魔族の彼女はダメなスパイ
まきざき はすみ
酒場の限定メニュー
人魔戦争。人は文明を築き、魔が牙を剥く。
共に生きる道はなく、ただ争うのみ。
人間によって繁栄を極めたドーデモ国と、魔王が支配するキョウミナ国。両国は現在、睨み合いと小競り合いを繰り返し、常に緊張状態にあった。
そんな最前線から遠く離れたドーデモ国の中央。ここは王都ダカラナニ。戦火の気配など微塵もない大都市で、石畳の大通りを馬車が行き交い、商人が声を張り上げ、子供たちは追いかけっこに興じる。
この都市は、国の心臓部。何も起こらないなどと誰が言えるだろう。その証拠に、今この時も。
「今日の限定メニューは、まだ不明⋯⋯」
酒場のチラシを見つめながら、真剣な顔で呟く一人の少女。年の頃は十代半ば。薄汚れたマントを羽織り、フードを目深にかぶっている。
名前はルナ。魔王直属のスパイである。
「王都で一二を争う酒場、酔いどれオドレ。昨日はイカの丸焼き⋯⋯」
路地の陰から身を乗り出すルナ。視線は、店先の木の立て札に注がれる。そこにはチョークでこう書かれていた。
『本日限定メニュー:タコの唐揚げ』
その文字を見た瞬間、ルナの瞳がカッと見開かれる。気圧されるような気迫を放ち、彼女は素早く懐から手帳を取り出した。ペンを走らせる。
◆極秘情報No.001
『酒場“酔いどれオドレ”本日の限定はタコの唐揚げ』
→海鮮の傾向あり。明日はエビか? 継続観察。
「この情報は魔王様も喜ぶはず」
本気の顔で頷き、軽く伸びをしたルナは小さな手帳を閉じ、懐にしまい込んだ。
その直後。
きゅるるるぅぅぅ。
「⋯⋯⋯⋯」
しばしの沈黙。ふと目をやると、酔いどれオドレの窓越しに、湯気を立てるタコの唐揚げが見えた。衣はカリッと、タコはぷりっぷり。まるで私を呼んでいる。
それはもはや、情報というより飯テロであった。
「スパイは私情を挟まない⋯⋯」
自分に言い聞かせるように呟く。しかし、足は前に出る。懐を探る手は、慣れた動作で中身を確認する。手帳、暗器、変装道具──そして、小銭袋。
理性と食欲の戦争状態。やがて、その戦いは敗北した。
「⋯⋯食欲に負けたわけじゃない。これは試食」
言い訳スキルだけは一流。結局、彼女は暖簾をくぐった。
酒場の中は活気に満ちていた。木造の梁が向き出しの天井には、古びたランタンがぶら下がり、黄色い光が揺れている。酒臭く、そして旨そうな香りが鼻をくすぐる。
ジョッキを打ち鳴らして笑う男たち、肘をついて話し込む女たち。
(⋯⋯情報の宝庫)
カウンターに座ったルナの目は真剣だ。会話の断片も聞き逃さない。
「おう、嬢ちゃん、いらっしゃい!」
カウンターの向こうから、陽気な声がかかる。店主のおじさんが、丸っこい腹を揺らしながら笑う。その背後では大きな油鍋がぐつぐつと音を立て、他の料理人たちも忙しそうに鍋を振っていた。
小さな声でタコの唐揚げを注文。おじさんはにこやかに頷く。そして手際よくタコの切り身を粉にまぶし、油鍋へと投入する。ジューッと弾ける音同時に、香ばしい匂いが一帯を支配した。
(完全に兵器⋯⋯まだこんな戦力を有していたなんて)
ルナは必死に冷静を装ったが、視線は釘付けだ。隣の客が「お、唐揚げだな」と視線を寄せても気づかない。スパイの矜持も食欲の前には脆い。
数分後。皿の上には黄金色に輝くタコの唐揚げが並んでいた。カリカリの衣、断面からは白く柔らかい身がのぞいている。横にはレモンの塩の小皿。ルナはごくりと唾を飲み込む。
「い、いただきます⋯⋯」
カリッ。じゅわっ。
「⋯⋯っ!?」
目を見開く。口内で広がるのは、油の香ばしさとタコの弾力。なのに噛み切れる。止まることなく食べ続ける。塩気と旨味が溶け合い、レモンの酸味がそれを引き締める。
「んんっ⋯⋯! 最高」
今すぐ魔王様に報告したいレベル。周囲の客がザワついているが気にしない。ルナは本気だった。そして静かに手帳を取り出し、書き加える。
『悪魔的な美味しさ。再調査が必要』
決してもう一度食べたいからではない。断じて違う。情報の精度を高めるため。タコの唐揚げを食べる彼女の顔は、戦場で生き残った者のように誇らしげであった。
翌朝。
魔王は、山のように積まれた報告書の中から、一枚の薄っぺらい紙を取り出す。それだけで、誰の報告かは察しがつく。
彼は静かに椅子にもたれ、報告書に目を通す。そして。
「めっちゃ食べたくなったんだが?」
そう言いつつ、思わず口元がほころぶ。
戦争中のスパイ活動。通常ならば、人間軍の動向や軍事施設の配置図などが報告されてくるはず。しかしルナの報告は、戦火とはほど遠い。
「それで、満足気に書いてるんだからなぁ⋯⋯あいつは」
呆れたように、けれどどこか嬉しそうに魔王はその報告をファイルに収める。【戦況報告】でも【重要資料】でもなく、専用の小さなファイルに。そのラベルには、彼の字でこう書かれている。
【ルナの報告】
魔王は小さく溜息をつき、窓の外の空を見上げた。
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