その中を縫うように歩きながら、いちかは耳を澄ました。

 ――低くくぐもった機械音。そして、会話。

 「次の候補者は安定しているか?」

 「はい。初期段階では高反応でしたが、補正値は許容範囲内に収まりました。共鳴耐性は良好と判断しています」

 「ならば投影シミュレーションを実施する」

 重厚なスライド扉の奥から漏れてくる声。いちかはそっと隙間から中を覗き込んだ。

 そこには、巨大な実験室が広がっていた。中心に据えられた透明ドーム状のカプセル。内部には、一人の男子学生が座らされ、頭部にセンサーを多数装着されている。

 「……“適合者候補”……本当にやってるんだ」

 思わず息を呑むいちか。カプセルを取り囲むように数人の研究員が配置され、壁面のスクリーンにはリアルタイムの感情波形が描き出されていた。

 緊張、興奮、恐怖、安堵……感情が刻々と揺れ動いている様子が、まるで生体の鼓動のように生々しく表示されていた。

 「月涙核との共鳴位相を0.2ポイントずつ上昇……」

 「開始します」

 研究員の一人が指示を出すと、カプセル内の空間に淡い青い光が満ち始めた。同時に波形グラフが激しく上下動する。

 「対象者、軽度の混乱反応。だが抑制剤投与は不要、継続可能です」

 「位相上昇を続行」

 その瞬間だった。

 ――ギュウゥゥゥゥゥン……!

 空間が揺れた。ほんのわずか、だが確実に“空気が歪む”のを感じた。まるで周囲の感情が渦を巻くように。

 「……これが、感情共鳴……!」

 いちかは取材用のカメラをそっと構え、無音シャッターで連写した。だがその瞬間、不意に背後に影が落ちた。

 「――誰だ?」

 ぎくり、と全身が強張る。反射的に振り向くと、そこには白衣姿のすみれが静かに立っていた。




 すみれの視線は冷たく鋭かった。だが怒りや動揺は一切感じられない。ただ、事実を確認するためだけにそこにいる、そんな無機質な空気を纏っていた。

 「新聞部の……いちか、だったな」

 「……あ、あはは、こんばんは。偶然通りかかっただけで――」

 言い訳の途中で、自分でも無理があると悟った。カメラを手にして実験室の扉の隙間を覗いていたのだから、言い逃れなどできるはずもない。

 「あなたの目的は理解している。だがここは適合者候補の評価実験区域。無許可の立ち入りは規則違反だ」

 「……じゃあ、通報?」

 「それは判断保留とする」

 すみれは僅かに首を傾げた。

 「むしろ君の行動は興味深い。取材精神が好奇心を超えて、危険領域に踏み込むとは」

 「……好奇心って、大事よ」

 いちかは恐る恐る笑い返す。すみれは少し沈黙した後、意外な言葉を発した。

 「蒼士たちと行動を共にしている理由は?」

 「え……?」

 「君たち新聞部は、ただの傍観者ではないだろう? 彼ら新入生数名が適合者候補に選定され、その中心に蒼士がいる。偶然だけで済ませるには、要素が多すぎる」

 核心を突かれ、いちかの喉が一瞬詰まった。

 だが、ここで嘘を重ねるのは無意味だと悟る。

 「……取材対象にされた以上、私も彼らと向き合う覚悟を決めただけよ。事実を知りたい。彼らにとっても、この島にとっても、何が本当なのか」

 すみれはその答えを静かに聞いていた。

 「……君の情報収集能力は今後、ある種の役割を担うかもしれない。だが、その責任も理解しておくべきだ」

 「責任、ね……」

 静かな対話の間にも、背後の実験は続いていた。カプセル内の候補者は顔を歪め、肩で息をしている。

 「……この子は、大丈夫なの?」

 「適合度は高い。だが限界域での不安定さは常に伴う。それが感情共鳴適合者という存在だ」

 淡々と語るすみれに、いちかは再びぞわりとした不安を感じた。これは確かに「普通の実験」ではない。感情という人間の核心に踏み込む危険な領域だった。

 「君も、そして蒼士たちも――いずれ同様の評価試験を受けることになるだろう」

 その言葉を聞いた瞬間、いちかは小さく息を呑んだ。

 「私たちも……?」

 すみれは無表情のまま、静かに頷いた。




 「適合者候補である限り、いずれ全員が順次この評価に臨むことになる。それが“選ばれた”ということだ」

 すみれの静かな宣告が、いちかの胸に重くのしかかった。彼女は一瞬口を開こうとして、言葉を飲み込んだ。取材精神を貫くべきか、友人として止めるべきか――葛藤が渦巻く。

 だが、いちかはゆっくりと息を吐いた。そして覚悟を決めた顔つきで言った。

 「……だったら、せめて私は彼らの側にいる。全部を知らなくても、危険があるなら、傍で記録して見届ける」

 「観察者として?」

 「ええ。中立じゃなく、味方として」

 すみれの無表情に、わずかに眉が動いた。

 「……興味深い発言だ。感情共鳴は、強い感情を持つ者ほど深く関わる」

 いちかは苦笑する。

 「私は客観的に見る方が得意だったはずなんだけどね。いつの間にか巻き込まれてたわ」

 その瞬間、実験室の奥で警告音が鳴った。

 「波形急上昇! 恐怖パルスが閾値突破!」

 「共鳴拡散発生、カプセル内安全モードへ移行!」

 青白い光が激しく脈打ち、実験室全体の空気が震えた。透明なカプセル内で被験者が身を縮め、必死に耐えている。

 「……やはり安定制御は困難か」

 すみれがタブレットに迅速に指示を打ち込み、減圧処理が開始された。事態は沈静化し、やがて光も収束する。

 だが、その一連の光景を目の当たりにしたいちかの背中には冷たい汗が滲んでいた。

 「これが……共鳴の危険性」

 「正しく使えなければ、共鳴は個人の精神を簡単に蝕む」

 すみれは平坦な口調で言い切った。だがその目には、ほんのわずかに迷いの影が見えた。

 いちかはその表情を逃さなかった。

 「……あなたも、怖いのね」

 「……」

 無言のすみれに、いちかは静かに続けた。

 「制御できないものを相手にしてる。だからこそ、ここにいる皆が戦ってるんでしょう? だったら私も、友達のそばで戦うわ」

 しばらく沈黙が流れた後、すみれはようやく小さく頷いた。

 「……蒼士たちに伝えておけ。遠くないうちに、彼ら自身の適合評価が正式に始まる」

 「わかった。伝えるわ」

 やがてすみれは背を向け、静かに実験室の奥へと戻っていった。

 残されたいちかは、誰もいなくなった通路をしばらく見つめ続けていた――その背筋に、妙な冷たい風が吹き抜けるのを感じながら。




 翌朝、学院の中庭。桜並木の下に、蒼士たちは集まっていた。春の柔らかな陽射しが、昨日の緊張を少しだけ溶かしてくれるようだった。

 いちかは昨日の出来事を余すところなく説明した。すみれとの対話、実験の現場、そして近く始まる自分たちの「適合評価」の話も。

 「……つまり、俺たちもあのカプセルに入れられるわけか」

 蒼士は腕を組みながら唸った。隣で愛海も不安げに手を組み合わせる。

 「制御できないと、暴走しちゃうの?」

 「すみれはそう言ってた。でも逆に言えば、制御を学べば強い力になる」

 いちかの説明に、恵実は小さく俯いたまま呟いた。

 「私、昨日みたいにまた泣いちゃったらどうしよう……。暴走したら……」

 蒼士はそっと彼女の肩に手を置いた。

 「大丈夫だよ、恵実。俺たちはもう一人じゃない。仲間がいる」

 その言葉に、巧も穏やかに頷いた。

 「感情の暴走は個人の問題だけど、制御はチームで学べる。お互い補い合えばいい」

 「うん。私も皆となら、頑張れる気がする……!」

 恵実の声が少しだけ明るくなった。その隣で、いちかは改めて全員を見渡した。

 「これから本格的に“学院の核心”に近づくわ。もし怖いなら、私一人でも続けるけど――」

 「違うだろ」

 蒼士はきっぱりと言った。

 「ここにいるのは、もう“偶然の集まり”じゃない。俺たちは共鳴に巻き込まれたんじゃなく、共鳴に挑むために集まったんだ」

 「……蒼士くん……」

 愛海の目がうるんだ。

 その時、ふと春風が吹き抜け、桜の花びらが舞い上がった。

 この瞬間から、蒼士たちの戦いが本格的に始まるのだ。

 それは、ただの授業ではない。自分たちの“感情”という内なる力と向き合い、制御し、そして世界の謎へ挑む日々。

 月映島――この静かな孤島で、未知なる試練が待っている。

(第三話 完)

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