泡沫と共に
柊 こはく
プロローグ
泡沫と共に
月明かりに照らされた海の水面はキラキラと星空のように輝いていた。
そんな海の中に人が一人落ちてきた。
ふわりと足元から重力がほどけ、まるで空に浮かんでいるようだった。波は何も言わず、ただ静かにその身体を包み込む。
やがてその身体は、ゆっくりと沈んでいく。深く、深く、冷たく静かな世界へ。
そして泡がひとつ、海の底で静かに弾けた。
それは――命の終わりであり、始まりの音だった。
✦︎✧︎✧✦
海の神様は、はるか昔からすべてを見てきた。
生まれた命も、失われた命も。人間の優しさも、愚かさも。そして――かすかな、けれど強い“願い”の光も。
けれど、年々海は汚れていった。陸からは無数のゴミが流れ込み、海の生き物たちはそれを誤って飲み込み、絡まり、傷つき、生きることすら許されなくなっていった。
海に生きる命は減り続け、その美しさは深く暗い悲しみの色へと変わっていった。それを見つめる海の神は、何度も願った。「この手で救えたなら」と。
けれど、神には“手”も“足”もなかった。世界の理に囚われた存在として、ただ、祈ることしかできなかった。それでも神は見つめ続けた。消えていく小さな命を、命の終わり際に浮かぶ、ささやかな想いを。
そんなある日。静かで広い海の底に、ある声が届いた。
『もっと、生きたかった』
『やりたいことが、まだたくさんあったのに』
それは、海で命を落とした人間たちの魂の声だった。
子どもも、大人も。病で倒れた者も、悲しみによって自ら海に飛び込んだ者もいた。彼らは最後の最後に、誰にも言えなかった願いを抱えていた。
心からの叫びは海の中の神へと伝わってきた。海の神は、その声にそっと手を伸ばす。触れられないはずの存在である自分が、思わず、手を伸ばしていた。
「君たちにもう一度生きるチャンスをあげよう」
「この海を守る存在として」
「今度は、自由に――生きてほしい」
神は、命を再び灯すことを決めた。小さな魂たちを精霊としてこの海に生まれ変わらせた。
かつて人間だった彼らは、精霊となり、“海を守る”という使命と共に第二の生を歩みはじめた。
けれど――それは建前だった。
母なる海の神が本当に望んだことは、ただひとつ。
「今度こそ、楽しい人生を送ってほしい」
「今度こそ、苦しいではなく、“幸せだった”と終われるように」
「生きることはつらいばかりではないと、そう思えるように」
「今度こそ、最後に“ありがとう”と言えるように」
だから、海の神は彼らに“役目”を与えた。それは、ただの方便だった。ただ“与えられた意味”をもって生きることで、彼らの心が少しでも軽くなるなら――
そう思っての、ささやかな仕掛けだった。
神は知っている。役目があった方が、人は強くなれることを。“自分に価値がある”と思えることが、どれほど心を救うかということを。
そして、精霊たちは少しずつ、この海で学んでいく。
――海の冷たさも、あたたかさも。
――命の重さも、軽さも。
――優しさと、痛みと。
――そして、誰かと共にあることの、意味を。
泡のように、消えてしまいそうで。それでも確かにそこにあった命の軌跡。
この物語は、そんな精霊たちの、静かでささやかな生きなおしの記録である。そして、彼らを見守る神様とのやさしい約束の物語。
――『泡沫と共に』
悲しみの海から生まれたあたたかな再生の物語が、今、静かに始まる。
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