君がくれた火を抱いて

@onomatopepe

序章

バスのドアが閉まる音だけが、頭の奥に刺さって離れなかった。

埃の匂いがついたシートにしがみついていた時間より、

降りたあとの静けさのほうが重たくて、目の奥がじんとした。

誰も迎えに来ないのは、分かってたはずだった。

……でも、最後の最後まで……

もしかしたらって……思ってた自分が、いちばん情けなかった。

錆びたベンチに制服の後ろを引っかけてしまう。

乾いた金属の感触が背中を冷やす。

鞄を膝に置いて、ポケットを探る。

折り畳んだまま何度も開いたメモ用紙。

祖母の名前と家の住所だけが、滲んで読みづらい。

「……ばあちゃん……」

声にしてみても、すぐに風が奪っていった。

誰も答えない停留所に、自分の声だけが残って消えた。

握った紙の端がじっとり湿っていて、爪で押すと破けそうになる。

小さな虫が靴先を越えていった。

尚斗はゆっくり立ち上がり、鞄を片方の肩に引っかける。

来ないのは分かってた。

でも……まだ、どこかで探してしまう自分がいる。

それをやめられない自分が、いちばん嫌やった。

鞄の中の教科書が、ごとりと鳴った。

足元の砂埃を蹴って、尚斗は川の方へ歩き出した。


舗装が途切れた道を、靴底で確かめるように歩く。

踏むたびに小石が鳴くけれど、耳に届くのは川の音だけだった。

バス停から続く小さな商店街は、

錆びた看板と閉じたシャッターばかりが目につく。

自販機の横に積まれた空き缶が、風に転がってカラカラ鳴った。

町が息をする音みたいだった。

川が近づくと、空気が少しだけ澄んでいた。

都会にはなかった、湿った土と草の匂いがする。

向こう岸には、枯れ草に埋もれた小さな祠がぽつんと立っていた。

土手に腰を下ろし、鞄を足元に置く。

流れる水の音が、頭の奥でうるさいものをさらっていくようだった。

川面を見つめると、逆さの自分の顔が波で途切れ途切れに揺れている。

それが、少しだけ心地よかった。

「……なんで、ここなんやろな……」

誰に言うでもなく漏らした声が、すぐに草の匂いに溶けた。

胸の奥にまだ湿ったメモ用紙がある。

祖母の名前と、この町の住所と。

頼れるのはそれだけやのに、今日はすぐに会いに行けんかった。

風が吹いて、土手の草を揺らす。

髪が頬に触れて、尚斗は鞄の上で手を組んだ。

目を閉じる。

誰の声もないのが……

いまは、少しだけ……助かった。

川の音に耳を預けて、どれくらい経ったのか。

目を閉じていた尚斗は、ふと何かの気配に息を止めた。

遠く、川向こうの祠のあたり。

夕暮れの色が溶けていく中で、誰かの影が、風に揺れるように立っていた。

最初は木の影かと思った。

けれど、そのそばで、小さな赤い光がちらりと揺れた気がした。

街灯でも、家の明かりでもない。

もっと弱くて、すぐに消えそうな火。

尚斗は思わず腰を浮かせた。

鞄の取っ手が手から滑り落ちて、土にかすかな音を残した。

「……誰や……」

声は、自分でも聞こえないほど小さかった。

川の音と草のざわめきに溶けて、誰にも届かない。

もう一度目を凝らした時には、光も影も、

風に紛れて滲んでいた。

何もなかったのかもしれない。

それでも胸の奥に、さっきよりも少しだけ温いものが残った。

鞄を拾い、肩に掛け直す。

遠い川向こうをもう一度見たが、もう何もない。

「……ばあちゃん……」

祖母の名前を、確かめるみたいに唇が動いた。

川風に背を押されるように、尚斗は立ち上がり、

少しだけ重たくなった鞄を背負った。

この町のどこかで、自分の名前を呼んでくれる声を探すように。

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