エモーショナル・ブレイク 蒼穹学院感情調律録

mynameis愛

第一話「孤島に灯る共鳴」

 白いフェリーが静かに月映島の港へと滑り込んでいく。夕暮れの空は淡く茜色に染まり、波打ち際に反射する光がきらめいていた。蒼士はデッキの手すりに手を置き、眼前に広がる島の輪郭を眺めていた。

 ――ここが、これから暮らす場所か。

 吹きつける潮風が、制服の襟元を軽く揺らした。父親の単身赴任に伴い、蒼士はこの春から月映島に引っ越してきた。本土とは違う、どこか静かな孤独と緊張感を孕んだこの島に、少し胸の奥がざわめく。

 タラップが降ろされ、乗客たちが続々と船を降り始めた。蒼士も重いキャリーバッグを引きながら桟橋へと歩を進める。港の向こうには、白亜の高台にそびえる巨大な建物が見えた。あれが「蒼穹学院」だ。国立の研究学園であり、父が勤務する新設の教育研究機関である。

 足を踏み出した途端、蒼士は声をかけられた。

「新入生? 本土から来たの?」

 ふいに現れたのは、ショートカットの少女だった。鋭い眼差しの奥に、何か探るような好奇心がきらめいている。彼女はいかにも馴染みのカメラを肩から下げ、記者証らしきものを首に提げていた。

「ああ、そうだけど……君は?」

「私はいちか。学院の新聞部よ。君の名前は?」

「蒼士。今日から蒼穹学院に通うことになった。」

 名乗ると、いちかはにんまりと微笑んだ。

「じゃあ、歓迎取材開始ね」

「取材って……なんの?」

 蒼士が少し面食らうと、いちかは周囲をちらりと見渡しながら声を潜めた。

「この島で、最近『感情共鳴災害』ってのが頻発してるの。知ってる?」

「感情共鳴災害……?」

「そう、特殊な現象。人の感情が膨れ上がって、周囲に影響を及ぼすの。泣きたくもないのに突然涙が出たり、怒りが移ったり。時には爆発的なエネルギーにまで発展するのよ。」

 蒼士は思わず苦笑した。

「そんな……超常現象みたいな話、本当に?」

「この島じゃ、冗談にならないわ。実際に被害も出てる。私たち新聞部は、その原因と真相を追ってるの」

 いちかの目は真剣だった。まるで探偵のように事件の核心を探っている視線。

「君もすぐにわかるわよ。蒼穹学院は、普通の学校じゃないから」

 そう言うと、いちかは軽く手を振って去っていった。蒼士はぽかんとその背中を見送った。新天地早々、妙な洗礼を受けた気分だった。

 港から出ると、迎えの車が待っていた。父が手配してくれた学院の送迎車だ。運転手の男性が恭しく頭を下げる。

「蒼士様ですね。お荷物をお持ちします。寮まではすぐですよ」

 静かな車内。夕暮れに沈む町を眺めながら、蒼士は先ほどのいちかの言葉を思い返していた。

――感情共鳴災害?

 荒唐無稽だが、どこか妙に引っかかる響きだった。




 寮は学院の南端、海を見下ろす小高い丘の上に建っていた。白を基調とした四階建ての近代的な建物だが、どこか静かな威圧感を纏っていた。新入生用のフロアは三階。部屋番号は310。カードキーを使って扉を開けると、思ったより広い個室が迎えてくれた。

 机、ベッド、本棚、簡易キッチン、バスルームまで揃った小さな一人暮らし用の空間。窓の向こうには、オレンジ色に染まる海が広がっている。

「……まるでリゾートみたいだな」

 だが、静けさが妙に耳に残る。島全体が、どこか重い空気に包まれているような錯覚さえ覚えた。

 荷解きを終え、簡単に夕食を取ると蒼士はベッドに横になった。移動疲れもあって、すぐに眠気が押し寄せる――はずだった。だが。

 ――苦しい……?

 胸の奥が、じわりと締め付けられるような重苦しさに襲われた。悲しみが、理由もなくせり上がってくる。まるで親しい誰かを失った直後のような、説明のできない絶望感。

 呼吸が荒くなる。涙が滲む。ベッドから起き上がろうにも、体が重い。なぜ? 何が起きている? 混乱しながら必死で理性を保とうとしたそのとき――

 「やっぱり出たな!」

 ドアが勢いよく開け放たれ、少年が駆け込んできた。少し小柄で黒髪の整った顔立ち、手には小型のスプレー缶を握っている。

「悪い、失礼!」

 少年はそう叫ぶと、蒼士の顔に向かって勢いよくスプレーを噴射した。ほのかなミントの香りが鼻腔を満たし、次第に胸の重苦しさが引いていく。息がしやすくなり、涙も止まった。

「はあ……助かった、けど……君は……?」

 息を整えながら蒼士が尋ねると、少年はにこりと微笑んだ。

「巧。僕もここの新入生。感情応急処置剤を常備してたんだ。まさかいきなり発症するとは思わなかったけど」

「発症って……まさか、これが“感情共鳴災害”なのか?」

 蒼士の問いに巧は真剣な表情でうなずいた。

「この島では珍しくないんだ。特に新しい環境に適応しきれていない人ほど、感情が乱れやすい。でも……今の君のは自然発生とは少し違う気がするな」

 「違う?」

 「うん。多分、島のどこかで別の共鳴が発生して、それが誘発された形だと思う。君は共鳴しやすい体質なのかもしれない」

 蒼士は目を見開いた。

「共鳴しやすい体質……そんなのがあるのか?」

 「あるさ。特にこの学院の生徒には多い。実は――」

 巧が口を開きかけたその瞬間、廊下の奥から怒鳴り声が飛んできた。

「おい、巧! また勝手に薬使ったのか!? 手続きが要るって何度言わせる!」

 現れたのは寮監らしき厳つい男性だった。巧は苦笑しながら頭をかいた。

「まあ、正式な説明は明日学院で。今日はゆっくり休んだほうがいいよ」

 そう言って、巧は寮監に追われるように廊下の奥へと走り去っていった。

 残された蒼士は、ようやく心拍を落ち着けながら、静まり返った部屋の天井を見上げた。

「……普通の島じゃない、か。いきなり実感する羽目になるとはな」

 胸の奥に、奇妙な高揚感が芽生えていた。怖さよりもむしろ、未知への好奇心が勝りつつあった。




 翌朝。寮の窓から射し込む朝日が、蒼士の顔を優しく照らしていた。昨夜の異常な体験がまるで夢のように思えるほど、外は穏やかだった。だが、目覚めた瞬間から蒼士の胸の内は静かに沸き立っていた。今日から正式に学院生活が始まるのだ。

 制服に袖を通し、食堂で朝食を取った後、寮の玄関を出ると、すぐ目の前の坂道の上にそびえる蒼穹学院が目に入った。巨大なガラス張りの校舎が朝日を反射して輝いている。人工湖を囲むように配置された研究棟、講義棟、体育館。その中央に屹立する白亜の塔――まるで近未来都市のようだった。

「さて……始まるか」

 蒼士が歩き出そうとしたその時、また声をかけられた。

「おはよう、昨日の取材はどうだった?」

 いちかだった。今日もカメラを提げ、記者魂を燃やしているらしい。

「いきなり歓迎してもらったよ。君の言ってた通り、感情共鳴災害ってやつを体験した」

「ふふ、でしょ? 面白い世界に来た実感、湧いてきた?」

 いちかは得意げにウインクしてみせた。蒼士は肩をすくめる。

「まあ、面白いと言っていいのかは微妙だけどな」

 二人は並んで坂道を登りながら話を続けた。

「感情共鳴災害って、いったい何が原因なんだ?」

「それを探るのが私たち新聞部の仕事よ。噂では、島の地下に眠る古代の遺物が関係してるとか、感情を増幅する何かがあるとか……。でも公式発表はどれも曖昧。」

 「政府も学院も真相を隠してるってことか?」

 「隠してるというより、“制御できてない”の方が近いかな」

 学院の正門に着くと、大勢の新入生たちが集まり始めていた。初々しい制服姿の少年少女たちが、期待と緊張の面持ちで式典会場である体育館へと吸い込まれていく。

 蒼士も列に並び、いちかとは一旦別れた。体育館に入ると、内部はすでに厳かな雰囲気に包まれていた。巨大なステージ。背後には蒼穹学院の紋章が金色に輝いている。

「新入生代表挨拶、蒼士くんはこちらです」

 係員に促され、蒼士は壇上裏の控えスペースへ案内された。父親が手配してくれた推薦枠のおかげで、代表挨拶の大役を任されることになっていた。

 ステージに立つと、無数の視線が集中する。しかし蒼士は微塵も怯まなかった。もともと人前に立つのは嫌いではない。

「本日、蒼穹学院に入学する我々新入生一同は――」

 落ち着いた声で宣誓文を読み上げる。積極的に何事も取り組もうと決意する自身の言葉が、自然と力を帯びていた。

「……共に学び、困難に立ち向かい、未来への礎を築くことを誓います!」

 会場からは拍手が湧き起こった。蒼士は誇らしげに胸を張り、視線を遠くの父親へと送る。父は穏やかな微笑みで小さくうなずいた。

 だがそのとき、背後から何かが倒れるような音が響いた。

「う……うぅ……!」

 振り返ると、壇上裏の控え席で一人の少女が崩れ落ちていた。栗色の髪、柔らかな雰囲気――恵実だった。彼女は膝を抱え、肩を震わせ、号泣していた。

「誰か、誰か助けて!」

 周囲がざわつく中、蒼士は即座に駆け寄った。抱き起こすと、彼女の頬は涙でぐしゃぐしゃだった。まるで深い悲しみの淵に落ちたかのように、理性が吹き飛んでいる。

(これも共鳴災害か!?)

 「恵実! しっかりしろ!」

 蒼士は彼女の肩を抱きしめ、必死に呼びかけた。そこへ巧が再び現れた。

「蒼士、任せて!」

 巧は素早く応急スプレーを噴射する。ミントの香りと共に、恵実の呼吸が少しずつ落ち着き始めた。蒼士はその背を優しく撫で続けた。

「……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 涙を拭いながら恵実は呟いた。




「もう大丈夫だよ、恵実。安心して」

 巧が穏やかな声で語りかけ、蒼士は彼女の手をそっと握った。徐々に恵実の肩の震えは収まっていく。会場のざわめきも、学院職員たちの誘導によって次第に静まり始めた。

 ステージ脇では、一人の男性が事態の収拾を冷静に見届けていた。銀縁眼鏡に端整な顔立ち、白衣の上から学院理事長の紋章入りのローブを羽織っている。

 輝だった。理事長であり、この蒼穹学院を実質的に取り仕切る存在だ。

 「これも、彼らの試練のひとつかもしれんな……」

 小さく呟くその声は、どこか達観した響きを帯びていた。まるで全てを見通しているような深い瞳が、蒼士たちの姿を見つめている。

 式は遅れながらも無事に再開された。蒼士は恵実を巧と協力して保健棟へ運んだ。医務室のベッドに横たわった恵実は、まだ少しだけ不安そうに蒼士を見つめた。

「ごめんなさい……私、また迷惑かけて……」

「気にするなよ。困ったときはお互い様だろ?」

 蒼士が微笑みかけると、恵実はわずかに頬を赤らめた。そこへ保健担当の女性教員が入ってきた。

「しばらく休めば大丈夫でしょう。幸い、早めに処置できたから大事には至らなかったわ」

 「はい……ありがとうございます」

 恵実は小さく頭を下げた。

 巧が蒼士の肩を軽く叩く。

「初日から災害対応とは、大した度胸だったな」

「いや、ただ必死だっただけさ。でも……これが日常なんだな、ここでは」

 「そういうことだ。俺たちは共鳴災害の中で生きていくことになる」

 窓の外では春風が緑の木々を優しく揺らしていた。だがその裏側で、この島に渦巻く異常なエネルギーが確かに存在している。蒼士はそれを、ようやく肌で実感し始めていた。

 その日の午後、入学オリエンテーションが行われた。講堂の前方には学院の主要教職員が並び、理事長の輝がゆっくりと壇上に立った。

「新入生諸君、ようこそ蒼穹学院へ。君たちは、この月映島という特別な地で、特別な使命を担うことになる」

 輝の声は決して大きくはない。だが、自然と全員の耳を惹きつける不思議な重みがあった。

「君たちが直面する“感情共鳴災害”は、単なる異常現象ではない。これは人類がいまだ解明できぬ『感情の力』そのものだ。そして我々蒼穹学院は、その本質を探るために設立された」

 会場が静まり返る。

「だが恐れる必要はない。我々には知識があり、技術がある。そして、これから君たちが身につける『制御の技』がある」

 輝は一瞬、蒼士たちの方に視線を送った。まるで既に彼らが“候補”であることを見抜いているかのようだった。

「感情は凶器にも、武器にも、あるいは希望にもなり得る。諸君には、その力の意味を知ってもらう。そして、正しく使う術を身につけて欲しい」

 輝の言葉は、蒼士の胸に深く刻まれた。

(制御……か。自分の感情を、力に変える術)

 蒼士は無意識に拳を握りしめた。ここでなら、それが学べる気がした。未知の力を制御するために――。




 オリエンテーションを終えた夕刻、蒼士は学院の敷地を散策していた。人工湖の水面が夕日に照らされ、金色の波紋を広げている。その静かな景色が、今日一日の騒がしさをほんの少しだけ癒してくれる気がした。

 ――すると、芝生の向こうから誰かが手を振ってきた。

「蒼士くん!」

 愛海だった。柔らかな雰囲気に包まれた少女で、彼女もまた新入生だった。

「さっきの挨拶、すごく良かったよ。堂々としてて、ちょっと感動しちゃった」

 「ありがとう。正直、少し緊張してたんだけどね」

 愛海はふわりと笑った。

「でも、本当にすごいと思う。今日だけで色々あったけど、蒼士くんがいたから恵実ちゃんも助かったし」

 「いや、巧がすぐ駆けつけてくれたおかげだよ。あいつ、何者なんだ?」

 「巧くんはね……実は感情制御の薬品を専門に研究してるの。すごく几帳面で、計算も得意で」

 「なるほどな。あの冷静さはただ者じゃないと思った」

 愛海はふっと目を細めた。

「……でも、やっぱり、私たちがここに集められたのって、きっと偶然じゃないんだと思う」

 「偶然じゃない?」

 「うん。この学院に入る子って、ほとんどみんな共鳴に影響を受けやすい体質らしいの。だから、私も少し……怖い」

 愛海の声が小さく震えていた。彼女の手が無意識に胸元を押さえているのに気づいた蒼士は、思わず口を開いた。

「でも、恐れる必要はないさ。今日の理事長の話を聞いて思った。ここならきっと、学べる。どうやって自分の感情を力に変えるのかを」

 蒼士の真っ直ぐな眼差しに、愛海は驚いたように目を見開いたあと、優しく微笑んだ。

「……ありがとう。蒼士くんって、本当に前向きだね」

 その時だった。湖畔の茂みから、かすかな震動音が聞こえてきた。次の瞬間、空気が揺れるような違和感が肌を撫でた。蒼士も愛海も同時に身構えた。

「……共鳴の前兆?」

 「たぶん!」

 しかし、今回は何も起きなかった。ただ、茂みの中に影が一瞬動いたのが見えただけだった。

「誰か……いた?」

 愛海が不安げに呟いた。蒼士も険しい表情で茂みを睨んだが、すぐに何者かの気配は消えた。

「……様子を見た方がいいかもしれないな」

 「うん、でも今は無理しない方がいい。まだ私たちは訓練も受けてないし」

 蒼士は頷いた。ふと、昼間いちかが言っていた言葉が頭をよぎった。

――この学院は、普通じゃない。

 確かにその通りだ。この島では、何かが動き始めている。

 感情共鳴災害――それは単なる異常現象ではなく、何かもっと大きな力の片鱗なのかもしれない。自分はこれから、その渦中に身を置くことになるのだ。

 だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、蒼士の胸の奥には燃え上がるような決意が芽生えていた。

(何があろうと、この島で……自分の力を試してみせる!)

 夕日が海の彼方へ沈み、夜の帳が月映島を静かに包み込んでいった――。

(第一話 完)

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