「影が広がっている」

人一

「影が広がっている」

「あーあ、振られた振られたぁー。結婚間近だったのによ。」

 彼女との関係が無くなったその夜、俺は1人あてもなく車を飛ばしていた。

ムシムシとした夏の夜の熱気も、気づけばいくらか涼しい風に変わっていた。

ふと窓の外を見ると、海がすぐそばにまでやって来ていた。

「海か…。とりあえず寄ってみるか。」

 ビーチ脇の駐車場に車を停めて砂浜へと歩き出す。

自分以外誰もいないビーチは静寂が支配している。波の音だけが夜の闇に響き渡る。

「いざやって来ると、思ったよりも不気味で雰囲気あるな…。静かだし、月もちょうど雲に隠れてひときわ暗くなってる感じだな。」

 独り言を言ったり、恨み言を吐いたりしながら波打ち際をぶらぶらと歩く。

「一通り吐き出したらなんかスッキリしたな。…頭も冷えたしそろそろ帰るか。」

 波打ち際で波と遊びながら、駐車場へと戻っていく。

月は雲間から顔を出し、海面を静かに照らしていた。


「―――」

 …?なぜか呼ばれた気がした。それもとても気になる声で。

「誰か、呼んだか?……いや、そんなわけないか。こんな所まで来ても未練タラタラか俺はよ…。」

 なんとなく辺りを見回すと沖の方に何かの影を見つける。

「…なんだあれ?さっきまでなんも無かった気がするけど…それよりこんな時間に釣りか?……こっちを見てる?」

 なんだか目が合ったような気がしたが、所詮は気のせいだろう。

未練から元彼女の声を空耳してしまうくらいだし。


「――――」

 まただ。風や波の音にはどうしても聞こえず、やはり俺の名前を呼ばれている気がする…。

「なんか知らないけど、一発ガツンと言っておくか。」

 俺は、訳の分からないイタズラに腹が立ってきたので文句を言うべく振り返り海へと戻っていく。

ザブザブと波間を進み、膝上まで海につかった。

月は再び雲に隠され辺りの闇は一段と深まる。海は墨汁を溶かしたかのように真っ黒になり、ただ静かに揺れていた。

俺は不気味さに腰が引けていたが、意を決して口を開き叫ぶ。

「おい!…誰だか知らないけどくだらねぇイタズラするんじゃねーよ!あと、失恋中のやつをいじめるなよ…!」

 言いたいことを言い終え、息を整えるために深呼吸をする。

一呼吸つき車に帰るべく振り向いたのも束の間、背後から不自然な気配が押し寄せる感じがした。

何だ?…と振り返った瞬間、言葉もなく大きな波に飲み込まれる。

 水に落ちた俺は必死に抗う。

しかし、どれだけもがいても海面は遠ざるばかりで、段々と息が苦しくなり体も重くなっていく。

 抗う時間が空しく過ぎ去ってゆく。…どのくらい経っただろうか。

徐々に消えゆく意識が、波間の光に彼女の顔を映し出した気がした。

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「影が広がっている」 人一 @hitoHito93

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