第7話「雨とダイヤの間で」
金曜の放課後、部活も補習もない静かな校舎に、雨の音だけがぽつぽつと響いていた。
僕はなぜかその日、まっすぐ帰る気になれなくて、空っぽの音楽室に足を運んだ。
ピアノの蓋が閉じられたままのステージ。雨の日だけは鍵が開いていて、自由に練習していいことになっている。
僕は椅子に座り、いつものようにゆっくりとピアノのフタを開けた。
——けれど、その日、すでにそこには先客がいた。
長い黒髪をサイドに流し、楽譜の束をめくるその人。
奥の椅子にすっと座る姿は、凛としていて、どこか詩のようだった。
「ごめん、うるさかった?」
ピアノの音が止まり、彼女が振り返る。
加瀬さくら先輩だった。文芸部の副部長で、校内でも知的で落ち着いた雰囲気で知られる人。
肩のあたりで自然に波打つ髪は、暗い照明のなかでも艶やかで、彼女が動くたびにさらりと揺れた。
ネイビーのカーディガンの下に着た白のブラウス、裾まで広がるボルドー色のロングスカートは、ピアノの前に佇むその姿をどこかクラシックに見せていた。
「いえ……その、僕こそ急に来てしまって。練習ですか?」
「ううん。雨の日って、静かに音を聴いてると落ち着くでしょ。ちょっとだけ、詩のイメージを探してたの」
そう言って笑ったとき、彼女の髪がふわりと肩から流れ落ち、スカートの裾が小さく膝元で揺れた。
その光景はまるで、音もなく吹き込んだ風が彼女だけにそっと触れていったようだった。
ピアノの椅子に並んで座ると、会話は自然と詩や音楽、雨のにおいの話になった。
彼女の言葉はどれも静かで、でも余韻が残って、まるでピアノのペダルのようだった。
「雨って……すき?」
「すきです。線路とか、濡れたホームとか、静かになる感じが」
「ふふ。そういうの、いいよね。私は、雨のあとの風がいちばん好き」
彼女はそう言って、髪をひと束、耳にかけた。
スカートがひざのあたりで少し膨らみ、その下の足がクロスされた。ふとしたしぐささえ、詩のようだった。
数日後、ふたりでまた音楽室にいた帰り道。
僕はいつのまにか、彼女の傘に入れてもらっていた。
そして、傘のなかで勇気をふりしぼった。
「先輩の言葉に、何度も心を救われました。……ぼく、先輩のことが、すきです」
さくら先輩は驚いたように、でも穏やかに笑った。
「ありがとう。ねえ、相原くん」
「……私、ずっと好きな人がいるの。もう、ずっと、前から」
その声は、降りつづく雨よりも静かで、でもちゃんと届いた。
その夜、僕は模型棚に、そっと新しい車両を連結した。
濃紺に金帯。寝台客車、オロネ10。
誰にも気づかれずに走る、夜の旅の車両。眠ることしかできない個室が並ぶその車両は、誰にも触れずに想いを抱えたまま走る僕の気持ちそのものだった。
「……七両目、連結完了」
C62の先頭車に、食堂車、郵便車、外国の客車に、クロスシートやロングシートの通勤電車……
そのあとには、静かな夜の車両がひとつ。
ふられるたびに、列車は少しずつ長くなっていく。
けれど、どの車両にも、その時の僕がちゃんと詰まっていた。
雨は止んでも、先輩の笑顔と、揺れたスカートと髪の残像は、まだ胸の奥に残っていた。
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