第1巻 第3章 導(しるべ)となる裂け目

歳を重ねれば、すべてがもっと簡単になると思っていた。

経験を積めば、人間関係の理解も楽になるはずだった。

――でも、現実は違った。

年を取れば取るほど、人生は複雑になっていった。

死ぬ数年前まで、

私は自分が人のことをよく理解していると思い込んでいた。

けれど、たった一つの出来事が、すべてを明らかにした。

私はまるで、何度も中身を抜き取られたマッチ箱のようだった。

気がつけば中には何も残っておらず、擦る面もすり減っていた。

新しいマッチを探すこともせず、私は箱ごと脇に置いた。

ある意味、それは――自分を捨てた、ということだろう。

もし選択肢があったとしても、きっと私は同じことをした。

愛情や思いやり、気遣い。

そういった温かな感情には、もう一つの側面がある。

それは「執着」だ。

人との距離が近づくほど、その側面ははっきりと現れる。

関係が深くなるほど、「私」の居場所は狭まり、

やがて「私」は「私たち」に飲み込まれていく。

このことは、誰もが一度は向き合わねばならない課題だ。

受け入れて折り合いをつけるか、

あるいは最初から手放すか。

私はベッドに仰向けになり、額に手を当てて天井を見つめていた。

部屋に響く唯一の音は、無慈悲に時を刻む時計の音。

どれだけ止めようとしても、秒針は止まらず、

一歩一歩、時間の経過を告げてくる。

もっとも、これはいつものことだ。

傍から見れば、私はまた日常の繰り返しに沈んでいるだけに見えただろう。

でも、実際は少しずつ――何かから立ち直ろうとしていた。

…何から? 拒絶?

だが、私は明確に振られたわけじゃない。

なら、何からだ? わからない。

彼女は、私が言葉をすべて伝える前に消えてしまった。

たぶん、あれが彼女なりの「断り」だったのだろう。

はっきりとではなくても。

私が抱いていた想像は、根拠のない妄想にすぎなかった。

彼女はただ、私に優しくしてくれただけ――

それだけだったと、私はわかっていた。

でも、それでも。

それでも、私は踏み越えてしまった。

ルビコンを。

相手の心を勝手に作り上げるのは、間違っていた。

過去に何度失敗しても、私はまた同じことをしていた。

人を知っているつもりでも、理解することはできなかった。

人間関係は、常に難しかった。

どれだけ失敗から学んでも、

次の失敗は必ずやってくる。

振り返ってみれば、

たぶん、それが「経験」というものなのだろう。

皮肉な話だ。

生きていた間は、それを活かすことができず、

死んでからも、私は鈍く、事態を正しく理解することができなかった。

現実を直視すること。

私はそれを常に心がけていたつもりだった。

けれど、根拠のない希望に心を囚われたとき、

冷静さを保つのは、とても困難だった。

感情という海は、やがて理性という堤防に亀裂を入れる。

そう――無理だったのだ。

そして、あの瞬間へと戻っていく。

私はいつもの癖で、靴を脱ごうとした。

だが足元を見て、再び気づいた――裸足だ。

ああ、そうだったな。

足の裏を確認する。

汚れていない。いつだってそうだ。

どれだけ長く歩いても、いつもきれいなまま。

――合理的だな、と思った。

私たちは玄関を抜け、小さなキッチンへと足を踏み入れた。

こぢんまりとしていて、温もりがある――まさに、私の記憶にあるままの姿だった。

テーブル、いくつかの椅子、それに、一番よく使っていた椅子の背に刻まれた小さな傷さえも。

きっと、こういうものを「お気に入り」と呼ぶのだろう。

私はそっとその傷に触れ、目に見えない埃を払うように手を滑らせた。

実際には、今この場所には誰か別の人が住んでいるのかもしれない。

キッチンを改装し、家具を取り替え、かつて私の生活の一部だったものをすべて捨ててしまったかもしれない。

あるいは、大家がこの部屋での死を隠し、何もかも先に処分してしまったのかもしれない。

――そう、まさにそんな感じだ。あの老人は、昔からそういう狡猾な人間だった。

私は小さく笑った。

彼はいつも、私から少しでも多くの金を取ろうとしていた。

「若いから」「独り身だから」「子供もペットもいないから」――

そんな理由で。

だが今では、彼の壮大な計画も、指を鳴らすようにして崩れてしまった。

彼女が不思議そうな顔でこちらを見る。

私は首を横に振る。「なんでもないよ」。

「この場所が大切なのは認めるけど、戻ってきたいと思うほどじゃない」

「そう? でも、あなたはいつもここで時間を過ごしていた。好きだったからじゃないの?」

「チッ、違うよ。…ただ…」

口調からして、彼女は答えを知っていて、からかっているのだと分かっていた。

だが、それでも反論できなかった。

実際、私の頭の中を覗けば、この部屋の壁が他の景色をすべて覆い隠しているのが見えるだろう。

でも、それはここが好きだったからではない。では、なぜ…?

選択肢がなかった? いや、そうとも言えない。

散歩に出ることだって、できたはずだ。

「…どうでもいいさ」

「そっか」

もちろん、私たちはバスルームには寄らなかった。

そこには目を引くような要素が一つもなかった。

すべてが退屈で、当たり前で――

仮に細部の記憶が消えてしまったとしても、全体の印象はまるで変わらなかっただろう。

私たちはリビングへと進んだ。

キッチンと緩やかにつながった空間。

その境界をかろうじて示していたのは、古びたソファだけだった。

テレビの向かいに置かれたそれは、「ここはくつろぐ場所だ」と言うように、空間を区切っていた。

彼女が通るたびに、部屋の灯りがぱっと点いた。

まるで彼女の足元から光の粉が舞い、それが壁に染み込んで輝きを与えているようだった。

…いや、ただの照明だ。

ただ、それだけだった。

そんな「ただの光」に見とれていたその時、

それは起こった。

時間は私に、

「考え込んでいる間にも進んでいる」と、はっきりと告げた。

ポケットに入れていたはずの手が、気づけば宙に浮いていた。

その一瞬の間に、彼女は私の部屋の敷居を越えていた。

私は歯を食いしばり、視線を逸らしながら、あとを追った。

匂いはしなかったが、視覚的には――すべて、記憶の通りだった。

机やベッドに乱雑に散らばった書類。

まるで嵐が通り過ぎたように、混沌とした思考が物質化したような部屋。

床には、形にならなかったアイデアの切れ端たち。

椅子の背に掛けられた服は、まるで自分の影――しわくちゃで、手入れされていない姿。

ベッドは…たった数分前まで私がそこに座って紙をめくっていたかのように、そのままだった。

全身の神経が張りつめ、

体を動かすたび、関節が軋んだ――まるで錆びたブランコのように。

私は彼女に言い訳しようとした。

だが、彼女は部屋の混乱など気にしていないようだった。

彼女は軽やかにベッドに腰かけ、紙の束を手に取って読み始めた。

そして、彼女は隣を軽く手のひらで叩きながら、目を離さずに言った。

「この話…どんな内容なの?」

私はそっと彼女の隣に座った。

彼女の手から数枚の紙を受け取り、

目を走らせた――懐かしい、自分の言葉たちに。

「物語って、何かってことか…」

私はぼそりと呟いた。

正直に言えば、細かい内容はもう思い出せなかった。

頭の中に浮かぶのは、断片だけ――

主人公が歩んだ道の、砕けた破片のような景色。

ごく普通の青年が、異世界に迷い込み、冒険を夢見る。

よくある始まり。アニメや小説で何度も見たようなパターン。

オーガを倒す力もなければ、スライムを狩って名を上げる栄光もない。

魔法も平凡、村の呪術師と大差ないレベル。

金もなく、学ぶ希望さえ持てずにいた。

「実家に残って野菜でも育てていた方が良かったんじゃないか」

そんなことを、彼は何度も考えた。

けれど、心は常に地平線の向こうを見ていた。

だから彼は進んだ。栄光のためではない。

ただ、自分に証明したかったのだ――「できる」と。

汗と血を流しながら、

一歩一歩、信じ続けた。

いつか何かを残せると。

だが、宇宙は決して凡人の願いに耳を傾けない。

彼の物語は、孤独の中で終わった。

老いて、静寂の中で。

偉業もなく、称賛もなく。

英雄にも、夫にも、父にもなれなかった。

「じゃあ、俺の物語は…何なんだ?」

私はあごを掻きながら、小さく鼻で笑った。

何年もかけて書き続けたはずなのに――

すべてが一瞬に圧縮されたような気がした。

目立つ出来事も、明確なテーマも、伝えたいメッセージもない。

ただの人生。誰にも語られず、誰にも気づかれないような。

「で?」

彼女は首をかしげ、私の手から紙を取り上げた。

「たぶん… 何もない話」

「何もない? ふんっ」

彼女は鼻を鳴らした。

「私にはそうは思えない。あなたのキャラクターの方が、よっぽど生きてるわ」

私は瞬きをし、彼女を見た。

ほんの数秒前まで頭の中で渦巻いていた思考が、

今では凍りついていた。

自分の中に湧き上がったその感情に、名前をつけることができなかった。

「それって…どういう意味?」

「夢は叶わなかったかもしれない。けど、彼は最後まで夢に生きてたじゃない」

「はぁ? だから何?」

「それが全てよ」

彼女は頷いた。

「彼は何も成し遂げなかったかもしれない。

でも、諦めなかった。希望にすがって生きた。

ねえ…私、思うの。彼の方が――希望を失った人よりも、ずっと幸せだったんじゃないかって」

まさか。

なぜ彼女はそう思うのだろう?

確かに、彼女の言葉には深みがあった。

でも、それでも。

未完成で無名な物語の主人公が、本当に「生きている」と言えるのか?

彼の願いも理想も、紙の上に書ききることすらできなかった。

彼の胸は動かず、私のそれと同じように静まり返っていた。

私たち二人が残した足跡は――同じく、何もなかった。

なら、希望を抱いて進んでも何も得られないのなら、

どうして受け入れて静かに生きるより、それが「まし」だと言える?

答えは出なかった。

「そうね、あなたの言う通り。誰だって、何も得られずに終わるのは辛い。

でも…うまく言えないな…」

彼女はこめかみに指を当てて、何かを一生懸命考えていた。

私はただ黙ってその姿を見つめ続けた。

「でもさ、何かを求めている人って、生きてるように見えるじゃない?」

「他人には馬鹿げて見えても、本人にとっては、それが生きる意味なんだよ。

それでも進み続けるって、すごいことじゃない?」

「どこにいようと、何をしていようと、光は君の中に残っている。

死んだと思った希望さえも、君が本当に願えばまた灯る。

心は、決して希望を手放せない。なぜなら、心は嘘をつけないから。

人生のページを一枚めくって、ふと顔を上げたその時――

君はまったく知らない誰かの微笑みに出会い、

そして、探し物の旅はまた始まるんだ。」

それは、どこかで読んだ本の一節だった。

たしか、フランスの作家だったと思う。

でも、名前は思い出せなかった。

彼女の瞳を見つめながら、私の中に感情が溢れ出すのを感じていた。

それが希望だったのかは、分からない。

自分の感情をうまく言葉にする術は、昔から持っていなかった。

それでも――不思議なことに、内側の何かが、確かに息を吹き返していた。

「ねえ、もう少し歩かない?」

私は手を軽く上げて、そう言った。

彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、

その後のゆるやかな笑みが、すべてを語っていた。

彼女は、反対するつもりはなかった。

指を鳴らそうとする彼女の手を、私はそっと止めた。

「いや、それはやめよう」

私は彼女の手に優しく触れた。

「ただ歩こう。うん…俺の、そうだな、“思考”にでもついてきて。いい?」

彼女は静かに私を見つめ、首をかしげ、そして小さく頷いた。

ベッドから立ち上がる。

「じゃあ、行こっか?」

「うん」

私は彼女のあとを追うように立ち上がった。


部屋を出て、ドアの鍵をかけるとき――

まるで、子供のころの宝物を詰め込んだ古い小箱を閉じるような気がした。

それが今の自分の心にどれほどの場所を占めているのかは分からない。

でも、手放す決意には至らなかった。

小さく息を吸い込むような動作をして、鍵を回す。

カチリ。

施錠完了。

彼女は下で待っていた。

私はドアから顔を背けた瞬間、その光景に目を奪われた。

彼女は紺色の浴衣をまとい、帯は白。

…いや、そんな説明では何も伝わらないのは分かっている。

だけど、周囲の景色が溶けていき、影の川に流れ落ちる中で――

ただひとつ、彼女だけが、まるで太陽よりもまぶしく輝く灯のように見えた。

彼女は手を振ってきた。

呆然としながらも、私はその硬直を振り払って、駆け寄った。

「な、なんで…っていうか、えっと、うわ…すごく…眩しい…」

「そう? ありがとう」

彼女はウィンクしながら軽やかに笑った。

「でもあなたは、いつも通りって感じね」

「う…うん、まあ、そうかも。ちょっと待っ――」

「ふふっ、そんなに大げさにしなくてもいいのよ」

「冗談よ。あなたの質素な服装にはもう慣れたし」

私は眉を上げ、わざとらしく不満そうな顔を向けた。

「それってつまり、センスがないって遠回しに言ってる?」

「おや、"レディ"に対してその口調は失礼じゃなくて?」

彼女は胸に手を当てて、芝居がかった仕草で言った。

「そもそも、部屋着のままで外を歩く人に、ファッションを語ってほしくないわね」

「お、おい!それは…ちょっと語弊が…!」

反論しようとしたが、確かに一度――いや、もしかしたら何回か――

ガウンのままでスーパーに行った記憶がある。

彼女が吹き出した。

私もつられて笑った。

こういうたわいないやり取りの中で、

時折、彼女が「別の世界の存在」であることを忘れてしまいそうになる。

彼女は、私の世界の人間に何人会ったことがあるのだろう?

もしかして、私一人だけだったのか?

この世界で彼女と過ごす中で、私は他の誰にも出会わなかった。

だからこそ――

もしかしたら、私が彼女に何かを変えた唯一の存在なのでは?

…いや、傲慢だとは思っている。でも、ふと、そんな気がした。

「ところで、この浴衣って服、ちょっとガウンに似てない?」

彼女がぽつりとつぶやいた。

「ほら見ろ、言っただろ? オシャレぶっても所詮同類だよ」

彼女はふくれっ面で、指を私の鼻先に突きつけながら「ちっちっち」と舌打ちした。

「でもでもでも、私は"輝く"オシャレなレディだからね?」

「はいはい、分かりましたよ。それじゃ、行こうか」

彼女には、どんな気まずい空気も冗談に変える力がある。

そして彼女が笑っていれば、私はどんな結末でも受け入れる覚悟ができる気がした。

私たちはゆっくりと歩き出した。

味気ない住宅街を抜け、山に広がる松林へと続く道へ。

その時の私は、どう表現すればいいのか分からない不思議な感覚に包まれていた。

自分の思考が、まるで魔法のように目の前に現実化していく。

それを見て、私はただただ感動していた。

この世界は、彼女の目にはどう映っているのだろう。

私の思い通りの世界に見えているのか、それとも――?

私たちは、細く踏みならされた山道を、並んで下っていく。

細く伸びる木々の間を抜けながら。

やがて、どこからか、波のささやきが耳に届いた。

その声に導かれるように、木々の間を抜けると――

視界に、海が広がった。

夜空が海面を照らし、

まるで、星々が頭上ではなく足元に瞬いているようだった。

湖から海へ、岩山から砂のくぼ地へ――

私たちは、数え切れないほどの場所を一緒に巡った。

それでも、この場所は特別だった。

誰といたかという理由だけじゃない。言葉にはできないけれど、ただ、そう感じたんだ。

不思議なことに、あの子は私のすべてを見透かしていたのに、この場所には辿り着けなかった。

きっと彼女も、私と同じように、このページをめくるのを躊躇っていたのだろう。

ここは、自分で開かなければならない場所だった――そんな気がする。

彼女が浮かべた、どこか照れくさそうな笑みが、その予感を裏付けてくれた。

どこから話そうか。

私は昔から、ちょっと感傷的なところがあった。

それを、無関心という仮面で隠していただけ。

ええと――

もう随分と前の話になるけど、恋人がいた。

大したことじゃない、と思う人もいるかもしれない。

でも、今の私からすれば、それはとても遠くて、不思議な記憶だ。

私たちは大学時代に出会って、それからというもの、目覚めてから眠るまで、ほとんど一緒にいた。

文字通り、一緒に成長していったようなものだ。

というのも、彼女と出会った当時、彼女はまだ高校生だった。

私たちは別々の街に住んでいたけれど、デジタルの時代が距離を少しだけ縮めてくれた。

もちろん、直接会うこともよくあった。ここ以外でも、いろんな場所で。

でも、彼女が年齢を重ねるにつれて、心の距離は少しずつ広がっていった。

物理的な距離は変わらなかったけれど、内面では、手が届かなくなっていった。

テクノロジーの力では、その溝はもう埋められなかった。

本当は、全てを投げ出して、彼女の元へ行くべきだったのかもしれない。

でも、結局――

私たちは、お互いの「日常」から抜け出すことができなかった。

その後、彼女は別の国へと引っ越した。

別れた後も、私たちは連絡を取り続けていた。むしろ、付き合っていた最後の年よりも頻繁に話していたかもしれない。

そこで彼女は、ある女性と出会い――

きっと、ようやく幸せを見つけたのだと思う。

正直なところ、死が近づくにつれて、私たちの会話は徐々に減っていき、ついには途絶えてしまった。

私の方から、心を閉ざしてしまったのかもしれない。

たとえ「親友」として繋がっていても、何かが私の中で壁になっていた。

私たちは、きっと…変わってしまったんだ。

それ以来、長続きする恋愛はなかった。

2週間以上続いた試しがない。

無意識のうちに、彼女と比べていたのかもしれない。

その比較に誰も勝てず、私はすぐに興味を失っていった。

…そして、やがて恋愛自体に興味を失った。

私は、ひどい奴だった。

だからこそ、私が最後に望んだことは――

彼女が幸せであることをこの目で確かめ、心から祝福し、そして…本当に手放すことだった。

今度こそ、永遠に。

でも、その願いすら、叶うことはなかった。

…かなりとっ散らかった話だったね。

まあ、当然か。

言葉では、伝えきれないものってあるから。

もしこの気持ちを表現するなら、私は音楽を選ぶだろう。

まったく系統の違う楽曲を、無理やり繋ぎ合わせて――

とても不格好で、でもどこか温かい、そんなメロディーになると思う。

きっと、人の感情って、そんなふうに鳴っているんだ。

口は黙っていても、心は叫びたがっている。

現実に引き戻されて、私はふと思った。

彼女と一緒にいながら、他の誰かを思い出すなんて、やっぱり間違っている。

きっとそれが、私が過去を避け続けた理由のひとつだろう。

でも――

もう受け入れなくちゃいけない。

一歩ずつ、少しずつ。

そうしていつか、作り物のようだったこの関係が、本物になるかもしれない。

「で? その子の姿、ちょっとくらい見せてくれてもいいんじゃない?」

彼女が突然聞いてきた。

「えっ? いや…覚えてないんだ」

私は少し眉をひそめながら答える。

「おやおや~? まさか私の魅力が、記憶の全てを上書きしちゃったのかしら?」

彼女はまるで舞台役者のように、オーバーリアクションを連発していた。

あまりに動きが多すぎて、正直ついていけなかった。

「……かもな」

私は小さな声でそう返した。

すると彼女は一瞬静止し、唇に指を当てて、何度か瞬きをした。

「……そう」

少しの間を置いて、

「正直で、いいわね」とつぶやいた。

「さてと、話はこの辺にして。そろそろ、あの灯りの方に降りてみない?」

山を下ると、私たちはホテル群を抜け、小さな広場に出た。

屋台や露店が立ち並ぶ、賑やかな祭りの名残がそこにあった。

かつては人の波にまぎれて、目を離せば迷子になりそうだった場所。

だけど今――

誰もいない。

屋台はそのまま、灯りだけが、静かに辺りを照らしていた。

眩しくない、どこか懐かしく、温かな光。

私は彼女の横顔を盗み見る。

落ち着いた、どこか気の抜けた表情。

まるで、この風景にはさほど興味がないようにも見えた。

「ごめん。やっぱり、ここって人がいてこそ、活きる場所だったのかも」

私は後頭部をかきながら、気まずそうに笑った。

「そうかもね」

「でも…私は文句ないわ。だって、ひとりじゃないもの」

彼女は振り返らず、屋台の中をじっと見つめたままそう答えた。

気づけば彼女は、一つの屋台に目を奪われたように、軽い足取りで近づいていく。

私はその後を追いながら、ふと思った。

この場所は、確かに私の記憶にあるはずなのに――

今の私は、まるで飼い主についていく犬のようだった。

首輪をつけられたら、完璧だ。

彼女はなぜか、私を頭からつま先までじろじろと見た後、ある屋台を指さした。

「これ、なに? ミミズみたい。…食べられるの?」

「えっ、いやいや、違うよ!ははっ」

私が説明しようとする間もなく、彼女はもう次の屋台へ。

そこには、たい焼きが並んでいた。

— この魚、なんでパンみたいなの? どうやって泳ぐのよ?

それ以上、詳しく語る必要はないだろう。

彼女は屋台から屋台へと飛び回り、自分の目には奇妙に映る食べ物を見つけては、まるで初めてスーパーに来た子どものように無邪気に感想を口にした。

その目があまりにも子どもっぽく輝いていて、思わず微笑んでしまった。滑稽で、それでいて愛らしい光景だった。だが、さすがに俺も気づいてきた。

「なにを企んでるんだ? 作り方も材料も、全部分かってるくせに」

「うん、知ってるよ〜」

彼女はくすっと笑って言った。

「でもさ、見ただけで『これなにかな〜?』って想像するの、楽しくない? ねぇ、そう思わない? …それに、あなたの味覚、正直ひどいでしょ。どうせまた『プラスチックみたい』って言うんでしょ」

…たしかに、反論できない。

俺は軽く手のひらに拳を打ちつけ、辺りを見渡した。

グルメってわけじゃないけど、甘ったるい味なら記憶に残ってる。あれは間違えようがない。

「じゃあ、あの“雲”の屋台はどう? 食べてみる?」

俺は綿あめの屋台を指さしてみせた。

彼女はその指先を目で追ってから、くすっと笑った。

「ふふふ、“雲”って呼ぶの? 可愛い。そういうところ、まるで子どもみたいだよ」

「なっ…誰が言ってるんだ、それ!」

俺の抗議などお構いなしに、彼女は俺のTシャツの裾を掴み、くいっと引っ張った。

「はいはい、行くよ、行く行く〜」

振り返ったその顔には、満面の笑み。

真っ白な歯が輝いていた。それは、こちらの言い分を完璧に無視する、あまりにも可愛らしくて、ずるい笑顔だった。

でも…不思議なことに、嫌じゃなかった。むしろ、俺は――そう、たぶん、幸せだった。単純すぎるかもしれないけど。

それからというもの、彼女はとんでもない量の食べ物を買い集めた。中には“ミミズ”やら“陸を歩くパン魚”やら、そんなものまで。

最初は飼い主の後をついて歩く犬のような気分だったが、今では金持ちの令嬢にこき使われる執事の気分だ。何て言ったっけ、こういうの…名前が出てこない。どうも荷物のせいで、頭が働かないらしい。

「なぁ、そろそろどっか座らない? こんなにあって、歩きながらじゃ食べづらいだろ」

「うん、それ思ってた。海辺に行こうか」

「海? 公園とか、さっきの山の上でも海は見えるだろ?」

「見るのと、触れるのは違うでしょ? …私は、水が好きなの」

そう言われたら、もう頷くしかなかった。

でもまぁ、それは俺も同じだ。水辺が好きだった。海でも湖でも、いつも夕方にはそこへ向かった。

沖縄では、地元の人たちが暇を持て余すと海へ行くらしい。同じように“退屈”という感情を持つ仲間に会うために。

でも俺は、むしろ一人になりたくて行ってた。

…まぁ、イヤホンして音楽聴いてるんだから、静けさを求めてたって言うのも、ちょっと矛盾してるか。

浜辺へ向かう道すがら、彼女の頭に仮面があることに気づいた。いつの間に土産屋に寄ったんだ?

あれは、どこかのアニメの人気キャラだった。ギザギザのオレンジ髪、ハリネズミみたいに逆立ってて、顔つきはというと…ちょっと抜けてるというか、のんびりしてるというか。

シリーズが進むにつれて、表情も勇ましくなっていったけど、彼女が選んだのは、一番間抜けに描かれていた頃の仮面だった。

アニメのタイトルもキャラの名前も出てこないが、ファンなら見れば分かるだろう。

それよりも、彼女の手には水風船が握られていた。

何度もぽんぽんと放り投げては、捕まえようとして失敗し、バシャンと落ちる。そのたびに表情を崩さず真面目な顔を保とうとするが、それがまた滑稽で――いや、正直言って、めちゃくちゃ可愛かった。

抱きしめて慰めたくなるような、でもちょっと笑いたくもなるような。

…こんなときこそ、俺が颯爽とその水風船をキャッチして見せたかったが、両手が塞がっていた。だから、俺にできるのは、ただただ見つめることだけだった。

突風が吹いた。

思わず顔を上げて、目を細める。

潮風が小さな砂粒を運び、顔にぶつかってくる。髪が乱れ、俺は抱えた大量の食べ物の陰に顔を隠した。

「冗談だってば」

彼女はそう言って、一口かじった。

「ん〜〜〜っ」

満足げに目を細めてうなった。

「はは…」

俺は顔ひとつ動かさずに、乾いた笑いを漏らす。

……今日の彼女はやけに楽しそうだった。

ただ、その笑いの的が全部こっちってのが、少し残念だ。

数秒間、俺は黙って彼女を見つめた。

まるで何もかもから解放されたような表情で、穏やかにそこに座っている。

その空気に、俺の心もつられるように和らいでいく。

ふと、海へと視線を向けた。

波の音が静かに耳を包む。

それはまるで星たちを足元へと運んでくる舟のように感じられた。

ほんの一瞬、本当に星が水面に触れているのではないかと錯覚する。

ゆらめく反射が、まるで空から舞い降りたホタルたちの踊りのようだった。

貝殻の隙間をすり抜けていく風の囁き。

それはまるで、海が奏でる静かなオーケストラの一部だった。

「ね、見て見て!」

彼女が急に立ち上がって声をかけてきた。

俺が顔を上げると、彼女は月明かりの中に立っていた。

背後には静かな海。波が彼女の裸足を優しく撫でていて、

その度に、彼女の体が砂に少しずつ沈み込んでいく――まるで彼女自身が海岸の一部になっていくかのようだった。

彼女の手の中には、見覚えのある水風船。

そして、いたずらっぽい子供のような笑みを浮かべ、何も言わずにそれを空へと放った。

水風船は空高く、ヒュッと音を立てて飛び、

ある高さでふわりと弾けた。

ただの水しぶきじゃない――それは、無数のきらめく火花になって、夜空に弾けた。

続いて、赤、黄、ターコイズブルーの光が空を彩る。

まるで夢の中の吐息のように現れては消えていく。

火の粒が四方に舞い、彼女の影さえも光に包まれていた。

俺は言葉もなく、その光景を見つめていた。

生まれて初めて、花火に見とれた気がした。

その鮮やかさでも、音でもなく――

何もない空に、彼女のたった一つの動きから生まれた奇跡だったから。

一発ごとに、胸の奥に震えが走る。

地面さえも、心と一緒に揺れているような錯覚。

「ほら、ぼーっとしてないで」

彼女が優しく、でもどこかからかうような声で言った。

「次は、あんたの番でしょ」

そう言って、俺の手を引いた。

「え? 俺の…?」

彼女は俺の手のひらに、別の水風船を乗せた。

その表面には先ほどの花火の光がゆらゆらと映っている。

「投げて。あっち」

彼女は空を指さした。

先ほどの光が、まだ夜に痕跡を残していた。

俺は風船をそっと握った。

温かい――たぶん、彼女のぬくもりが移っていたのだろう。

しばらく迷った。

これ、本当に飛ぶのか?

落ちてきて、また笑われるだけじゃないのか?

……それでも、投げた。

彼女のより高くは上がらなかった。

でも、ある地点でふっと止まり、わずかに震え――

音もなく弾けた。

音はなかった。

ただ、夜空にそっと絵の具をこぼしたような光の波。

それは、霜の模様のように静かに広がっていった。

しばらくの間、二人とも無言でその模様を見つめていた。

「わあ……すごいね」

彼女はそう言って、目を離さずに見入っていた。

俺はその言葉に、思わず「何が?」と聞き返そうとしたが、

代わりに彼女の顔を見て、言葉が出なかった。

……それが、たぶん「見惚れる」ってことなんだ。

世界のすべてが霞んで、彼女だけがくっきり浮かび上がる。

まるで空さえ、彼女を照らすために一歩下がったような――そんな感じ。

ずっと不思議だと思っていた。

彼女は、いつだってどこか魔法のようだったけど、今は……

なんて言えばいい?

「信じられないくらい綺麗」?

「息を呑むほど」?

……言葉じゃ、足りなかった。

心の奥から何かが込み上げてくる。

大きすぎて、押しとどめることなんてできなかった。

どこかで分かっていた。

この衝動が、何かを壊すだけかもしれないって。

分かっていたけど――

「好きだ!!」

目をぎゅっとつぶった。まるで、見なければ聞こえないとでも思ったかのように。

だが、最後の爆音と共に、僕の言葉は空中に溶け込み、音の余韻のように響いた。

世界は冷たい静寂に包まれた。

目を開けた。

彼女の姿は――なかった。

時間が経つにつれて、少しずつ脳が現実を受け入れ始めたのかもしれない。あるいは、混乱が収まりつつあったのかも。よく分からなかった。

でも、気づけば走り出していた。彼女を探して。

――いや、違う。僕は彼女を追っていたのか、それとも逃げていたのか、自分でも分からなかった。

屋台を通り過ぎ、木々の間を駆け抜ける。風景は夢のように移ろい、どれだけ速く走っても、どこにもたどり着けない気がした。

やがて家の前にたどり着く。明かりはまだ灯っていた。

普段なら、この距離を全力で走った後は息が切れているはずなのに――今は、何も感じなかった。

死んでいるって、案外悪くないのかもしれない、なんて思った。

道中、彼女の姿はどこにもなかった。

もし名前を知っていれば、大声で呼んでいただろう。

……けど、効果があったかは分からない。

もしかして、彼女は最初からすべてを知っていたのか? だから、僕たちは名前を交換しなかったのか?

階段を上り、扉を開ける。

廊下には誰もいない。リビングにも、キッチンにも、風呂にも、寝室にも――彼女の気配はどこにもなかった。

まるで最初から、そこに誰もいなかったかのように。

ここまで来るのに、どれだけの時間と力を費やしたか。

でも、たった一言で、すべてが言い表せた。

すべてが、崩れ落ちた。


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