第16話 地下鉄の闇(5)
黒い澱みの中から、ぬるり、と巨大な塊がせり上がるように、ゆっくりと地下鉄の最後尾車両が姿を現す。陽介は扉をこじ開けて急ぎ中へ。
車内の乗客は皆、深い眠りの中にあるようだった。立っていた者も床に座り込むように眠りこけている。彼らの顔色は青白く、呼吸は浅い。まるで時間が止まったかのように、静かに、しかし確実に命の炎が揺らいでいるようだった。編成全体は、緩やかな下り坂から上り坂へ差し掛かる小さな谷間にあり停止していた。先頭車両はまだ澱の中に沈んでいる。運転士の意識もなかった。
陽介のプロトデバイス(スマートフォン)は、浄化エンジンの駆動で使用できない状態だった。琴音の携帯を借りて朽木に連絡を入れる。列車の状態から、自力での走行は不可能と判断された。
朽木からの指示は素早かった。
「横浜市営地下鉄の
陽介がふと視線をやると、先ほどまで倒れていたはずの
「もういいのか?」
陽介が問いかけると、役禍角はかすれた声で答えた。
「ああ、取り込みすぎた毒気にやられてたが、だいぶ減ったからな。」
陽介は、先刻抱いた疑問をぶつける好機だと判断した。
「なあ、聞いていいか?」
「なんだ?」
「なぜ、翠蓮をスルーしたんだ? 結構ビビりながら見てたんだが。」
役禍角は一瞬、眉をひそめた。
「翠蓮? ああ、あの猫又娘か……ああいうのには正直、関わり方がわからん。それにあいつをやっちまったら、同じになるからな。」
「同じ?」
陽介は役禍角の言葉の真意を測りかねた。
役禍角は遠い目をして、感情を押し殺すかのように、しかし絞り出すようにゆっくりと語り始めた。
「ワシは十五年前、ただの会社員でな。カミさんと娘がいた。休みに家族旅行に出た折に、車で道に迷ってな、入ったらいかんとこに入ったらしい。」
その声には、深い悲しみと怒りがにじんでいた。
「そこでデカい妖怪どもの襲撃にあってな。二人とも目の前で食い殺された。娘が、生きながら食われつつワシに助けを乞うた。弱い弱いワシは情けなくも、一人車に乗り込み命からがら逃げた。カミさんと娘を生贄にしてな。」
陽介は言葉を失った。役禍角の強靭な肉体の奥に、想像を絶する悲劇があったことを知り、ただ立ち尽くすしかなかった。
「いまだ、そのときの後悔と、恨みは忘れちゃいない。」
「ならなぜ……」
陽介の問いかけを遮るように、役禍角は再び、陽介の目をまっすぐに見つめて言った。
「あの猫又娘には、父親がいるんだろ。」
その言葉は、役禍角の複雑な心情と、彼が翠蓮に対して抱いた、自身の後悔と重なるような感情の根源を物語っていた。
「しっかし、お前、わけわからんやつだな。即席で、ここで作ったんだろ、あのバリバリ。」
役禍角は、陽介が作り出した浄化エンジンに感嘆とも呆れともつかない表情で言った。その声には、先ほどまでの威圧感とは異なる、純粋な好奇心と、かすかな敬意が混じっていた。
「おっさんの珠と錫杖があったから、できたんだ。」
陽介は、役禍角の持つ道具が浄化エンジンの起動に不可欠だったことを説明する。
役禍角は、陽介に問うた。
「あの機械、借りられんか? タダとは言わん。駅長会に要請されててな、名古屋と、札幌にも行かにゃならんのだ。」
陽介は内心、戸惑いを覚えた。一台しかないプロトデバイスを、そう簡単に他人に渡せるはずがない。
(それにあれ、俺の個人情報ゴリゴリ入ったスマホだぜ……)
「貸すのはダメだな。材料のスマホがあったら、禍角専用の作るよ。」
陽介は、役禍角の申し出を断りつつも、別の解決策を提案した。
澱みの浄化が完了する。列車は市営地下鉄に引き渡され、用意された動力車に牽引されて、三ツ沢上町駅に向かった。すでに医療スタッフが待機しているらしい。
三人は歩いて、新横浜に戻る。
「モノノフ。おまえには、もう一仕事あるぞ。」
琴音が役禍角に声をかけられて、ビクリとする。
「はい!?えっと、何か、ありました?」
「駅の向こう側、鶴見川のあたりの線路にも、アレがあってな、あっちでもバリバリやるしかない」
陽介も正直忘れていたが、新羽方面にも確かに澱みがあった。
「あと浄化を一回撃てますから、やれます。」
琴音は、こんな会話を役禍角とできるとはおもっていなかった。
今なら言える。と、目をくりっと見開き、切り出す。
「あの……ありがとうございました。うちの母も新横浜で救っていただいた一人なんです。」
「んー。そうだったか。まあ、ワシは仕事だからな。」
役禍角は照れるようにいう。
琴音は、さらに問いかけた。
「聞いていいのかな。あの……人を閉じ込めてた空間を、現実に引き戻した術式。あれは修験道独自のものなんですか?」
役禍角は一瞬思案するように目を閉じ、何かを吟味するかのように顎を撫でてから答えた。
「ワシは専門じゃないが、卦術にも似たようなのがあるんじゃないか? まあ、
役禍角の言葉に、琴音の目がキラリと輝く。術者同士の、奥深い専門的な会話が始まった。まるで水を得た魚のように、琴音は役禍角の術の仕組みに深く興味を抱いているようだった。
横浜市営地下鉄の神隠し事件は、役禍角の介入と陽介たちの活躍により、ようやく幕を閉じた。
・
金曜日、夜7時。横浜中華街「翠林苑」に、看板娘の声が響き渡る。
「たっだいまー! こっちこっち! 早く入って、座って座って! 」と、翠蓮が店中に響き渡る声で叫んだ。
翠蓮は通っている拳法道場から二人の客を連れてきた。一人は真新しい道着を持つ少年。もう一人は洗いざらしのTシャツに、年季の入った柔道着を背負った、筋肉質の中年男だ。
「父さん、この二人、スペシャルコースね! 今日は、アーシのおごりー!」
翠蓮の父親が厨房から顔を出し、問う。
「入門かい?」
少年が照れ臭そうに笑う。
中年男が微笑みながら、厨房の父親に問いかけた。
「店主、繁盛しておるなあ。」
店主は嬉しそうに答える。
「おかげさんでね。看板娘もいるしね。」
テーブルには、湯気を立てる東坡肉、もちもちの水餃子、香り立つ麻婆豆腐、青椒肉絲、シュウマイに揚げ団子と、色とりどりの豪華な料理が並ぶ。ひとまず三人で乾杯し、中年男はビールを喉の奥へ流し込んだ。
「ほんとに、来てくれたんだね、禍角先生。」
翠蓮の言葉に、男はグラスを傾けながら答える。
「ま、ちょっと様子見たくてな。…お前さんのとこの道場が、どこまでまともなのか、と。」
少年が問いかけた。
「おじさんって、絶対、あの日、新横浜で闘ってたよね?」
翠蓮が誇らしげに胸を張る。
「そうよ、この人、アーシの四倍は強いんだから。」
少年が目を輝かせながら尋ねる。
「聞いていい? どうしたら強くなれるの?」
禍角は腕を組み、天井を仰ぐように考え込むように言った。
「そうだな、沢山食って、沢山走って、地獄を見て、毎日積み重ねるってのもあるがな……最も重要なのは、何より目的を持つことだな。」
禍角の視線が、真剣な眼差しを向ける少年に注がれる。
「己を何のために鍛えるか、だ。」
その時、ポン、と手を叩いて翠蓮が立ち上がった。
「あ、そうそう! 思い出しちゃった! 陽介クンから、今日禍角さん来るって言ったら、渡してって。」
そう言って、翠蓮は持っていた小さなポーチの中から、ごそごそと箱を取り出した。
「なんじゃ、忘れ物か?」
禍角が箱を開けると、中には使い古したスマートフォンが入っていた。筐体はボロボロだが、ディスプレイは綺麗に磨かれている。陽介がわざわざ準備したことが見て取れた。
「聞いた言葉、そのまま言うと、これは初期に作った『簡易デバイス』だけれど、同じ動作をする最新ソフトを入れ直したって。」
翠蓮の言葉に、禍角の顔に驚きと、隠しきれないほどの純粋な喜びが広がる。
「おうおうおうおう、そうか! そうか! 約束通り、作ってくれたか! これは、ありがたい!」
禍角は、陽介が約束通り、彼専用の「浄化エンジン」を搭載したデバイスを用意してくれたことに心底感謝しているようだった。
両手でスマホを握りしめる。
その目は、まるで宝物を手に入れた子供のようだった。
・
事件から数日後、朽木から陽介に連絡が入る。開発中のFUM(Field Unity Meter)が、貸し出していた医療機関から返却されたという。
新横浜の開発室で久々に、観測珠の輝きを見る。治療中の患者たちを観測珠が測定したログが残存していたが、あちこちに不安定な波動が読み取れた。
「医療機関での被害者たちの意識は?」陽介は思わず尋ねる。
朽木は報告書に目を落としながら、静かに答える。
「体力は回復し、意識も通常生活を送れるレベルに戻っている。退院した者もいる……ただ、メンタルに問題がある」
「メンタル、ですか」
「皆、一律に強く恋焦がれているようだ。」
陽介は耳を疑った。
「え?」
朽木は報告書を眺めながら続けた。
「アンケートをとると一律に、『もう一度逢いたい』『会いたくて会いたくて』『逢いたくなった時に 君はここにいない』『あなたに逢いたくて』……と。」
(……平成J-POPかよ。)
陽介はツッコむが、あまりにも非科学的で、それでいて皮肉な事実に思える。
「中国の古典にある伝説では、金華猫には、強力な魅了の魔力があるというからな。」朽木が淡々と説明する。
「なんか可哀想な気も、いやこれは、ある種の幸福と呼べるのか? 複雑な気も……。」陽介は心境を口にした。惚れた腫れたは理ではない。
朽木は陽介の顔を覗き込む。
「陽介くんは大丈夫か?」
(え? いや翠蓮のこと考えるとじわっと、少しは入ってるのかも。)
陽介は自分の心にも、かすかな、しかし甘い残滓があるような気がして、思わず考え込んでしまった。
・
「ところで、相談なんだが、役禍角くんの報告書にあった、卦術エンジンを、FUMにも搭載できるだろうか。」
朽木の問いに、陽介は首を横に振った。
「あれは、禍角の錫杖を経由して怨霊のヘドロをエネルギー化したからできたんです。それがなければ、秒間八回、一分で四百八十回の卦術発動に耐えうる術者が必要になります。人間の限界を遥かに超えてますね。」
陽介の説明に、朽木は厳しい表情で呟いた。
「死ぬな。」
「死にますね。」
陽介もまた、その途方もない消耗を想像し、静かに同意した。
卦術エンジンの実用化には、まだまだ多くの課題が残されている。
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