第二話「蒼穹学院入学式」

 朝の空気は少し冷たいが、晴れ渡った空に新たな一日が始まりを告げていた。学院寮の食堂は、すでに新入生たちの活気に包まれている。制服姿の少年少女が、まだ不慣れな友人たちとぎこちなく言葉を交わし、緊張と期待の入り混じった笑顔が並んでいた。

 蒼士も、その中にいた。昨日の異常な体験が嘘のように思えるほど平穏な朝だった。だが、胸の奥では静かにあの日の記憶が燻り続けている。

「蒼士くん、こっち空いてるよ!」

 手を振る声に振り返ると、愛海がテーブル席を指さしていた。彼女の隣には巧、そして昨日保健棟で運んだ恵実の姿もある。

「おはよう、みんな」

 蒼士が席に着くと、恵実が少し恥ずかしそうに頭を下げた。

「昨日は本当に……助けてくれて、ありがとう」

「もういいって。無事ならそれで十分だ」

 恵実の頬がほんのり赤く染まったが、すぐに愛海が優しく声を掛けた。

「でも本当に良かった。これからは私たちでお互い支え合っていこうね」

 「支え合う、か。うん、いい言葉だな」

 蒼士が微笑むと、巧が腕を組んで小さく唸った。

「それにしても、昨日は理事長の話も相当踏み込んでた。感情の力を制御する技術――本当に実現できるのか、俺はまだ疑問だが」

 「でも、興味はあるだろ?」

 蒼士の問いに、巧は少しだけ口元を緩めた。

「もちろん。未知の現象には研究しがいがある」

 そんな会話を交わしていると、館内放送が鳴り響いた。

『新入生の皆さんはまもなく体育館にご移動ください。入学式が開始されます』

 全員が食事を切り上げ、制服の襟を正して立ち上がる。いよいよ、正式な学院生活が幕を開けるのだ。




 体育館は荘厳な静けさに包まれていた。天井高く広がるアーチ状の屋根には、蒼穹学院の紋章が中央に輝いている。壁際にはずらりと学院関係者が整列し、壇上正面の中央席には理事長・輝がゆったりと腰掛けていた。

 新入生たちは決められた席に案内され、次々と着席していく。蒼士は少しだけ背筋を伸ばした。壇上脇の控え室から呼び出される時が近づいていた。

 「新入生代表、蒼士くん。壇上へどうぞ」

 係員の穏やかな声に促され、蒼士は静かに立ち上がった。周囲の視線が一斉に集まるが、不思議と緊張は感じない。むしろ、内側から湧き上がる決意の熱が、彼を自然に歩かせた。

 壇上に立つと、眼前には数百名の新入生、そして教職員たちが整然と並んでいた。父親の姿も遠くの席に見つける。軽く頷く父の視線を受け取り、蒼士はマイクの前に立った。

「本日、蒼穹学院に入学する我々新入生一同は――」

 彼の声が体育館に響き渡る。堂々とした所信表明は、昨日の経験を経て、さらに重みを帯びていた。

「未知の力に恐れず、学び、挑み、仲間と共に歩んでゆくことを誓います」

 最後の言葉を締めくくると、体育館いっぱいに拍手が広がった。蒼士は深く一礼し、再び壇上裏へと戻った。

 だがその瞬間だった。

「……う、うぅ……!」

 控え席の一角で異変が起きた。恵実が膝を抱え、再び泣き崩れていた。昨日よりも激しい感情の爆発――まるで目に見えない悲しみの津波に呑み込まれているようだった。

「また……!」

 すぐに蒼士は駆け寄り、彼女の肩を支えた。汗ばんだ額、震える肩、押し殺すような嗚咽。全身で悲しみを耐えようとする姿に、蒼士は咄嗟に両腕で抱きしめた。

「大丈夫だ、恵実! 俺がいる!」

 呼吸を整えながら蒼士は必死に声をかけ続けた。そこへ、いつものように巧が駆け込んでくる。

「間に合った!」

 巧は素早く応急スプレーを噴霧する。青白い薬霧が恵実の顔に降り注ぎ、徐々に呼吸が安定していく。涙が途切れ、恵実の表情が少しずつ落ち着き始めた。

「ご、ごめんなさい……また迷惑かけて……」

 蒼士は彼女の手をしっかりと握りしめた。

「謝るな。無事で何よりだ」

 その光景を見届けながらも、壇上では理事長・輝が淡々と式典を進行していた。ざわつく場内を静める巧妙な言葉選びと落ち着き。観客たちは徐々に理事長の話に再び引き込まれていった。

 まるで、これすらも織り込み済みであるかのように。




 式典が終わった後も、蒼士たちは控室に残されていた。保健担当の教員が恵実の様子を確認し、彼女の肩に薄手のブランケットを掛ける。

「無理は禁物よ、恵実さん。感情共鳴は一度発症すると不安定になりやすいから、今夜はしっかり休んで」

「……はい」

 小さくうなずく恵実。その顔はまだ不安の色を残していたが、先ほどよりもずっと落ち着いている。蒼士は心配そうに彼女を見つめながら、隣で腕を組んでいる巧に声をかけた。

「なあ巧。さっきのこれ、自然発生だったのか?」

 「いや、恐らくは誘発だ。本人の体質と、周囲の感情が複雑に絡み合ってね」

 「周囲の感情?」

 巧は小さく頷いた。

「入学式は誰だって緊張する。期待、不安、興奮……無数の感情がこの体育館に充満していた。それが、共鳴しやすい体質の恵実さんを強く引き寄せた可能性が高い」

 蒼士は改めて事態の複雑さを噛みしめた。これが、学院での日常なのだ。

 するとそこへ、静かに歩み寄ってくる人物がいた。理事長・輝だ。

「やはり君たちは、面白い資質を持っているな」

 淡い微笑みを浮かべたまま、輝は恵実の目線に膝を合わせて優しく言葉をかける。

「恵実さん、恐れることはない。感情は人間にとって最も原初の力だ。だが制御できぬうちは、こうして溢れもする。少しずつでいい、学んでいけばいいのだよ」

 恵実は涙を堪えながら、小さく口を開いた。

「……でも、私は……迷惑ばかり……」

 「迷惑などではない。君はただ、人より少し感受性が強いだけだ。むしろ、その強さは大きな力になる可能性を秘めている」

 輝の言葉は一切の誇張も、慰めも含んでいなかった。事実だけを、静かに告げている。それが恵実の心を静かに救っていった。

 その様子を見守りながら、蒼士は思った。

(理事長は……やっぱり只者じゃない)

 この学院が単なる学園ではないことを、改めて実感させられる。

 「蒼士くん、巧くん、愛海さん。今後もお互い助け合っていくのだよ。感情の世界は、個ではなく、共に在ることが大切だからな」

 輝の言葉には、どこか未来を見据えた含みがあった。その視線は遥か先を見通しているように感じられた。




 その日の夕方。式典の余韻を残しながら、学院の中庭は柔らかなオレンジ色に染まっていた。花壇の脇に据えられたベンチに、蒼士と巧、愛海、そして恵実が揃って腰を下ろしていた。

 「ふぅ……なんとか初日乗り切ったな」

 蒼士が深く息を吐くと、愛海が隣で小さく笑った。

 「でも、これが“日常”になるんだよね。なんだか信じられないような、でも不思議と……嫌じゃない気もする」

 「わかる気がする」

 蒼士も頷いた。昨日と今日で、すでに“普通の学校生活”とは違う世界に足を踏み入れた実感がある。だがそれは恐怖ではなく、むしろ挑戦の予感として胸を高鳴らせていた。

 恵実はブランケットを膝に乗せたまま、静かに空を見上げていた。

 「私、ここでちゃんとやっていけるかな……。また今日みたいに迷惑かけたらって思うと……」

 その言葉に、巧が淡々とした口調で返す。

 「不安なのは当然さ。けど、ああいう発作を経験できたのはむしろ良かったと思うよ」

 「良かった?」

 「初動の感情制御は訓練次第で伸ばせる。恵実さんは共鳴強度が高いぶん、制御できるようになったときには誰よりも強い力を使いこなせるようになる。僕はそれを楽しみにしてる」

 恵実は驚いたように目を見開き、やがて少しだけ微笑んだ。

 「……ありがとう、巧くん」

 蒼士もその言葉に続ける。

 「俺も楽しみにしてるよ、恵実。もし辛いときがあっても、絶対に一人にはさせない」

 静かな夕暮れの空に、温かな空気が流れる。まるで、この新しい仲間たちの間に芽生えた小さな絆を祝福するかのようだった。

 と、その時。

 「――やっと見つけたわ!」

 軽快な声と共に現れたのは、いちかだった。例の如くカメラを肩にぶら下げている。

 「取材対象が固まったところで、本格的に記事作りを始めるわよ!」

 「……またか」

 蒼士は苦笑しつつも、いちかのその好奇心と行動力に感心すらしていた。彼女のような客観的な観察者も、ある意味で貴重な存在だ。

 「感情共鳴災害の実態を突き止めるためには、内部の協力者が不可欠なのよ。よろしくね、蒼士、巧、恵実、愛海!」

 「頼まれてもいないのに、どんどん巻き込んでくるな……」

 巧が呆れたように呟くが、誰も本気で嫌がってはいなかった。

 こうして、蒼士たちはまだ見ぬ学院生活の本格的な幕開けに向けて、静かに歩み出していく――。




 翌日。午前中の講義が終わると、いちかが待ってましたとばかりに蒼士たちを引き止めた。

 「ちょっと皆、少し付き合ってよ。すっごく興味深い場所があるの!」

 「また取材?」

 蒼士が呆れ気味に問うと、いちかはニヤリと笑う。

 「当然でしょ? ほら、今なら新聞部の特別許可証が使えるのよ。学院地下区画の視察よ!」

 「地下区画……?」

 聞き慣れぬ言葉に、愛海が首を傾げる。すると巧が少し表情を引き締めた。

 「正式な授業エリアとは別に、研究用の実験施設が地下に広がってるらしい。けど、立ち入りには原則許可が必要なんだ。いちか、どうやって許可証を?」

 「それはまあ、新聞部の諸先輩方がね。過去の記事と引き換えに……色々と交渉してくれたわ」

 「合法なのか非合法なのか微妙だな……」

 蒼士は溜息をつきつつも、興味が勝った。

 「それで、何が見たいんだ?」

 「感情共鳴災害の研究現場。今のままじゃ、私たちが何に巻き込まれているのか核心に届かないでしょ?」

 この行動力はある意味で新聞記者の鑑だった。蒼士は一瞬迷ったが、意を決して頷く。

 「わかった。行こう。中身を知らずに怯えてるだけより、よほど前向きだ」

 「私も行くよ!」

 愛海が続き、恵実も少し不安げにしながらも頷いた。

 「わ、私も……皆がいるなら」

 「決まりね!」

 意気揚々といちかが先導し、一行は学院本館の裏手にある地下研究区画へのエレベーターへと向かった。

 カードキーをかざすと、重々しいドアが静かに開く。地下へと降りていくエレベーター内部は無機質で、まるで巨大な研究所のようだった。

 「……思ったより、普通の研究所っぽいな」

 蒼士がぽつりと呟く。だが、ドアが開いて一歩踏み出した瞬間、別世界の空気が彼らを包んだ。

 無数の配線が絡み合う通路、壁面の大型モニターには感情波形データと思しきグラフが乱れながら映し出されている。防護服を着た研究員たちが忙しなく機器を調整していた。

 「ここが……」

 「感情共鳴の測定室か……?」

 蒼士たちは、研究所の中心部に向かって静かに歩を進めた。

 その先で待っていたのは――




 ――その先で待っていたのは、一人の少女だった。

 長身で黒髪を後ろでまとめた姿。白衣の上にIDプレートを提げ、タブレットを操作しながら無表情でこちらを見つめていた。周囲の研究員たちとは異質な空気を纏っている。

 「……新人、だな?」

 淡々とした口調。その声音は硬質で、まるで機械が喋っているような印象すら与えた。

 いちかが恐る恐る一歩前に出る。

 「ええ、新聞部の取材許可で来たんだけど、あなたは?」

 「すみれ。ここの感情共鳴データ解析主任だ。許可証を確認する」

 いちかが提示すると、すみれは瞬時に内容をスキャンし、無感情に頷いた。

 「問題なし。だが──」すみれの目が蒼士たちへ向けられた。

 「君たちは“適合者候補”だ」

 「……適合者候補?」

 蒼士は反射的に聞き返した。すみれはほんのわずかだけ口角を上げる。

 「この島に封じられている“月涙核”──感情を異常増幅させる核装置。その制御適合者となり得る素質が、君たちには高い確率で認められている。少なくとも、現段階の初期波形検査ではな」

 背筋が凍るような情報だった。

 「……俺たちが……そんな危険なものの……?」

 「危険? 視点の違いだ。感情は本質的に危険でもあり、最大の力源でもある。制御できれば恐れる必要はない」

 冷静に言い切るすみれ。その背後では大型スクリーンに次々と感情波形データが流れていく。赤、青、黄、紫――人の感情が数値として描き出されていた。

 「まあ、ざっくり言えば……ここにいる時点で、もう普通の生徒じゃないってことね」

 いちかが溜息混じりにまとめた。

 「待てよ」蒼士が口を開いた。「それってつまり――俺たちが、この共鳴災害の根本に関わる存在だってことか?」

 すみれは一瞬だけ、興味深そうに蒼士を見つめた。

 「その理解は正しい。君たちは選ばれた。だが、最終適性はこれから決まる」

 蒼士は静かに拳を握った。

 「だったら、俺はこの力を学ぶ。制御してみせる。誰かを苦しめるものじゃなく、守れる力に変えたい」

 その言葉に、愛海も恵実も巧も、静かに頷いた。彼らの間に確かな決意が共有された瞬間だった。

 すみれは感情の薄い声で最後に言った。

 「興味深い宣言だ。今後の適合評価に期待しよう」

 こうして、蒼士たちは初めて“学院の核心”に触れた。

 まだ何も始まっていない。だが確実に、ここから彼らの日常は大きく動き始める――

(第二話 完)

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