第六章 第五幕 毒を食らわば皿まで

――死を覚悟し、歯を思いっきり食いしばる。眼は完全に開いて男の顔面を閻魔様にでも告げ口しようとしっかり見る―――


視界に急に入ってきたモノは――





―――スマホ……?





「はぁ……。」


 不必要な心配で肩が強張り、緊張状態が一気に解けたせいでため息が出る。


 よく見ると、最新のlPhoneエルフォンで、チタニウムデザインのものだった。

――紛らわしい。


「お前こそ誰なんだよ。」


 言い方に腹が立った。言い返す。

 

「お前が先に言うべきだろ。」


 男は俺の気迫に狼狽える。その一瞬を見逃さず、綾乃が俺の手を引き、すぐに俺を綾乃の後ろに連れる。

――守るはずが守られてるこの状況なんなん?


「彼は私の元カレ。粘着質の人。」


 綾乃は、元カレと対峙しながら、俺を背に話す。


「こんなことになるなら、インスタブロックしとけばよかった……。」


 綾乃にしては珍しく、正直な感情を露わにする。


「せっかくここまで来たっていうのに、その言い方はないんじゃないか?」


 両腕を広げながら、頭を振り、自分が”せっかく”きてやったのになんだと体全体で現している。気持ち悪い……。


「もういい。慎一。帰ろ。」


 手をつながれ、駅の方へ連れられる。そしてそのまま、改札に入る。


「待てよっ――」


 そう言いかけたのが聞こえ、ふりかえると


「何のために俺らがいると思ってんだ。」


 そこでは誠也と憲弘が、駅の改札をふさぐように立っていた。


「お前ら。誰なのか知らないけど。邪魔だからどいてくれない?」


 そういって、強引に改札へ向かって、無駄に大きな一歩を踏み出すが、


「行かせねぇよ?」


 憲弘が男の足をひっかける。


「慎一、お前らはさっさといけ。もうすぐ電車来るだろ!」


 憲弘の言葉にかぶせるように、駅のホームにアナウンスが響く。


――――「駆け込み乗車は、危険ですから、お止めください。」



「急ぐよっ。」


 綾乃に引っ張られ、ついていく。


――ガタン。




――――――2024年6月4日23時34分06秒




「ふぅーっ。ギリギリ間に合ったぁー!」


 すっからかんの電車の座席に勢いよく座る綾乃。


「駆け込み乗車は危険なんですけど……。」


 俺はそばで立ったまま、すこしからかい節で言うと、


「危険から逃げるのに、走るなっていう方が無理でしょ。」


 そういうと、綾乃はバッグから小銭を取り出す。


「それよりも、はい……。これ……。」


 ? そもそも何故俺は反対方面の電車に乗らなければならなかったのか。そして、よく考えたら、今乗っている34分発の直後、35分が俺の終電だった。つまり、終電を逃したことになる……。


「え、これじゃ帰れなくない……?」


 帰るにはタクシーを呼ぶしかなく、呼ぶにしても1万以上はかかる。


「いいの。とりあえず、江北駅から私の最寄りまでの分。」


 猶更よくわからない…。


――車窓から外を眺める。高3のときの風景とあまり変わらない。その懐かしさはあるけれど。この時間に、家とは反対方面に向かうのは初めてだ…。


「ありがとう……。」


 綾乃の目を見て言うと、綾乃は顔を背けて、かけていた座席から外を眺める。俺が見る同じ車窓からの景色と、綾乃の見る景色とでは違うのだろうか……。


――そんなことを考えていると、暗い車窓に反射したお互いの顔が映る。綾乃は目を震わせている。列車の振動かとも思ったがそうではない。確かに、綾乃の目元で反射する光が震えている。


「大丈夫だよ。」


 そんな無責任な言葉しか言えなかった。そばにいるのは、冴えない、何もできなかった、何もしてこなかった俺だけ……。それでも――


「大事なのは、”これから”なんでしょ。」


 その一言が――綾乃からもらった毒を、中和していく。




――――――1分後




――――「まもなく、榊林、榊林~。お出口は右側です。開くドアにご注意ください。」


 綾乃の最寄り駅につく。


 なぜ俺は終電を逃さなければならなかったのか……。疑問が渦となって心の中を蠢いている。


「そんで……。」


 言葉を交わさなければわからない。だが、質問ばかりでは相手との距離も測れない。


「この後、俺はタクシー拾って帰ろうかな……。」


 独り言にしては大きすぎるが、綾乃に聞こえるように言う。


――「まだ……、」


 まだ……。その一言が背中越しに聞こえた。


「まだあいつが追ってくるかもってことか……。」


 肩をすくめながら話す俺に、綾乃が耳元でささやく。


「まだ…一緒にいて。」


 どうしようかと考える間もなく、綾乃は俺の背中を押してくる。


「いいから、早くいくよ。」


 そういって、駅の構内から出る。彼女の家路を歩いていると、七年前の記憶が、ふとよみがえる。

 あの日あの時、寒い夜に交わした言葉……。交わした贈り物……。その光景が、フラッシュバックする。


「私……。どうすればいいんだろ。」


――綾乃の家の前で足を止める……。


 綾乃は、男性と付き合っている状態が常で、そうじゃないときが少ないのだろう。だからどうすればいいのかわからない。それは、受験直後の俺と似ている。


「動き続けてると、疲れるよね。」


 ずっと何もしてこなかった人間としては、動き出す最初の一歩でさえも億劫だった。けれど、ずっと頑張ってきた人は、一度止まって、考え直して、頭をすっきりさせてあげたい。


――綾乃は落ち着いた表情をしながらも、片方の腕を握る手からは焦燥を感じられる。


「綾乃は自分のなりたい自分になろうと、頑張り続けてきてるんだと俺は思う。」


 その経験で、燃え尽きて灰になった俺だからこそ言える。


「どこで頑張って、どこで手を抜いて、どこでまた本気になればいいのか、ちゃんと理解できなくて、」


 綾乃は目を閉じて、俺の言葉を感じ取る。


「少なくとも今は、ゆっくり休むタイミングだから。何も気にせず、何も考えない日、時間があってもいいんじゃないかな。」


 そこから這い出すのに時間はかかるかもしれない、実際俺は何年もかかった。


「それでも、今日……先生、誠也、憲弘そして、綾乃が気づかせてくれたように。

――綾乃が新しく踏み出せないときは、俺とみんなで、一緒に最初の一歩を踏み出すのを手伝うから。」


 綾乃は真っすぐに俺を見つめ、そして、一歩ずつ俺に近寄る……。


「ありがとう……。私、慎一に休ませてほしい……。だから――」


 綾乃は口角が上がるのを必死に抑えようとしている。


「今日は一緒にいて欲しいの。」


 俺の手を引きながら、綾乃は自宅の扉の鍵を開ける。


――俺の心臓は、落ち着いた脈拍を保ち続けていた。





―――綾乃宅にて




「言っておくけど……特別な感情なんて一切ないから、そこだけ気を付けてね。」


 さっきまでの女の子がどこかへ行ったのか、あるいは家について安心したのか、いつもの綾乃に戻る。


「けど、今日はありがとう。慎一じゃなかったら、家に連れてきてないし……。」


 綾乃は冷蔵庫を開けて、麦茶を取り出しながら、


「慎一は、とりあえず……。家の中にいてくれれば大丈夫。

――寝る場所は……布団持ってくるね。」


「そこまで気遣わなくて大丈夫だよ。」


 綾乃は一瞬こっちをみると、部屋に入って布団を持ってきた。


「はいこれ。あとは自分で準備してね。私は明日も仕事だから。もう寝るけど……トイレの場所はわかる?」


「まぁ、なんとなくは。」


 そう答えると、綾乃は眠そうな目をして手を振る。


「じゃあ、おやすみ。」


「おやすみなさい。」


 綾乃は、自分の部屋の戸を開けたまま寝床につく。


――俺も明日は高校でキーパー教えないとだし、早めに寝ないとな……。

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