第5話 谷村新司そして人の死について


 一昨年、74歳で亡くなったニュースを聞いて、無性に寂しくなったことがある。アリスのファンだったわけではなく、最近は一度も彼の歌を思い出してもいないのに、なぜ意気消沈しているのか、その時に考え始めた。

 1981年の末、31歳の私は三流商社のマニラ駐在員で、ナイトクラブの女性とマタブンカイのホテルにいた。海水浴場で有名なマタブンカイは、ルソン島南部のバタンガス地方にある。

 夜になり場末のカラオケに出かけたとき、「長崎は今日も雨だった」を私が歌うと、次に彼女の歌ったのが「陽はまた昇る」だった。

 酔い潰れて夜が明けたとき、私はベッドの中で嗚咽していた。日本を離れて寂しかったのか、それとも我が身が恨めしかったのか、今以て釈然としない。

 商社に入る前、私はロシア語の通訳をしていた。通訳を辞めたのは、当時つきあっていた女性と別れたからである。彼女の実家を訪れた時、「会社勤めもしていないくせに、一人前の顔をするな。俺は東大を出ているんだ。東大以外は大学ではない」と父親から怒鳴られ、あまりの剣幕と下手なドラマでも観ているような言葉に、私は二の句が継げず逃げ出してしまったのだ。

 転職した商社は、軍隊のような会社だった。コピーを上司から頼まれて持って行けば、ホチキスで留めるかクリップを使うか考えたのかと怒鳴られ、貿易知識として必要な「L/C」も「FOB」も分からず、先輩社員から随分と罵倒されたものである。英文タイプの打てない私は、新入社員の業務であるテレックスを打つのも遅く、最終電車に間に合わずに寒い夜明けを迎えることも度々だった。

 仕事に慣れてきた頃、ある業者から依頼があった。改修工事の入札品目の中に工作機械があり、見積もりを出してくれという。

 結果は三番札だった。部長に報告をすると怒鳴られた。「ただ働きをさせられて、それで済むと思っているのか」と言うのである。一体どうすれば良いのか分からず、小心者の私は血の小便を流すまでになった。

 思い出すのも苦しいが、私は意を決して業者を訪ね、初めは上司から叱られているので何とかならないかと泣きつき、それが拒否されると談合をばらすぞと脅しあげた。土下座しろと言えば強要罪、根拠なく訴えると言えば脅迫罪、脅して金品を取れば恐喝罪…全て知った上でのことである。刑務所に入れられようと構わない、俺なんぞどうなってもいいと、その時は本心から思っていたのだ。

 そんな暗い日々を、無様な自分の姿を思いだすことで乗り越えてきた。私の心を支えていたのは、「きっと見返してやる」という恨み辛みだったかもしれない。

 陽はまた昇る、どんな人の心にも……。我が青春時代が遠い過去になってしまったことを、谷村新司の訃報は思い起こさせてくれたようである。


 先日、友人から電話をもらった。彼との話の中で、まだトラウマを引きずっているのかと問われる。それは、当時つきあっていた彼女の父親から「東大以外は大学ではない」と言われ、その場から逃げ出したことである。

 私は一笑に付した。当然である。当時の私はまだ三十歳前の若さで、人生のことなど何も知らないに等しい。今なら、「学歴なんぞを自慢して恥ずかしくないのか」と、相手が年上であっても一喝してやるところなのだ。

 そんな私の思いは、綺麗事でも負け惜しみでもない。

 三十年ほど前、私は商社を辞めマニラで会社を経営していたが、仕事が順調になるとカジノ通いを始めた。

 ある日、遊び終えて帰宅する午前三時頃のことである。私が運転していたのはフィリピン版のトヨタ・ライトエースで、エンジンが座席の下にある、鼻ベチャの車であった。トランスミッションも手動式である。

 私の目の前を、タクシーがのろのろと走っていた。初めて通る道である。私はギアを二速に落として後に続いていたが、しびれを切らして追い抜くことにした。

 タクシーと並行になり、二速を三速に切り替えてアクセルを強く踏み込んだ途端、目の前に高速道路と一般道の分離壁が現れた。コンクリート製で、高さは一メートルほど、幅は三十センチほどの厚みである。もはや車との距離は、一メートルもないように見えた。

 もう避けきれない。激突する。私はハンドル操作を諦め、死を覚悟した。しかし、その瞬間である。私の脳裏に、父、母、姉、友人の顔が次々と浮かんだ。僅か零コンマ一秒か二秒の間、文字通り瞬きするかしないかの間に、写真のフラッシュのように、パッ、パッ、パッと点滅したのだ。そして、最後に娘の顔が閃いた瞬間、死んでたまるかと我に返り、私はハンドルを切り救われたのである。

 走馬灯のようにとよく言われるが、それは畳の上でゆっくりと死ねる場合のことであろう。私の体験は違っていた。人が本当に死に直面した瞬間には、仕事、財産、マイホーム、ましてや役職や学歴など全く思い起こさず、家族や友人のことしか頭に浮かばないのだ。情けないことだが、ようやく人生の終わりになって、取るに足らないものが何かを知るからに違いない。

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