よるのぼうけん

 夜、私は家を抜け出して、もう一度病院へ向かった。家族に黙って、弟に会いに行くために――


 夜の病室はとても静かだった。機械の小さな電子音が、時折空気を震わせる。窓の外では月が海に浮かぶように輝き、夜の帳は静かに、しかし確実に世界を包みこんでいた。


 私はベッドの横に座り、眠る弟――こうの手をそっと握っていた。


 小さな手は冷たくて、けれど、ほんのりと生きている温度が残っていた。


「……お姉ちゃん、起きてる?」


 かすかな声。まるで夢の中のささやきのようなその声に、私ははっと顔を上げた。


 洸の瞼が、かすかに揺れていた。


「洸……!」


 私は思わず身を乗り出した。


「ねえ……僕、今日……すごく、調子がいい気がするんだ」


 そう言って、弟はゆっくりと体を起こす。このところ、自分で身体を起こすこともできなかったのに。どうして……


「……ほんとに、大丈夫なの?」


「うん。……たぶん、僕の為に神様が力をくれたんだよ」


 あのときの夢のことを、また弟は話す。波の音と一緒に聞こえた“声”。海の神様が僕たちを呼んでいた――そう言って。


 思わず私は息を飲む。


「お姉ちゃん……お願い。僕、行きたい」


 その目は真剣だった。もう、迷う理由なんてどこにもなかった。洸の願い。それは、ずっと前から分かっていた。


 叶えたい。どうしても、叶えたい。


 祠で毎日願っていた私の言葉は、きっと、神様に届いていたのだ。


 私は深く頷いた。


「わかった。行こう。二人で――海へ」


✦︎✧︎✧✦


 弟には、マフラーと毛布、外に出ても寒くないように小さな帽子をかぶせた。元々準備をしておいた小型の酸素ボンベと弟がいつも描いていた“海の絵”を、リュックの中に丁寧に入れる。


 時計は夜の一時を回っていた。


 私は窓をそっと開け、看護師にばれないように病室から外に通じる、裏口の抜け道を選んだ。夜の病院は、まるで眠る巨大な動物のように静かで、ほんの少しの物音すら目立ってしまう。


 息を殺しながら、私は洸の手を引き、足音を忍ばせて廊下を進んだ。ふらりとよろけた際私の手を掴んで、ぎゅっと力を込めた。


「平気。歩けるよ」


 車椅子ではなく自分の足で立って歩いている。その姿に思わず心が震えた。看護師に見つからなかったのも神様の配慮なのだろうか私たちは誰にもバレることなく病院の外へと出ることが出来た。


 暗い夜道に出ると、潮風がふたりの間をすり抜けていく。街灯がぽつぽつと灯り、舗道の影が長く伸びる。


「……わぁ、空ってこんなに広かったんだね」


 弟が空を見上げる。そこには、まあるい月が浮かんでいて、キラキラと光る星空はまるで私たちを見守っているようだった。


 私はその横顔を見つめた。キラキラと嬉しそうに見上げる弟をみて私は一生忘れたくないと思った。


「お姉ちゃん」


「なに?」


「もしまた神様にお願いごと、できるなら……今がずっと続いてほしい」


“今がずっと続いてほしい”――その言葉に、胸の奥が締めつけられた。こんな夜が、ずっと続けばいい。けれど、それが永遠じゃないことも私は知っている。


 私は洸の手をぎゅっと握った。弟の手は少し冷たかったがほんのり感じる温もりに生きてることを実感させてくれた。


✦︎✧︎✧✦


 歩いて、歩いて。夜の街を通り過ぎ、海が近づくにつれ潮の香りが濃くなった。


 ふたりの足音だけが、静かな夜に響く。まるでこの世界に、私たちしかいないような気がした。


「あ!お姉ちゃん。猫、いるよ!」


 弟が指さす先、暗がりに白い猫が丸くなって寝ていた。弟はそっと近づくが、猫はすぐに目を覚まし、ぱっと走り去ってしまった。


「……あーあ、逃げちゃった」


 伸ばした手が空を切り、悲しそうに猫が去っていった場所をみて思わず笑ってしまった。


「ふふ、また会えるよ。きっと、もっと元気になってからね」


「ほんとに?」


「うん、絶対に」


 弟はまた笑って、ぎゅっと私の手を握りしめた。その手はとても小さく、でも確かに私の手を引いてくれていた。


✦︎✧︎✧✦


 やがて、海が見えてきた。


 月明かりに照らされた水面が、キラキラと輝いていた。弟の目が、驚きと喜びでいっぱいになる。


「すごい……本当に、来れたんだ……」


 弟は震える足で、砂浜に降り立った。砂に足を取られて転びそうになりながら、それでも前へ進む。


「わぁ、海の砂ってこんな感じなんだ」


 嬉しそうに砂を踏みしめている弟をそっと支えて、波打ち際まで歩いた。


「お姉ちゃん、海の音……ほんとに“ザザー”って言うんだね……」


 洸が笑った。


 裸足になったその足に、波がやさしく触れる。


 私は、何も言えなかった。ただ、泣きたくなる気持ちを堪えながら、波の音に耳を澄ませた。


 願いは、たったひとつだけだった。


 「弟に、本物の海を見せたい」――それだけ。


 今、その願いは、確かに叶った。


「お姉ちゃん。ありがとう」


 洸が私を見て、そう言った。私はそっと弟の肩に手を添えた。


「まだ……終わりじゃないよ。まだ、いられるよね」


 弟は、微笑んだ。


「うん。きっと……海の神様が、もう少しだけ、時間をくれる」


 その夜、ふたりは並んで海を見つめていた。


 星が海に落ちるように輝き、波がやさしく寄せては返す。世界が静かに私たちを見守っているようだった。まるで何かがふたりを包み込むように。


 ――始まりは、いつも静かでやさしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る