第四話「寮中庭深夜」

 春の夜風が、静かな学院寮の中庭を優しく撫でていた。石畳の隙間からわずかに覗く草花も、眠りに就くように揺れている。

 蒼士は自室のベランダから、そんな穏やかな夜景を眺めていた。明日から本格的な感情共鳴制御訓練が始まるという通知が、夕方学院から届いていた。

 (いよいよ始まるんだな……)

 すみれの言っていた「適合評価」が、現実のものとなった。いちかの取材で核心に少し踏み込んだが、全貌はまだ見えないままだ。

 静かに夜風に当たっていると、ふと下の中庭に人影が動くのが見えた。

 「あれは……恵実?」

 こんな夜更けに何をしているのだろう。気になって蒼士はすぐに上着を羽織り、階段を駆け下りた。

 中庭では、恵実が独りベンチに座っていた。顔を膝に埋め、肩が小さく震えている。

 「恵実、大丈夫か?」

 声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げた。目元は赤く腫れている。

 「……蒼士くん……ごめん、起こしちゃった?」

 「いや、たまたま起きてただけだよ。どうしたんだ、こんな時間に」

 恵実は少し迷いながらも、ぽつりと口を開いた。

 「明日からの訓練が怖くて……自分の感情が制御できなかったら、また迷惑かけるんじゃないかって……」

 その言葉には、強い自己否定の影が滲んでいた。

 「誰かを傷つけるくらいなら、いっそ私、適合者になんて選ばれなければ良かったのに……」

 蒼士はしばらく沈黙した後、ゆっくりと恵実の隣に腰を下ろした。

 「恵実、俺も怖いよ」

 「え……?」

 「俺だって何もわからないまま、選ばれて、明日からいきなり訓練だ。共鳴なんて自分の感情すら制御できる自信はないさ」

 恵実は驚いた顔で蒼士を見た。蒼士は笑って続ける。

 「でもな、たぶん俺たちに必要なのは“迷惑をかけないこと”じゃないと思うんだ」

 「必要なのは……?」

 「“助け合うこと”さ。自分の感情が溢れそうになったとき、誰かがそばにいてくれるだけで違うだろ?」

 「……」

 恵実の目が潤む。

 「今日みたいに、お前が一人で苦しんでたら、またこうして俺は飛んでくるさ。そしたら今度は、隣に俺がいる分だけ少し安心できるだろ?」

 「……うん」

 恵実は小さく微笑んだ。そして言葉を詰まらせながらも、ぽつりと呟いた。

 「蒼士くん、優しいね……」

 蒼士は照れ臭そうに頭をかいた。

 だが――その瞬間だった。

 突如、辺りの空気が変わった。まるで夜気が濃密に重くなるように、異様な熱気が中庭に漂い始めた。

 「……え?」

 恵実が怯えたように身を縮める。蒼士も異常を察知し、周囲を見回した。

 ――花壇の奥。芝生の先の暗がりで、赤黒い靄のようなものが蠢いている。




 赤黒い靄はまるで生き物のように渦を巻き始め、じわじわと膨張していく。その中心から放たれるのは、重い怒りのような感情の圧力だった。蒼士は思わず歯を食いしばった。

 「……共鳴発生だ!」

 「いやああっ!」

 恵実が頭を抱え、膝を抱きしめる。彼女の体からも、わずかに赤い光が立ち上り始めていた。

 「恵実、しっかりしろ! 引き込まれちゃダメだ!」

 蒼士は彼女の肩を揺さぶるが、彼女の表情は苦痛に歪んでいく。呼吸が荒く、目に涙が滲んでいた。

 (まずい、完全に感情の暴走が始まってる……!)

 と、その時――

 「蒼士! 下がって!」

 背後から巧の声が飛んだ。駆けつけた彼は手にいつもの応急処置スプレーを持っている。しかし、すぐに判断した。

 「ダメだ、スプレーじゃ間に合わない! これまでの発作と違う。あの赤黒い靄、外部の増幅源が近くにある!」

 「増幅源……?」

 「誰か、もしくは何かが意図的に恵実の怒りを誘発してる!」

 その瞬間、恵実の周囲に炎のような赤い光が噴き上がった。周囲の芝生が焼け焦げ、植え込みの一部が火花を散らして倒れた。

 「紅蓮の共鳴……!」

 巧が叫ぶ。蒼士は恵実を庇うように立ちふさがったが、熱気が肌を刺した。

 「このままじゃ寮全体に火が移るぞ!」

 「止めるしかない……!」

 蒼士は必死に周囲を見回す。消火設備――すぐ近くの壁に、非常用放水栓が設置されているのを見つけた。

 「巧、ホースを頼む!」

 「了解!」

 二人はすぐさま駆け寄り、ホースを引き出してバルブを開ける。重い水流が勢いよく噴き出し、蒼士はそのままホースを抱えて恵実へと駆け戻った。

 「恵実、ごめん、耐えてくれ!」

 叫ぶと同時に、蒼士は放水の先端を恵実の全身に向けた。冷たい水が勢いよく降り注ぎ、赤い炎のような光を打ち消していく。

 「くっ……あああああ……っ!」

 恵実は必死に目を閉じ、唇を噛みしめて震えていたが――やがて赤い光は弱まり、消えていった。

 ようやく炎の渦が完全に収まり、中庭に静寂が戻った。

 「……恵実!」

 蒼士が駆け寄ると、彼女はびしょ濡れのままゆっくりと顔を上げた。涙と水滴が混じり合い、震える声で呟く。

 「……ありがとう、蒼士くん……ごめんね……」

 「もう大丈夫だ。無事で良かった」

 蒼士は彼女をそっと抱きしめた。全身が冷え切っている。だが、その体から発せられる危険な共鳴エネルギーはもう感じなかった。

 その様子を少し離れて見ていた巧も、大きく息をついた。

 「……とんでもない適合度だな、これは」




 夜の中庭にようやく静けさが戻った。しかし、焦げた芝生の焦げ臭い匂いがまだ漂っていた。蒼士は恵実の背中を優しく撫でながら、安堵と共に自分の脈打つ心臓の音を聞いていた。

 ――本当に危なかった。

 あと一歩、対応が遅れていれば寮全体が火に包まれていてもおかしくなかった。それほどまでに、共鳴の力は危ういのだ。

 その時、愛海が駆け込んできた。寝巻き姿のまま、顔には心配の色が濃く浮かんでいる。

 「みんな! 大丈夫? すごい光と音がして……」

 状況を見て愛海は蒼士の隣にしゃがみ込み、恵実の手をそっと握った。

 「恵実ちゃん……!」

 恵実は小さく笑った。涙混じりの、でも確かに安心した微笑みだった。

 「愛海ちゃん……ごめんね、心配かけて……」

 「無事ならいいの。もう、何があっても一人で悩まないでって約束だよ」

 愛海の言葉に、恵実は大きく頷いた。二人の間に温かな空気が流れる。

 その後、寮監や学院職員が騒動を聞きつけて駆けつけ、現場検証と報告作業が始まった。巧は状況説明を冷静に整理し、スプレーの使用履歴まで提出していた。

 「……すでに事後処置は済んでます。放水による鎮火、恵実さんの精神安定化、応急処置薬剤投与――問題は収束済みです」

 「流石だな、巧」

 蒼士は小声で呟いた。巧はあくまで冷静だったが、その表情の奥にはほんの僅かな緊張が滲んでいた。

 「この島では、こうした事例は想定内の範囲だ。だが、今回は異例だな」

 職員たちの中で、ひときわ静かな声が割って入った。現場に現れたのは理事長・輝だった。

 「理事長……!」

 「蒼士、巧、愛海、そして恵実――よく対処してくれた。特に蒼士の初動判断は素晴らしかった。だが……」

 輝の眼差しが鋭くなる。

 「この“紅蓮の共鳴”は自然発生ではない可能性がある」

 「……自然発生じゃない?」

 「外部誘発因子の存在が疑われる。つまり、何者かが意図的に共鳴暴走を引き起こした可能性があるのだ」

 蒼士は無意識に拳を握りしめた。

 「まさか……島内に何か仕掛けてる者がいるってことですか?」

 「現時点では断定できん。ただ、これが単なる偶発現象の連鎖ではないことは、そろそろ皆も理解しておくべきだろう」

 輝の静かな言葉が、中庭の夜気の中に重く響いた。




 「理事長、もしそれが誰かの仕業なら――」

 蒼士の声に、輝はゆっくりと首を振った。

 「今は追及よりも優先すべきことがある。君たちはまだ“制御訓練”の入り口に立ったばかりだ。共鳴に対抗する術を身につけねば、いかなる陰謀も看破はできん」

 「制御訓練……」

 蒼士は改めてその言葉を噛み締めた。

 「本日未明の事案を受け、明日からのカリキュラムは一部変更される。適合者候補の中でも、特に感受性の強い者は優先的に実践訓練へ移行させる方針とする」

 その視線は、蒼士と恵実に向けられていた。

 「君たちも、その対象に含まれる」

 蒼士は一瞬たじろいだが、次の瞬間には強く頷いた。

 「はい。やります。自分の感情を制御できなければ、いずれもっと大きな災害が起きる……それが分かりました」

 隣で恵実も小さく、でも確かな声で答えた。

 「私も……逃げない。皆がいるから、大丈夫……!」

 理事長は静かに微笑んだ。

 「良い覚悟だ。では明日より、特別訓練班に編入してもらう。すでに担当教官の選定も済ませてある」

 「担当教官?」

 「君たちの訓練は、感情共鳴の制御に精通する教官陣が直接監督する。適合者は皆、まだ未熟だ。だが制御を学ぶことで、いずれ共鳴そのものを打ち消す“調律者”へと成長できる」

 その言葉に、蒼士は息を呑んだ。

 (“調律者”……それが、この学院が本当に目指している役割なのか)

 輝は背後の職員に小さく合図を送り、事後処理の指示を任せた後、ゆっくりと歩み去っていった。

 残された蒼士たちは、しばらく無言のまま立ち尽くした。

 「……いよいよ、だな」

 巧がぽつりと呟く。

 「うん。でも、今なら乗り越えられそうな気がするよ」

 愛海が微笑む。恵実も小さく頷いた。

 「みんながいてくれるから……」

 その言葉に、蒼士は強く拳を握りしめた。

 (守る力じゃない。“支え合う力”なんだ、これは)

 まだ誰も知らない真実の中心へ向かって、彼らの戦いは静かに加速し始めていた。




 翌朝。早朝の学院グラウンドには、訓練用に用意された特殊設備が並べられていた。防御壁に囲まれた広い円形の訓練場、その中心に並ぶターゲット人形群。まるで戦闘演習でも行われるかのような光景だ。

 「まさか初日からこれとはな……」

 蒼士は苦笑しながらも、少し心が躍っているのを感じていた。隣には巧と愛海、そして恵実が立っている。全員が特別訓練班に編入されたのだ。

 そこへ歩いてきたのは、一人の女性教官だった。長身で引き締まった体躯、切れ長の瞳が鋭く光っている。

 「お前たちが特別訓練班の新メンバーだな。私は教官の神崎だ。今日からお前たちの“感情調律”の基礎を叩き込む」

 声は低く冷徹だが、威圧感ではなく芯の通った厳しさがあった。彼女の背後では複数の監視用ドローンがホバリングしている。

 「ここでは甘えは通用しない。感情は制御できなければ命を奪う凶器になる。制御すれば武器にも盾にもなる。その差を理解しろ」

 鋭い声が訓練場に響き渡った。

 「まずは基礎測定だ。一人ずつ感情波動を確認する。順番に前に出ろ!」

 「はい!」

 蒼士は一番手として進み出た。すでに迷いはなかった。昨日の夜、恵実の暴走を目の当たりにし、自分もまた同じ危険性を抱えていることを悟ったからだ。

 (でも俺は、乗り越える。感情は制御できる力に変えられる!)

 蒼士の決意を見上げる空は、今日も蒼穹の名にふさわしく青く広がっていた――

(第四話 完)

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