第18話 百年の残響・1
土曜日の朝。母親の美琴が洗濯物を干しながら、唄をくちずさんでいた。それは、海の見えるレストランで、女性が失った恋を思い出し「忘れないで」と願う曲だ。
「お母さん、その曲は?」
琴音が尋ねると、美琴は懐かしそうに答えた。
「『海を見ていた午後』ってね、お母さんの若い頃の曲よ。曲にあるレストランは今もあるのよ。」
琴音はスマートフォンでYouTubeを検索し、その曲を聴いた。心に染み入る歌声だった。
「なんだか、切ないけど、すごく心に残る歌詞だね。『忘れないで』って……山手って、港のほうの?行ってみたいな。」
「そうよ、だったら、お昼に行ってみる?でももう海は見えないみたいよ。」
美琴は微笑みながら、娘の言葉に優しく応えた。
JR小机駅で、琴音は母親の美琴と根岸線直通の横浜線に乗った。
東神奈川での乗り換えもなく、電車は横浜、桜木町、関内、石川町と進んでいく。
「次の山手で降りるの?」
「ドルフィンは、その次の根岸駅から行ったほうが近いわよ。懐かしいわね~、昔、お父さんとも来たのよ。」
美琴は遠い目をして、若き日の思い出に浸っていた。
車窓から景色を眺めていた琴音は、石川町と山手の間、地下に入った線路が再び地上に上がる場所で、思わず目を疑う光景を見る。
子供の頃から時折目にする霊視だ。何人もの血まみれの若い男たちが、ぽつぽつと線路脇に立ち、恨めしそうな目で列車を睨んでいる。彼らの姿は、この世のものではないと直感的にわかった。
作業帽は薄汚れ、汗と血が混じったような染みが広がっていた。首にかけたタオルも同様に赤黒く染まっている。腰で縛るズボンに、よれよれのノースリーブのシャツ、上半身裸の者もいた。
恨めしそうな目は、まるで何かを訴えかけるように、強烈な光を放っていた。中には、口元が歪み、何か言葉を発しようとしている者もいた。
「あらあら、少し日差しが強いわね。」
そういって列車の窓の布のブラインドをそっと下ろした美琴の声は、わずかに震えていた。美琴は、琴音の凍り付いた表情を優しく見つめながら言った。
「顔色が悪いわね。少し、冷たいものでも飲む?レストランはまた今度にする?山手で降りて歩く?それとも、みなとみらいで、気晴らししようか。」
琴音は、母親の言葉に言い知れぬ安堵を覚えた。
窓の外の光景は自分独りだけが見たのではないと確信した。
美琴の穏やかな表情の裏には、同じものを見て、娘を気遣う優しさがあった。
琴音は、山手で降りることを選んだ。そこから市営の乗合バスに乗り、桜木町に戻ることにした。
霊を見ることの多い琴音だったが、あんな眼は見たことがなかった。その瞳に込められた深い哀しみと恨みは彼女の心を抉った。もう一度列車で戻る勇気はなかった。
母親の美琴は何も言わず、ただ静かに琴音についてくる。
市営バスの中で、琴音は思い切って尋ねた。
「お母さんも、小さい頃から、見えてたの?」
美琴は、少しあって、穏やかな笑顔で娘に答えた。
「……そうね、大人たちからは見る鬼と書いて、
美琴は、遠い過去を思い出すように、少し目を伏せた。
「琴音が昔、目で追ってたのも知ってたわよ。」
その言葉には、ごめんね、と謝るような、切ない響きがあった。
その言葉は、琴音の心に温かく響いた。自分は独りではなかった。母親もまた、同じ世界を見て生きてきたのだ。
「作業着みたいな洋装のシャツに、和装の股引。あの帽子。大正から昭和初めの、港で働いていた沖仲仕さん(港湾労働者)かしらね。」
ぼんやりと美琴が呟いた。琴音は母親の鋭い洞察力に驚く。自分はそこまで気が回らなかった。
バスのアナウンスが、次は山下町であることを告げる。
「琴音、山下公園に行きましょうか。」
「えっ?」
美琴は微笑んで、娘の目を見つめた。
山下公園を歩く。海から聞こえてくる汽笛と、海風、色とりどりの花が咲き乱れる花壇が、琴音の心を少しだけ和ませた。
「あくまで雰囲気でだけれど、あのひとたちは関東大震災で亡くなった方々かもしれないわね。」
美琴の言葉に、琴音は驚いて呟いた。
「関東大震災……。」
「ちょうど百年前の災害ね。この山下公園は、その震災で崩壊した街の瓦礫を埋め立てて作ったそうよ。」
琴音は目を丸くする。美琴は穏やかな表情で、続けた。
「歴史は、そういった悲しみや怒りなんて思いを忘れて、立ってるものかもしれないわね。」
美琴の遠い目には、過去と向き合おうとしない多くの人々の姿が映っているかのようだった。
その言葉は、目の前の美しい風景に隠された、深い歴史の重みを語っていた。
ふと、見覚えのある顔を見つける。
「あ、翠蓮ちゃんだ!そうか、中華街すぐそこだから。」
声をかけようとした琴音に、美琴が言った。
「あら、ほんとう。楽しそうね。でも、お邪魔しちゃ悪いかもよ。」
美琴はそう言って、琴音の腕をそっと引いた。
太極拳の
琴音は桜木のことを話の上でしか知らない。しかし、あの人がそうだ、と確信した。
二人ともお互いを見つめて、笑っていた。
その笑顔は、先ほどまで琴音が見ていた暗い影とは、あまりにも対照的だった。まるで、この公園に存在する「悲しみ」と「希望」を、それぞれが体現しているかのようだった。
・
夜九時、琴音は符を刻んでいた。
百年もずっと、あんな辛そうな哀しみを抱えている心があるなんて、彼女には許せなかった。
自分が何かできることはないだろうかと、必死に考える。自分の渾身の『
そう思い、丁寧に、そして強く、卦を符に刻んだ。
彼らは、何等かの災厄の根源になっているかもしれない。もしそうであれば、討伐対象になってしまうだろう。
そう思うと、誰にも相談したくなくなった。彼女は陽介の顔を思い浮かべる。彼に相談すれば、きっと助けてくれる。
しかし、これは誰も巻き込んではいけない、自分だけの戦いだという予感があった
人知れず、彼らを解放したい。
琴音は、静かに、しかし「安らかに」「忘れない」という強い決意を胸に、卦を刻み続けた。
深夜二時、防具を装備したスーツに着替え、安全靴スニーカーを履き、刻んだ符をポケットに入れた。
こっそりと家を出ようとする。山手まで十三キロ。琴音にとっては大した距離ではない。ロードタイプの自転車の鍵を外し、走りだそうとしたそのとき、後ろから声が聞こえた。
「ちゃんと、帰ってくるのよ。」
美琴は、窓からこぼれる明かりを背に、娘の背中に静かに語りかけた。
その声には、怒りや戸惑いはなく、娘を信じる力が込められていた。
「お母さん……。」
美琴は、娘の背中に静かに語りかけた。
「危ないと思ったら、逃げることを考えなさい。」
琴音は、母親が全て承知していることを悟り、感謝と、そして「必ず戻る」という決意を込めて、力強く頷いた。
・
県道十二号から新横浜通りへ。三ツ沢公園の横を通り、大きなワインディングの坂を下っていく。遠くにランドマークタワーが見え、平沼橋を渡ると、見慣れた横浜の街並みが広がる。高島町、桜木町、関内、そして石川町のガード下を抜けた。
地蔵坂から桜通りに入った。記憶をたどり、琴音は自転車を置いて歩き始めた。
琴音は胸に手を当て、鼓動の速さを感じながら、あの血まみれの男たちが立っていたはずの場所へと向かっていった。
桜通りの陸橋の下から、JRの線路が地上に出てくるあたり。
その線路の上に、琴音は知った顔を見つけた。
鉄道の保線員とともに、役禍角が山手駅方面に歩いているのが見える。
いつもと異なり、ヘルメットを被り、Tシャツにチノパンという軽装だが、錫杖を持っている。あの肉感は見間違いようがない。
役禍角は鉄道会社と繋がりが深い。きっと何らかの依頼があったのだ。そう琴音は確信した。
彼がこの場にいるということは、あの霊たちが何らかの災厄の兆候と見なされている証拠だ。自分の直感が正しかったことを悟り、琴音は迷う。
彼とはかつて一悶着あったが、地下鉄事件では建設的に話ができた。しかし今回は、母親から聞いた、あの悲しい歴史が関わっている。彼がその事実をどう捉えるか、琴音には分からなかった。
それでも、このまま一人で彼らに向き合うよりも、まずは彼の考えを聞くべきだと、勇気を振り絞った。
「禍角さん!」
役禍角は訝しげに声の方に目をやる。
「なんーだ、誰かと思えば、モノノフじゃねえか。今日はお前一人か。」
役禍角は一呼吸置き、静かに呟いた。
「......ふむ。外に漏れるとはな。」
少し考えて、役禍角は琴音を呼んだ。
「この先の山手駅で少し話さんか。」
・
山手駅の駅員詰所で人払いしてもらい、琴音と役禍角は向かい合った。
「どこで、グウィシンのことを知った?」
「グウィシン?」
「なんだ、知らんできとったのか。」
役禍角は少し呆れたように言った。
「鬼神と書いてグウィシン。怨みや無念を抱えて死んだ、朝鮮民族の信仰における、救われぬ死者のことだ。」
「知りませんでした。あの、沖仲仕の方々は、朝鮮の方なんですか?」
「沖仲仕?」
「関東大震災で亡くなった沖仲仕の方々だろうと。」
「誰がそんなことを?」
「うちの母です。」
琴音は昼間の出来事を話した。情報を開示しても困ることはない。むしろ、役禍角の持っている情報が欲しかった。
「凄いな、あらかたお前の母親の推定はあってる。服装の様式で時代を割り出し、しかも彼らが沖仲仕だと見抜いたか。……いや、それだけではないな。」
彼の眼差しは、静かだが、深く冷たい怒りを湛えているように見えた。
「ただ、彼らは震災で死んだのではない。」
役禍角の言葉に、琴音は息をのんだ。
「震災のパニック下、デマに踊らされた日本人達に、集団で襲われ、殺されたんだ」
「当時の県知事が、国に提出した資料によるとだ、石川町から山手一帯で、日本人に虐殺された無辜の朝鮮人は七十名にも及ぶ。殺されていったのは日本に出稼ぎにきていた港湾労働者だ。」
役禍角は、重い口調で語った。
「だが、震災後の国の公式発表で、横浜市内での虐殺者数はゼロだ。新聞報道でもなかったことになってる。デマを信じたやつらも、乗じて暴徒化した者たちも、誰も咎められていない。」
「そんな……そんなのってない。」
琴音は絶句した。怒りと悲しみが、同時にこみ上げてくる。
「やつらは『震災に乗じて集団テロを始めた』という濡れ衣を着せられた上で、理不尽に殺され存在ごとなかったことにされているんだ。」
役禍角の言葉は、琴音の心に深く突き刺さった。あの恨めしそうな眼差しの理由が、ようやく分かった。彼らは、ただ震災で死んだのではない。理不尽な暴力に命を奪われ、その事実すら歴史から抹消されたのだ。
役禍角は、静かに、しかし深い憤りを込めて言った。
「百年前の日本はそういう国だったんだよ。怖えのは人間社会だよ。綺麗に覆い隠すために、事実を消す。」
琴音は、その言葉に何も言い返すことができなかった。目の前にいる巨漢の言葉は、歴史の闇に葬られた悲劇の重みを、まざまざと突きつけていた。彼らが抱える恨みは、単なる死の悲しみではなく、存在そのものを否定された怒りなのだと、改めて理解した。
「グウィシンに話を戻す。朝鮮半島の伝統的死生観を知らねば、この先は理解できねえ。基本は儒教的世界観だ」
「儒教?」
「まあ先祖を敬うということだ。……現世は人生の一部でしかない。子孫に先祖として敬われてようやく、人は人たりうるという思想だ。子孫の祭祀によって、魂は安らぎを得る。」
「しかし、結婚もせず、子もなさず、冤罪で死んだものは、安らぎを得られず、グウィシンに落ちる。あいつらはもう霊じゃない、グウィシンになってんだよ。」
「霊と
琴音の問いに、役禍角はポケットから見覚えのあるスマホ、簡易デバイスを取り出して見せた。
「グウィシンは邪神とはいえ、神の位置だ。浄化じゃ祓えねえ。何度か試みたが、想子波が霧散するだけだった。これも試したがな。」
琴音は、役禍角の言葉に動揺した。ポケットに入れた『雷水解』の符が、まるでただの紙切れのように感じられた。自分の力では、彼らを救えない。その事実が、彼女の心に重くのしかかった。
役禍角は、動揺する琴音を静かに見つめていた。
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関東大震災虐殺 内務省宛て文書公表
https://www.tokyo-np.co.jp/article/298022
韓国巫俗における憑依
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2244061/p113.pdf
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