第17話 One more time,One more chance

 翠蓮の朝は早い。まだ夜の帳が完全に明けない午前5時、ひんやりとした早朝の空気が肺を満たす中、彼女は家を飛び出し、ロードワークを始める。


 中華街西門通りから出発し、港中学校とみなと総合高校の間をすり抜ける。そのまま首都高のガード下をくぐり抜け、新横浜通りへ。新横浜通りを横浜方面へひたすら走り、関内・桜木町駅を通過。国道1号を右に曲がり、すずかけ通りを進むと、目の前にパシフィコ横浜の巨大な建物が現れる。


 そこを右に曲がり、臨港幹線道路へ。ぷかり桟橋を左手に見ながら進み、歴史を感じさせる赤レンガ倉庫へたどり着く。象の鼻パークを抜け、海岸通を走り、山下公園の入り口である中央口から公園内へ。


 港に面した半円型のバルコニーで、翠蓮は四十八式太極拳の套路(型)を流れるように行う。潮の香りと、遠くで聞こえる汽笛の音が、静かな朝に溶け込んでいた。


 朝日が昇り始める頃、彼女は中華街へと戻る。そして、店の仕込みの手伝いを始めるのだ。翠蓮の朝は、横浜の街を駆け抜け、心身を鍛え上げる、清々しい時間だった。


 その朝も、翠蓮は山下公園で四十八式太極拳の套路を行なっていた。

 しかし今朝は、桜木町駅前からずっと後をつけてくる、微かな気配があった。

 ベイスターズのキャップを被った彼は、何気なくベンチに座り、不自然なほど静かに、こっそり翠蓮をスマホで撮影していた。


 翠蓮は、最初からその全ての行動に気づいていた。最後の型を終え、呼吸を整えると、ゆっくりと男のいるベンチへと視線を向けた。


「ねえ。アーシになんか用?」


 翠蓮の問いかけに、男は飛び上がるほどびくりとしてスマホの録画を止める。彼の顔色は、まだ昇りきらない朝日の下でも、明らかに青ざめていた。


「四十八式太極拳、興味あるの?」


 男は帽子で目を隠し、首を横に振った。その震える仕草から、彼が尋常ではない状態にあることが見て取れた。


「じゃーなーに?」


 男は気弱そうに上目遣いに翠蓮を見た。その視線は、恐怖と、しかし確かな執着が入り混じっていた。


「……たかったんだ」


 どこかで見覚えのある、手足の長い少年だった。翠蓮の視線が、彼の肩に留まる。そこには、はっきりと噛み跡があった。


「名前も知らなかったけど、どうしても、もう一度会いたかったんだ。」


 翠蓮は目を瞠った。その瞬間、彼女の脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。


(アーシが、食べちゃった子だ。)


 一瞬、表情を凍らせた翠蓮だったが、すぐにいつもの営業スマイルを取り繕い、自己紹介をした。


「そっかごめんね、君のことすっかり忘れてたみたい。名前、名前は、李翠蓮りすいれん。」


 男は目を見開き、ぱっと明るい顔になった。その顔には、隠しきれない歓喜が浮かんでいる。

「僕は桜木っていいます。十八歳です。」


 翠蓮は少し考えてから、にこりと微笑んだ。

「今日はちょっち用事があるから、夕方、学校終わってから関内のカフェで話でもいい?」


 桜木は、信じられないといった様子で、息をのむ。そして、興奮気味に尋ねた。

「えーっつ! 本当、本当に、話できるんですか!」彼の声は、弾むように高鳴っていた。


          ・


 ブゥオン!


 ランチタイムの横浜中華街「翠林苑」の前に、低く唸るエンジン音と共に、黒い巨体、ヤマハのVmaxが滑り込むように停止した。キュッとタイヤが鳴る。黒のライダースーツに身を包んだ、曲線美を強調するようなグラマラスな女性がヘルメットを外し、涼やかなベルを鳴らしつつ店のドアを開ける。


 店内で待っていた翠蓮が、その姿を見て目を丸くする。


「あれ、夜織姉のバイク?」


「そうでありんすよ。こねえだの地下鉄の件の報酬で買ってみたのさ。あちきは住民票がありんせんから、陽介さんの名義だけどね。」


 夜織の言葉に、翠蓮は羨ましそうに目を輝かせた。


「いいなーかっけーなー。似合うよねー夜織姉。アーシもボンキュッボンになりたーい。」


 今日のランチは、翠蓮のおごりだ。桜木の件について、夜織に相談に乗ってもらうためだった。


「だからねー、好きとか嫌いとかなくて、知らない子なの。」


 翠蓮は両手を広げて、もどかしげに言う。夜織は餃子を頬張りながら、冷静に返した。その瞳には一片の動揺もない。


「なら知り合ってみればいいのじゃありんせんかい。相手さまは翠蓮ちゃんが好きなんざんしょ。それ以上に何が不満でありんすか?」

「アーシが、生命、吸ったせいで、きっと呪いでそうなってんの。」


 翠蓮は、思わず身を乗り出して反論した。

 夜織はぴくりとも動じない。ゆっくりと茶を一口飲み、静かに翠蓮を見つめ返す。


「そこ問題にしてるのでありんすか。」


 その声は、相変わらず淡々としていた。


「だってー、ズルいじゃん、それなかったら、アーシなんて見向きもされないかもだし」


 翠蓮は、顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏した。その耳まで赤く染まっている。

 夜織はそんな翠蓮を眺めながら、ふっと笑みをこぼした。まるで、目の前で繰り広げられる人間らしい悩みが、どこか愛おしいとでも言うように。

 夜織は、翠蓮の悩みに優しく答える。


「ひととひととの関わりなんて、キッカケはなんでもいいと思うんすえ。」

「アーシ、ひとじゃないし。」


 翠蓮の不安げな言葉に、夜織は問い返した。


「どんな人なんでありんすか?」

「真面目そうで、純粋で、それに…アーシとしゃべるとき、なんか嬉しそうに目キラキラさせてるの。」


 翠蓮の言葉を聞き、夜織は茶碗を置いてにやりと笑った。


「それは断りづらいかもしれんせんね。もっと、すれっからしなら、ようござりんしたのに。あんたも案外、そういうのが弱点でありんしょう?」


 夜織の言葉に、翠蓮はさらに顔を赤くして俯いた。


          ・


 昼休みが終わり、翠蓮は高校に戻る。

 夜織には待っててもらい、カフェで話をしている最中、別席でチェックしてもらうことにした。妖糸をつなぎ、翠蓮の視覚と聴覚を共有する。


 桜木はもう既に席で待っていた。翠蓮の姿を認めると、その瞳を大きく見開いた。


「本当に来てくれたんですね。よかった、夢じゃなかった……! 夢じゃないんだー。」


 翠蓮は少し困ったように言う。


「大袈裟〜。」


 桜木は涙目で必死に訴えた。その震える声には、切実なまでの想いが込められている。


「ずっと、ずっと、夢見てた。目を閉じると、あの時の翠蓮さんの声、そして顔、甘い匂い、体温、肌触りが、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってきて……っ、忘れられなかったんです」


「でも、アーシは……」


 翠蓮の視線は、無意識のうちに桜木の肩に残る青い噛み跡を見つめる。


「これは、僕にとって、翠蓮さんが幻でなかったことの証でした。」


 桜木は、その傷跡を慈しむように指でなぞった。その仕草は、翠蓮に得体の知れない感情を抱かせた。


「……桜木さんは、結局のところ、アーシにどうしてほしい?」


 翠蓮の問いに、桜木は戸惑うように目を泳がせた。彼の表情には、答えが見つからない焦りが浮かんでいる。


「もう一度見つけた。もう一度、逢えた。それだけで、今は……僕は、僕は、ずっと逢いたかっただけで、あとの事なんて……何にも考えてなかったんです。いるはずのない場所をずっと探していたんです」


「きっと、アーシは、桜木さんが思っている子と違うよ。あの時のアーシは、今とは違ったから。」


 翠蓮の言葉に、桜木は目を伏せ、じっと考え込んだ。そして、おそるおそる切り出した。


「あ、あの、朝、翠蓮さんのロードワーク、一緒に走っていいですか。」


 翠蓮の返事を待たずに、桜木は言葉を続けた。


「邪魔しません。嫌だったら、すぐにやめます。少し離れて走ってもいいです。ただ、少しでいいから、そばにいる時間をください。」


 そこまで言うと、桜木は意を決したように、しかし切羽詰まった声で付け加えた。


「本当は、もう一度抱きしめてほしい。あの時みたいに。でも今の翠蓮さんは違うみたい……だから、もし、また噛みたくなったら、僕の血が欲しくなったら、いつでも噛みついてくれてもいいんです。」


 桜木の瞳には、狂気と純粋さが交互に現れていた。その言葉は、翠蓮の心を強く揺さぶった。


(確かに、このままでは危のうござりんすね。この後、新横浜に行きんせんか。)


 夜織の念話を受け、翠蓮は小さく頷いた。


(うん。)


 桜木の願いを翠蓮は受け入れた。狂気とも純粋ともつかない彼の瞳を見つめ返し、翠蓮は迷った末に、自分なりの答えを出した。


 ロードワークは、天気の良い日だけ。朝5時15分、桜木町で合流し、山下公園で解散。それだけの、シンプルな約束。いつやめてもいい、来なかったらそれでもいい。


「LINE繋いどく?」


 翠蓮が軽く言うと、桜木はまるで王国の姫から宝物を下賜される騎士のごとき面持ちで、自身のスマホを震える手で翠蓮に差し出した。

 そのスマホは、LINEの『ふるふる』機能で友達登録をせんとする、彼の心臓の鼓動を映すように、小刻みに震えている。


          ・


 桜木と別れ、JR改札で見送った後、翠蓮は夜織が差し出した黒いヘルメットを被り、Vmaxの後ろに跨った。夜織の背中から体温が伝わる。Vmaxは関内駅から、新横浜通りを真っ直ぐ新横浜へと向かう。「ブォォオン!」という轟音と共に吹き抜ける風。その激烈な加速は、翠蓮の胸に渦巻くモヤモヤを、一瞬だけかき消すかのようだった。


 夜織からの事前連絡を受け、朽木と陽介は資料を用意して待っていた。朽木は資料を参照しながら、口を開く。


「桜木くん、いや、桜木雅義さくらぎまさよしさん、十八歳。医療系の専門学校の学生さんだね。2週間前に退院している。」


 朽木は資料から目を上げず、続ける。


「加害者に対する印象のアンケートには何も書かれていなかった。メンタルにも問題なしと見なされて退院している。これは、他の被害者とは明らかに異なる点だ。」


 そこで朽木は言葉を切ると、翠蓮の顔を真っ直ぐに見つめた。


「奇妙なことに、金華猫チンホヮーマオは、彼に対してだけ、血液の摂取のみで抑えている。何か記憶はあるかな?」


 翠蓮は、金華猫と意識が重なっていたときの桜木との逢瀬を、記憶の奥底から絞り出した。

 あの時、自分はまるで別人のようだった。おとなしそうな桜木を見つけ、誘惑し、ラブホテルへ。そして、頬を寄せ、抱きしめて、噛みついた。


「思い出した。そうだ、血が、すごく美味しかった。だから純粋に味わいたかった。そう、ただ、その味を、感覚を、本能のままに貪っていた……そんな欲望が記憶に残ってます。」


 翠蓮の脳裏に浮かんだのは、ただ純粋な、飢えを満たす喜びだった。そこに、人間的な感情は、一切なかった。


 朽木は資料をさらに確認し、納得したように頷いた。その表情には、長年の研究者としての確信が浮かんでいる。


「そうか。桜木さんの血液は輸血前検査時に、電気泳動で識別されてヘモグロビンSと診断されている。『鎌状赤血球』だ。だから金華猫の認識が異なったんだろう。」


 朽木は、淡々と説明を続ける。その声には、一切の感情の揺れがない。


「鎌状赤血球は生まれつきの遺伝子による血液の病気で、さまざまな合併症を引き起こす。」


 翠蓮は、自分が噛みついた少年の身体に、そんな秘密が隠されていたことに、目を見開いて衝撃を受けていた。金華猫が彼の「血が美味しい」と認識した理由が、まさにそこにあったのだ。


 朽木は説明を続けた。


「桜木さんには治療の段階で、大量の輸血がなされた。その結果、彼の体内の赤血球の多くは、正常なものに置き換えられた。」


 陽介は首を傾げた。その処置がなぜ行われたのか、測りかねている。


「どういうこと?」


「卦術の『地雷復』は造血細胞を活性化させる。そのため、鎌状赤血球の症状を悪化させる可能性があった。だから輸血で正常な赤血球に置き換えたほうが良いと判断されたようだ。」


 朽木の言葉に、陽介は合点がいった。『地雷復』は本人の治癒能力を活性化し、回復するにすぎない、元々もっている疾患を治癒するものではないのだ。


 朽木は、桜木の病状について、さらに衝撃的な事実を告げた。


「輸血のあと造血細胞の修復の試みとして術者により『山沢損さんたくそん』と『水火既済すいかきせい』の卦術が施されている。」

 山沢損の卦は「䷑」対象から不要なものを取り除くという術式。

 水火既済の卦は「䷽」完全に整わせるというベクトルを対象に与える。


「この措置の経過は良好だったようだ。……彼の体にあった遺伝由来の慢性的疾患は、金華猫に関わることで、奇しくも治療されたということだ。」


 翠蓮は驚きを隠せない。もちろん、自分は空腹で彼を襲ったに過ぎない。ただ血が美味しかったから、血液だけを吸った。

 それでも、ほんの少しだけ、彼にプラスの影響を与えていたことが、翠蓮の心に深くのしかかっていた罪悪感を、わずかに軽くした。

 彼女の胸中に、複雑な安堵感が広がった。


 陽介は、翠蓮に問いかけた。その目は、未来を見据える研究者のように、しかし真剣だった。


「うまくいくかどうかわからないけど、翠蓮を金華猫の憑依から解放した時に使った『雷水解らいすいかい』を試してみるか?」


 翠蓮は「え?」と小さく声を上げた。まさか、そんな提案が飛び出すとは思っていなかった。


 陽介は続けた。


「そうしたら、呪いが解けて桜木さんの翠蓮への執着が消えるかもしれない。もしそれが効果を示すなら、他の患者さんにも試すことができる。」


 翠蓮は一瞬戸惑った。桜木と関わり、彼の事情を知る前とは異なり、翠蓮は桜木に強く感情移入してしまっていた。

 彼が病気を抱えていたこと、それでも純粋に自分を慕ってくれたこと。

 朝のロードワークでいろんな話をしてみたいという気持ちすら湧いてきていたのだ。『雷水解』を使えば、桜木の瞳からあの輝きは失われ、この奇妙ながらも温かい繋がりは、もう二度と訪れないだろう。


 翠蓮の心は、期待と不安、そしてわずかな寂しさという戸惑いと葛藤で激しく揺れ動いた。まるで、目の前に差し出された天秤の両皿に、異なる重さの未来が乗せられているかのようだった。


(雷水解……。憑依された自分から金華猫を切り離したあの術。それを、桜木さんに使う……。)

 翠蓮は、目の前の陽介の顔、そして脳裏に浮かぶ桜木の笑顔と、彼の肩に残る噛み跡を交互に思い浮かべた。


 翠蓮は瞳の奥に微かな寂しさを宿しながらも、しかし、一度決めたら揺るがないという強い意志を宿した表情で言った。


「それ、やっちゃお。桜木さんが元に戻れるなら、それが桜木さんにとって、いっちばんだもんねー」


 夜織はすべてを理解し、その決断を静かに受け止めるように、優しいまなざしで、そんな翠蓮を見つめていた。


          ・


 午前五時、翠蓮はいつものようにロードワークを始めた。中華街西門通りから出発し、港中学校とみなと総合高校の間をすり抜け、首都高のガード下を抜けて新横浜通りへ。新横浜通りを横浜方面へひたすら走る、そこまではいつもと同じだ。


 桜木町駅で、翠蓮は彼を見つけて声をかけた。


「おはよ、桜木くん。」


 桜木は目を輝かせて返す。


「おはようございます、翠蓮さん。」

「アーシのほうが年下なんだから、敬語いらないよ。」


 新横浜通りを高島町方面に走りながら、桜木が口を開いた。


「僕は、前は走るなんてとてもできなかった。すぐ気持ち悪くなって、止まってしまってたんです。」


 それは、鎌状赤血球症由来のチアノーゼの症状だった。


「でもこないだ、翠蓮さんを見かけた時、必死で走れたんです。不思議でした。」


 高島町から国道1号を右に曲がり、すずかけ通りを進む。


「きっと、これからは、走れるよ。」


 翠蓮の言葉に、桜木は力強く頷いた。


 パシフィコ横浜から臨港幹線道路へ。朝日にきらめく水面が、走り慣れた二人の横を過ぎていく。潮風が頬を撫でる、朝の清々しい空気の中、二人は並んで走る。


「桜木くんは、専門学校に行ってるっていうけど、医師になりたいの?」


 翠蓮の問いに、桜木は少し照れたように答えた。


「医師にはさすがにお金がないので、医療技術者です。僕みたいな病気の人たちを、最新の技術で支えたいんです。機器を駆使して、医療を支える仕事ですね。」


「立派だなー。アーシはまだ目標見つかってないや。」


 翠蓮は、真っ直ぐな桜木の目に、少し眩しさを感じた。


 翠蓮の言葉に、桜木は少し考えて、戸惑いながら恥ずかしそうに言った。

「もし、僕が、医療技術者になったら、それを支えてくれるような、奥さんがいたらな……なんて、そんな夢をもっちゃったりします。」


「えっ。」翠蓮は思わず目を見開き、驚いて顔を赤らめる。

 桜木もまた、自分の言葉に慌てて弁解した。

「ご、ごめんなさい、今のは聞かなかったことにしてください!つい、口が滑って……!」


          ・


 二人は、山下公園に到着する。朝日がすっかり昇りきり、公園の緑を鮮やかに照らし始めていた。約束ではここで解散だった。


 翠蓮は桜木に提案する。


「今日は、二人だから、套路じゃなくて、アーシがちょっと、独りじゃできないことをやってみたいんだ。」


 翠蓮は、太極拳の対練の初歩である『単推手たんすいしゅ』を説明した。定歩(その場立ち)から手首を掛け合わせる『塔手とうしゅ』というスタイルである。


 公園内の港に面した半円型の広場で、二人は向かい合った。


 桜木は言われるがままに、翠蓮を掌で推そうとする。

 翠蓮の掌に触れた瞬間、桜木はびくりとした。その温かさが、これまでの幻のような記憶とは異なる、確かな実在を告げていた。

 だが、翠蓮は柔らかな動きで身を捻ってその力を流し、桜木の胸元を軽く推した。翠蓮の動きを真似るように、桜木もその推しを流す。


 綿のように柔らかい呼吸で、静かに、左右の腕で、その鍛錬は繰り返された。力任せではない、互いの重心と気の流れを探り合うような動き。

 それはまるで、言葉を交わさずとも、互いの心を探り合うような、不思議な対話だった。


「なんだかゲームみたいで楽しいですね。」桜木が、思わず無邪気な笑みをこぼしながら言った。

「そうでしょ。これ、健康のためにやってる人たちもいるのよ。」翠蓮もまた、心底楽しげに微笑んだ。


          ・


 ひととおり推手を終えると、桜木は軽く汗をかいていた。その顔は、先ほどまでの必死さとは異なり、清々しい笑顔に満ちている。


「翠蓮さん、ありがとう、すごく楽しかったです。」

「もし、明日も来たら、続き。やれるよ。」


 翠蓮の言葉に、桜木は嬉しそうに頷いた。彼の瞳は、希望に満ちて輝いていた。


「それじゃあ」と立ち去ろうとする桜木の正面に回り込み、翠蓮が唐突にふわっと彼を抱きしめる。

 突然のことに驚いた桜木は、少し膝を落とし、その腕に包まれた。

 彼の頬に、翠蓮の髪がそっと触れる。


「翠蓮……さん?」


 翠蓮は桜木の頬にそっと頬を寄せた。彼の温かい体温を感じながら、ポケットから陽介に借りたプロトデバイスを取り出し、説明を受けた通りにアプリを起動する。

 モードを単発に選択し、画面に表示された『雷』のマークのアイコンに親指を置いた。


「桜木くん、きっとこれで元通りだよ。」翠蓮の声は、微かに震えていた。

雷水解らいすいかい……」そう小さく唱えると、翠蓮はアイコンを迷いなくスワイプした。

 卦の発動音とともに、翠蓮の左の掌に光が宿る。

 その掌を桜木の背に当てて、翠蓮は桜木を呪いから解放した。光が桜木の体を包み込み、翠蓮の腕の中で、彼の体が微かに揺れるのを感じた。

 桜木の肩の噛み跡は、消えていた。


          ・


 山下公園の脇に、エンジンを静めたVmaxが停まっていた。そのシートに黒のライダースーツに身を包んだ女性が体を預け、広場の方へと視線を向けている。

 彼女の瞳は、恋人同士にも見える二人のやり取りを全て見ていた。


 翠蓮が桜木を抱きしめ、呪いを解いた瞬間。

 桜木を包み込んだ光が消え去った後も、夜織は、その光景を静かに見つめていた。

 翠蓮の表情に浮かんだ安堵と、桜木の顔から失われた「呪いの輝き」を、夜織はしかと見て取った。


「あちきも、おとこどもを手玉にとってるようでは、だめなのかもしれねえでありんすね。」


 夜織は、自嘲するように呟いた。その声には、いつもの飄々とした調子とは異なる、どこか遠くを見つめるような、かすかな自省の色が滲んでいた。

 それは、彼女の妖怪としての在り方、そして人間との関わり方について、新たな問いを投げかける一言だった。



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山下公園

https://www.kanagawa-kankou.or.jp/spot/19


金華猫

https://ja.wikipedia.org/wiki/金華猫


太極拳・単推手たんすいしゅ

https://www.youtube.com/shorts/ZLY0blAd21M


山崎まさよし「One more time,One more chance」

https://youtu.be/BqFftJDXii0


ロードワークのだいたいのコース

https://maps.app.goo.gl/hbGNRcDziGF6wVpX8




 −−−−−−蛇足−−−−−−


 横浜の街に、五日間降り続いた雨がようやく上がった。久々に月が見える早朝五時、翠蓮は新横浜通りを駆け抜ける。

 関内を過ぎ、桜木町を通りかかると、思わず少し立ち止まり、周囲を見渡した。


(……来ないか。)


 翠蓮の胸に、わずかな寂しさが広がる。国道一号、パシフィコ横浜、臨港幹線道路。いつも独りで走っていた道なのに、今日は何かが足りない。

 山下公園の中央口からゆっくりと進み、港につき出す半円型バルコニーへと歩いていく。空が白み始め、朝日が昇ろうとしていた。

 海からくるりと後ろを振り返り、姿勢を整える。両腕を前に出し、四十八式太極拳の起勢きせいのポーズを取った、そのとき。


 向こう側に、ベイスターズのキャップが見えた。

 嬉しさがこみ上げる。


「遅いぞ。」

「ごめん。」


 翠蓮は、口元に抑えきれない笑みを浮かべた。

 桜木は息を切らしながら、肩で大きく呼吸をして、翠蓮のもとへと駆け寄った。

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