泡沫と共に -ミズクラゲ姉の精霊譚-

ふたりのはじまり

 私たちは、生まれた瞬間から一緒だった。お腹の中にいたときから、ずっと一緒。だから、どちらが先に生まれたかなんて、どうでもよかった。


 あの子は、私が守らなければいけない存在。そう――私は、生まれる前から知っていた。


 


✦︎✧︎✧✦


 


「お姉ちゃんの方が、ちょっとだけ大きいのよ」

 そうママが笑って私の頭を優しく撫でた。


 私は元気だった。走っても転ばないし、風邪もあまりひかなかった。それに比べて弟は、小さな咳だけで息が苦しそうになって、ちょっと歩いただけで顔色が悪くなる。


 お医者さんは難しい言葉で何か言っていたけれど、私はただ「この子は病気なんだ」としか理解できなかった。きっと、私が弟の分まで元気を取っちゃったんだ……。


 弟は外にすら出られなかった。体がとても弱くて、歩くことも、走ることもできなかった。だから、いつもベッドの上で、海の見える窓をじっと眺めていた。


 その背中がとても寂しそうで、私はどうにかして笑わせようとした。


「ほら、今日は空がすごく青いよ!」

「海、キラキラしてるよ。まるで宝石みたい!」


 私は弟に、たくさんの“外の世界”を伝えたかった。少しでも多くのものを見せてあげたかったんだ。


 


 そんなある日、弟が言った。


「お姉ちゃん、海ってどんな感じ?」


 その問いかけに、私は目を輝かせて答えた。


「えっとね、ザザーって音がして、波が足に触れるんだよ。

水はしょっぱくて、砂はサラサラ。夏になると砂浜があっつくて、裸足じゃ歩けないの!」


「……しょっぱいの? なんで?」


「え?……うーん、海だから?」


 そんな会話が、私たちの間に流れる日常だった。弟が海に行ったことがないのは当たり前だったけれど、その言葉の一つ一つに私は、切なさと願いを込めていた。


 


 “いつか、連れて行ってあげたい”


 


 そんなの無理だって、どこかでわかっていたでも私は、願わずにはいられなかった。


 だから――私は祈った。


 何度も、何度でも。


 


 弟のために、私は色んなことをした。


 海の話を本で読んで調べたり、貝殻を拾ってきたり、

「海の神様が願いを叶えてくれるらしいよ」と言って、物語のような話をたくさんした。

 少しでも弟と共有をしたかったからだ。


 


 ある日、近所のおばあちゃんから教えてもらった。


「この町は、ずーっと昔から海の神様に守られてるんだよ。ほら海辺の祠にいる神様にお願いごとをすると叶えてくれるんだ。だから神様は大切にしないといけないんだよ」


 だから私は、学校の帰りに祠に寄って手を合わせた。お賽銭なんてそんなに持っていなかった。お手伝いをした時にもらえたお駄賃を手に握りしめて、毎日毎日祈った。


 


『神様、お願いです。弟が苦しまずに笑っていられますように。

それから、どうか……ずっと一緒にいられますように』


 


 祈るたび、胸の奥が温かくなるような、切なくなるような、そんな不思議な気持ちがした。


 


 弟の願いは、いつも同じだった。


「お姉ちゃん、ずっと僕のそばにいて」


 ギュッと私の手を握りしめながら、弟はそう言った。


 そのお願いを叶えなきゃって……色々頑張ってたんだ。


 


 けれど――現実は、優しくなかった。


 ある日、病室で交わされた言葉を、私は今でも忘れない。白衣を着たお医者さんが、淡々とこう言ったのだ。


 


こうくんの余命は……およそ一年です」


 


 “余命”ってなに?

 よくわからなかったけれど、ママの顔が真っ青になったのを見て、私は「きっとこれは、とても嫌なことだ」と悟った。


「ママ……?」


「……ごめんね、洸とさよならしなきゃいけない日が、近づいているの」

 ママの震える声。口元を抑え下を向いた母の目からは、ぽたぽたと涙が落ちていた。


 私はただ、首を横に振ることしかできなかった。


 


 だって――ずっと一緒だって、約束したのに。


 


✦︎✧︎✧✦


 


 そこからの日々は、夢みたいだった。いや、夢であってほしかった。


 あの日から弟はたくさんのことをやらせてもらえるようになった。今まで『寝てなさい』と言われてたのに、これが最後だからと……絵本を読んで、パズルをして、たくさん絵を描いた。私も一緒になって遊んだ。ふといつも描いてる絵を見て気づいてしまった。描かれる絵はいつも同じ……


 


“家族で手をつないで、外で遊んでいる絵”。


 


 それはきっと、本当の弟の願いだったんだと思う。私たちが一緒に外で笑う、たった一度でいいから叶えたかった夢。


 私は――

 笑わなきゃと思いながら、何度も泣きそうになった。


 弟が元気だったなら、私たちは普通に鬼ごっこをしたり、わんちゃんを飼ったり、公園でアイスを食べたりできたのに。


 できないことがあまりにも多すぎて、“ただ一緒にいる”ことが、こんなに切ないなんて思わなかった。


 


 弟はいつも笑顔だった。優しく微笑む笑顔が私は大好きだった。でもその笑顔の裏で、顔色はどんどん悪くなっていた。ぷっくりとしていた頬はこけ、呼吸が浅くなった。起き上がって絵を描くことも……ペンを持つことさえできなくなった。


 


「お姉ちゃんにも、この苦しいの……分けてよ。私の元気を半分あげるから……」


 


 どうして元気は“半分こ”って、できないんだろう。


 


 ずっと一緒だったのに――


 


 そんなある夜、弟は静かに言った。


「サヨナラする時は、お姉ちゃんも一緒がいい。

お姉ちゃんと一緒なら、僕、頑張れるから」


「うん。私たちはずっと一緒だよ。――約束する」


 私は、ただ涙をこらえながら頷くしかできなかった。


 


 その言葉を交わした時、私たちの物語は静かに、

 けれど確かに、“運命の夜”へと向かいはじめていた。

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