おねがい
海の見える窓辺のベッドで、弟は静かに息をしていた。その胸はかすかに上下し、まるで波打ち際の水音のように頼りなく、小さな生命の火がそこにあることを、わずかに示していた。
私は、ベッドの隣で黙って弟の手を握っていた。細くて、冷たくて、すぐに壊れてしまいそうな指だった。私が少しでも力を入れたら、折れてしまいそうで怖かった。今はもう起き上がることすら出来ない状態になっており、弟の手を握る私の手は震えていた。
「今日はね、港の方に行ってきたんだよ」
いつも通り、私は弟に話しかける。目は閉じているけれど、きっと聞こえていると思った。
「市場の近くに、すっごく大きなマグロの絵が描かれててさ。お魚屋さんのおじさんが、猫にお魚あげてたよ。すごく可愛かった!」
返事はない。でも私は、語り続ける。
港の匂い、潮風の感触、漁師のおじさんたちの笑い声――全部を弟に伝えたかった。弟が行けない“外の世界”を、少しでも届けたかった。
だけど、どれだけ言葉を尽くしても、弟はそれを感じることは出来ない。弟の小さな手が、直接風に触れ、海に包まれる日は……来るのだろうか。
その夜、私は家からひっそりと抜け出した。パパとママにバレないようにゆっくりと扉を開き外へと出る。星が光る夜道は1人である国はとても怖かったが、震える足をおさえ私は海辺の祠に向かった。
冷たい風が、洋服のスカートをはためかせる。海からの優しい潮の香りが胸に満ちて、いつもより強く心が波打った。
「神様……どうか……」
小さな声が、海風にかき消される。
――どうか、弟を連れていかないで。
命には限りがあって、誰にもそれを止めることはできない。それでも、私は願わずにはいられなかった。もし弟が居なくなってしまうのであれば私も一緒に弟と”そちら側“へ行く。
✦︎✧︎✧✦
弟が「海に行きたい」と言ったのは、ほんの数日前のことだった。
「……ほんとは、もう歩けないって思ってたけどね。なんだか、夢の中で神様に呼ばれたんだ。行こう、って」
細くなった棒のようになった足。今はもう、ママかパパに車椅子を押してもらえないと移動すら出来ない状態だった。
夢の中の出来事――
それが真実かどうかなんて関係なかった。弟の中で、それが希望になっているのなら、それはもう“現実”だった。
私は、手帳に予定を細かく立て始めた。弟が無理をしないように、でも少しでもいいから「外の世界」を感じられるように。
──どうすれば、弟を海に連れて行ける?
病室から海までは、私の足で歩いて20分はかかる。今の弟の身体では到底無理なことは目に見えている。なら、誰かにお願いして車に乗せてもらう?それとも、お医者さんに頼る? 家族に話す?
……どれも、現実的じゃなかった。
誰かに話したところで”ダメ“と言わることなんてわかりきっている。
「ここから私が弟を連れ出して逃げるしかないかも」と思ったとき、自分の考えがあまりにも危うくて怖くなった。そんなことをしたら弟はきっと……でも、弟のあの目を思い出す。
「お姉ちゃんと、海を見てみたいんだ」
海に行くということは、たった一度の、大きな願いだった。海の話をする時はいつも異常に目が輝いていっぱい質問をしてきてくれた。死を目前にした弟が「生きてるうちにどうしてもしたいこと」を口にしたのは、それが最初で最後だったかもしれない。
だから、私は決めた。
この願いだけは、絶対に叶えると。
そのために、今、できる準備をする。どんな方法でもいい。奇跡じゃなくていい。ただ、弟に“本物の海”を見せたい。小さな頭で考えて、考えて。それだけじゃ、どうしようもないからいっぱい調べた。
その日、帰り道の灯りが、いつもより遠く見えた。ひとりで歩く道の心細さは、一人病室に残る弟の孤独とほんの少し重なった気がした。
弟だって辛くて寂しい思いをしてるんだ。その弟のために頑張らないといけないんだ。
私はひとりじゃない。弟がいてくれる。まだ間に合う。だから、もう少しだけ……神様、どうか時間をください。
そう願いながら、私は震える手で手帳に小さく「海の日」と書き込んだ。
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