第16話 蠅の教え
まず、蠅とはハエのことであり、縄ではないことをお断りして話を進める。誤解なきように。(冗談、冗談)
縄なら人の役に立つが、蠅などは何の役にも立たない。汚らしくてちっぽけな、知力などない最下等の生き物であり、蠅から学ぶことなどありえないと多くの人は考えるだろう。
私の場合は少しばかり違っていた。小説家である椎名麟三が、転向した時の話に興味を持っていたからだ。
椎名麟三は元共産主義者で、特高に拷問されたことがある。その彼が転向したのは、蠅が理由であった。逆さ吊りされて落とされ、更に「特高」により殴打されて意識朦朧とした彼の目の前に、一匹の蠅が飛んでいたと言う。その時、蠅が自由に飛び生きているのに自分は両手両足を縛られ、こんな所で死ぬとはどういうことなのかと椎名麟三は考えたようだ。
椎名麟三の心情を理解してもらうため、「特高」による拷問がどんなものだったか、手元にある小林多喜二の資料から伝えておかねばならない。
1933年2月20日の昼、共産党に忍び込んだスパイによりおびき出された小林多喜二は逮捕された。逮捕直後から築地警察署で多喜二の受けた拷問も、椎名麟三と同じ「逆さ吊り」である。
丸裸のまま両腕、両足を縛られると、天井に吊り上げられた多喜二は頭から硬い床に落とされ、床に落ちると数人の特高署員により上下半身構わずバットやステッキで殴られ蹴られ、更には指を折られ、煙草の火を押しつけられ、畳針を差し込まれた。数時間にわたる拷問を受け、留置場に戻された多喜二の求めで囚人仲間がトイレに連れて行くと肛門と尿道から出血し、トイレが血だらけになったという証言がある。
トイレから戻った多喜二は、そのまま死亡した。書く意欲も無くなるほどの凄まじい拷問にも関わらず、築地署の発表によると、午後七時四十五分頃、前田病院にて「心臓麻痺により死亡」となっている。余談だが、多喜二を拷問した三人の主要人物は、戦後、埼玉県警察部長、「東映」取締役、ビーフステーキの「スエヒロ」新橋店経営者になった。彼らは皆、戦後を謳歌したのである。
私が椎名麟三に興味を持ったのは、その「転向」からだが、転向に興味を持ったのは、若い頃の私が「心情左翼」であったからかもしれない。
「心情」の意味は、18歳の浪人時代、私は東京の新聞店で住み込みの配達員をしており、大学時代は入学してからほぼ三年間、関東を転々としながらスーパーでの実演販売、日雇いの内装工事、ハンバーガーショップや天麩羅屋の店員などをして学資と生活費を稼いでおり、政治活動などをしている余裕がなかったからである。「左翼」になったのは、父親が貧乏な国鉄職員だったため、子供時代から金持ちに対する反発があったのだろう。
前置きが長くなってしまった。戦前の特高による拷問の恐ろしさを書いたため、これから私の体験を述べるのは気恥ずかしくなってしまうが、事実は事実として私のハエ体験を書く。
数年前、私は警備員として物流センターの受付をしていた。受付と外部は窓で仕切られており、通常は開け放たれている。窓の底には二本のレールが敷かれていた。
ある晴れた朝の七時頃、まだ出勤者のない周囲はがらんとしている。突然、建物入り口の高い天井から一匹の蠅が急降下し、窓のレールに飛び込んできた。私の目の前である。アルミのため滑りやすいらしく、しばらくの間、二本のレールの間で蠅はぐるぐると背中で回転していたが、やがて体勢を整えると元の天井に飛んでいった。
一、二秒後、前回と同じような角度とスピードで、またその蠅が飛び込んできて、レール間の溝でのたうち回っている。なんだこいつは、馬鹿だなぁと私が思っていると、しばらくしてハエは再び飛び去っていった。
一、二秒後、またしても同じように、同じ蠅が同じ角度とスピードで飛び込んできた。三回目となると今回は偶然とも馬鹿とも思えなくなる。自分の背中を回転させてバタバタしているのは、蠅が楽しんでいるように見えるのだ。
驚きと言うより、私には衝撃であった。奴は遊んでいるのだ、蠅のくせに楽しんでいるのだと思うと、私には今の生活が、自分の人生がどれほどのものだったかと、瞬間的に考えざるを得なかった。
蠅に教えられるとは、本当に馬鹿な奴だと思われるだろう。それでも、これまで汚い生き物、邪魔者としてしか見ていなかったちっぽけな生物から、彼らも生を楽しんでいる、我々と同じなのだと気づかされたのは、私にとって衝撃であった。その時私は、今ひとつ踏み込めなかった椎名麟三の転向した気持ちに、数十年ぶりに近づいた気がしたのである。
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