第一章

1

チャイムが鳴っても、尚斗の心臓の音だけは鳴り止まなかった。

木の床を踏むたび、靴の底がかすかに軋む。

誰かの笑い声、椅子を引く音、紙がめくられる気配——

全部が遠くて、自分だけ時間の外にいるような感覚だった。

教室の一番後ろの席に、斜めに貼られた名前札。

そこだけ、空気が沈んで見えた。

椅子を引く音が、必要以上に響いた。前の席の女子がちらりと振り返り、すぐに目を逸らす。

「転校生の尚斗くんや。みんな仲良うしてやってな」

担任の笑顔は優しかったが、その目は尚斗の肩の少し上を見ていた。

「……よろしくお願いします……」

声は喉の奥に引っかかったまま、前には届かなかった。

先生が何か続けて言っていたけど、尚斗の耳には教室の外のカラスの声しか入らなかった。

鞄を机の横にかけて座ると、椅子の背が少しぐらついて背中を突き刺した。

机の中をそっと覗く。

——前の学校みたいに、ゴミが押し込まれていなくて、少しだけ安堵する自分が、なんだか悔しかった。

窓の外。風に揺れる鉄棒のきしむ音が、ずっと耳の奥に残る。

何もない。誰もいない。

……それが今は、一番、助かっていた。


2

放課後のチャイムが、どこか遠くで鳴った気がした。

逃げ場ができたようで、少しだけ呼吸が楽になった。

机に入れていた教科書を鞄に詰めると、周りの声が急に遠のいていく。

クラスメイトの誰かが名前を呼んだような気がしたけど、聞こえなかったことにした。

昇降口で靴を履き替える。

つま先をトントンと打って、小石が入っていないか確かめる。

何もなかった。——それだけで、また安堵する自分がいた。

こういう確認をやめたいのに、体が勝手に覚えてしまっている。

校門を出ると、夕方の風が制服を揺らした。

人の気配が遠くなっていく。

尚斗の靴音だけがアスファルトに残った。

祠の火のことが、頭から離れなかった。

あれが幻だったのか、確かめたいのか……確かめたくないのか。

自分でもわからない。

けど結局、足は勝手に川のほうへ向かっていた。

川沿いの道に出ると、空気が少し湿っていて、

誰かが草を踏む音が遠くで混ざった。

土手の斜面を下りると、昨日より近い場所に、

小さな火が、確かに揺れていた。

尚斗は歩みを止め、鞄の紐を握りしめた。

火の向こうに、小さな背中が見えた。

風が吹くたびに髪がふわりと動いて、

小さな光が、その輪郭をやわらかく照らしていた。

「……行かんでもええのに……」

自分で小さくつぶやいて、足が止まらなかった。


3

尚斗が近づいたことに気づいたのか、少女がふと顔を上げた。

川の風が二人の間をすり抜ける。

「……昨日の人だ」

少女の声は、川の音に混ざってもちゃんと届いた。

その声を聞いたとたん、尚斗の喉がからからに乾いた。

あの火を見ても怖くない自分が、正しいのか、間違っているのか。

でも、この子の目を見てしまったら、もう引き返せなかった。

「……それ、なんや……?」

声が小さすぎて、自分でも聞こえたか不安になる。

それでも、少女は微笑んで答えた。

「痛いものを、火にしてるんだよ」

その言葉とともに、火がふわりと揺れた。

灯りが、少女の顔に一瞬、寂しげな影をつくったように見えた。

尚斗は一歩だけ近づいた。

焚き火じゃない。

誰かの心の奥から生まれた、小さな熱のようだった。

「……怖くないの?」

少女が首をかしげて問いかける。

尚斗は、小さく首を振った。

本当は少し怖かった。

火じゃなくて、目の前のこの子に惹かれてしまう自分が。

「君、名前は?」

少女の言葉に、尚斗の唇は少しだけ動いて、結局何も言わなかった。

名前を渡したら戻れなくなる気がしたからだ。

少女は、それでも笑ってくれた。

その笑顔が、川の音に溶けていく。


4

火が小さく弾けて、少女の頬を赤く染める。

風が吹いて、光をさらっていくと、夜の色が残った。

少女は立ち上がり、祠の方をちらりと見た。

尚斗はまだ何も言えずに、地面に残る火の余熱を感じていた。

「また……来る?」

川の音に負けないように届いたその声。

尚斗は声にはできず、小さくうなずくだけだった。

本当は、「もう来ん」と言えなかっただけだった。

少女は満足そうに笑って、土を小さく蹴ってから

祠の暗がりに吸い込まれるように消えた。

残された尚斗の足元には、火の残り香みたいな温かさがわずかに残っていた。

鞄の取っ手を握り直した手が、少しだけ軽かった。

ひとりなのに、ひとりじゃない。

この町で、そんな夜を初めて知った。

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