第1巻 第4章: 終わりなき闇の果て

どれほどの時間が過ぎただろうか。数時間か、数日か、あるいは……。

はっきりと答えることはできなかった。時計の針をいくら見つめても、微動だにしないのだ。時折、時計の音が頭の中だけで鳴っているようにすら感じられた。

何をしていても、あの少女のことが頭から離れない。

それはやがて執着に近いものとなり、どうにかしてその不快な感情を押し殺そうと必死だった。

疲れ果てていた。信じられないほど消耗していた。

それでも眠ることができなかった。眠りたくないわけでも、恐れているわけでもない。ただ、眠れなかったのだ。

霊に疲労など存在しない……。

では、この感覚は一体なんだ?

状況を受け入れ、何もせずに横たわるしかなかった。

枕はすっかり頭の形を覚え、マットレスは体の跡を刻んでいた。まさにベッドと一体化したような気分だった。

人と人との関係は、深海へ潜っていくようなものだ――そんな話をどこかで聞いたことがある。

潜れば潜るほど、やがては海底へと辿り着く。酸素が尽き、もがきながら再び水面を目指す。そして水面から顔を出し、ひと息ついたかと思えば、また沈んでいく。

その時は意味がよく分からなかった。

それ以来、他人の感情など気にするほど重要には思えなかったし、自分の中にもそうした気持ちは湧かなかった。きっとそれが「責任から逃げる」ということなのだろう。

今なら分かる。外から見れば、糸が張り詰めた瞬間に、ためらいもなく切り捨てていたのだ。

だが――ひと息つくことと、岸へ辿り着くことは同じではない。

彼女の不在が、その「ひと息」になればいい。

だが、もし彼女が戻らないと決めたのなら……。

「……それでもいい。帰ってこなくてもいい。――そう言えたらいいのに。」

心の奥底では、彼女が戻ってくることを願っていた。

だが、もし本当に見捨てられたのなら?

この先の永遠を、アパートの一室に閉じ込められ、独りで過ごすことになるのか?

それが望んだはずの結末ではなかったのか? ……いや、今はもう自信がない。

そんな未来は、最悪の結末にしか思えなかった。

正直に言おう。

俺は彼女を待っていた。

帰ってくるのを待ち続けていた。

もう一度会いたかった。声を聞きたかった。

嘘をついても意味はない。彼女は、俺にとって必要な存在だった。

やがて、再び探しに行こうとも考えた。

既に歩いた場所を、もう一度辿ってみようと。

もし、それが可能なら――。

だが、ある瞬間を境に、部屋の外は見えない壁に覆われてしまった。

結局、俺にできることは待つことだけだった。

――

何日目か分からない日。

終わりのない無為の中で、少しずつ思考する力が失われていった。

気づけばベッドに横たわっていたはずが、次の瞬間には冷蔵庫の前に立っていた。

何を探していたのか。空腹も渇きも、感じることはなかったのに。

冷蔵庫の中のビールはすべて飲み干してしまった。

だが酔うことも、意識を失うこともなかった。

いくら飲んでも頭は冴えたまま。

小便もしたくならない。まるで飲んだものがそのまま消えてしまったかのようだった。

昔なら、二缶も飲めばじっとしていられなかったのに。

今は空っぽだ。

冷蔵庫も、そして俺自身も。

退屈なときは、かつてはタバコを吸いに外へ出て、空や人通りを眺めていた。

だが今はタバコもない。人影もない。空は変わらない。

たまに雲がかかることがあるくらいだ。

ガラス越しに見える光が、濃い雲に覆われて消えていく様子は、不思議と目を奪った。

まるで誰かが巨大で重たい毛布を、ゆっくり丁寧に広げているかのように。

一つ、また一つと星が隠れ、やがて月までも消え、夜空は濃密な闇に沈んでいく。

だが次の瞬間には、まるで絵が切り替わるかのように、すべてが元に戻る。

どうしてだろう。

彼女と共に旅をしていたときには気づかなかった。

おそらく彼女の方ばかり見ていたからだろう。

だが今は、唯一変化を見せるのが空だけだった。

それ以外は、すべてが静止したままだった。

そしてその「変わらなさ」は、次第に日常を思い出させる。

同じ道、同じ顔ぶれ。毎日が同じに見えて、何も変わらないように思えた日々。

あの時はただの錯覚だと思っていたが――今なら断言できる。

仕事から帰宅しても安堵を覚えたことはなかった。

原因は単調な繰り返し。

日々のループ。週の終わりには脳が感覚を失い、体だけが自動で動いていた。

なぜ今になってそんなことを思い出したのか。

理由は違えど、結果は同じだったからだ。

思考が追いつかないまま、体が勝手に動いて――

「……気づけば、ここにいる。」

自分の行動を解説するかのように、思わず口に出していた。

「――独り言は、いつから始めたの?」

その声に、全身が跳ね上がった。

反射的に冷蔵庫の扉を閉める。

彼女は、消えたときと同じように、いつの間にかそこにいた。

呆然としながらも、俺はゆっくり彼女の方を向いた。

今日の彼女は、どこか違って見えた。

不在の間に、すっかり雰囲気を変えてしまったのだろう。

髪は左肩に沿ってきれいにまとめられ、いつものチャイナ服や浴衣ではなく、見覚えのあるパーカーを着ていた。……待てよ。あれは俺が特注で作ったもので、この世に一つしかないはずだ。

だが、今はそんなことより――

「い、いつからそこに……?」

情けない声で問いかける。

「ふふ、嬉しくないの?私が帰ってきたのに。」

彼女はからかうように笑った。

嬉しいに決まっている。

だが……

どこに行っていた?

なぜ戻ってきた?

そして、どれくらいここにいるつもりなんだ?

……それでも、俺はその問いを口にすることはできなかった。

「……いや、そんなことないよ。もちろん――」

俯きながら言葉を継いだ。

「……嬉しいさ。」


俺の曖昧なつぶやきに、彼女はにやりと笑みを浮かべた。


「そう? でも顔には全然出てないけど。ああ、なるほど……」

そう言って、一歩近づく。唇を俺の耳元へ寄せ、手で口を覆いながら囁いた。

「――本当は、ドレスじゃなくてがっかりしたんでしょ? それとも……裸で待ってたの?」


ごぼごぼと血が逆流し、頭の中で噴水のように爆発するのが分かった。

下手をすれば耳から吹き出してもおかしくなかった。


当の彼女はというと、大声で笑いながら背を丸め、片手で俺の肩にすがりついた。


「お、俺は……俺は……」


言い訳の芽は、最初から潰されていた。

彼女の前では、俺はいつだって感情の坩堝に変えられてしまう。


「ごめん、ごめん」

涙を指で拭いながら彼女は笑った。

「ふふっ……本当に、バネみたいに震えてるよ。」


指摘されて、初めて自分の挙動不審さに気づいた。


別に、赤面する理由なんてないはずだった。

決して人付き合いに不慣れすぎて……というわけでもない。

ただ、不意を突かれただけだ! もちろん、他に理由があるのかもしれないけど――それは今考えないことにした。


彼女の声には、気まずさも敵意も拒絶もなかった。

以前と同じように、からかうような調子。

まるで本当に、何も聞いていなかったかのように。

急な用事で、何も言わずに席を外しただけ――そんな風に錯覚してしまいそうになる。


彼女は満足そうに微笑んでいる一方で、俺は置き去りにされた子犬のような気分だった。

同じ出来事を、俺たちは全く違う温度で捉えている――そう痛感した。


強く息を吐き出す。あまりに急で、まるで幽霊の手触りを残したかのようだった。

体の奥で震えが止まらない。だが、顔だけは取り繕うしかなかった。

怒る権利なんて、自分にはないと分かっていたから。


軽く首を振り、髪を払うと、とっさに口を突いて出た。


「……ったく、君って本当に変わり者だな。」


「なるほど。独り言を言うだけじゃなく、神様にまで報告するのね? 賢いわ。」

顎に指を添え、彼女は芝居がかった仕草で頷いた。


言葉の意味は特にない。ただ俺を真似て、口に出ただけのようだった。


正直、胸を締めつけていたのは一つの不安だった。

――彼女はまた、ふっと消えてしまうのではないか。

まるで最初から存在しなかったかのように。


「……君は、その……長くいるつもり?」


「ん? 長く?」首を傾げて問い返す。


「つまり……戻ってきたのか?」


「戻ってきた? 私、どこにも行ってないよ。ずっとここにいたもの。」

あまりに落ち着いた声。まるで、それが真実だと言わんばかりに。


どういう意味だ?

本当に俺が臆病すぎて、意識的に彼女を“見ない”ようにしていただけなのか?

いや、そんな馬鹿な……。じゃあ、彼女の言葉は何を指している?

――理解できない。彼女はいつだって、分かりにくい。


「臆病者」

心の奥で、誰かが囁いた。


だが俺は、その声を拒絶した。


「……どういうことだ? 本当にここにいたって?」


「そうよ。ここに。」


「そんなはずない! だって俺は……探したんだ。君を。」


「本当に探した?」彼女は小さく間を置いた。

考える余裕を与えるような間。

だが、答える前に続けた。

「私には、逃げ出したように見えたけど?」


「い、いや……」


「ねえ、本当に探したの? 立ち止まって、辺りを見回した? それとも床ばかり見つめて、私がそこに落ちてるとでも思った? 結局は、自分の中で答えを出して、自己嫌悪に浸ってただけ。……まあ、確かに後から私は気配を消したわ。でも、完全に消えたわけじゃない。」


静かな声。だが、その響きは久しく忘れていた冷たさを含んでいた。


俺はしばらく呆然とし、言葉を失った。

だが、彼女の指摘は痛いほど正しかった。

自分でも気づいていなかった認めざるを得ない事実――俺は、ただ逃げただけだった。


そう、惨めなほどに。


疑念の一部はまだ残っていた。だが結局、彼女を信じるしかなかった。

目の焦点が揺らぎ、視界は次第に曖昧になっていく。


馬鹿げているが――それでも理にかなっていた。


今、この場で謝るべきなのだろうか?

分からない。謝っても意味はない気がした。

だが、他に言葉も見つからなかった。


「……ご――」


俺の言葉を、彼女はそっと手を伸ばして遮った。


「いいの。嘘はなかった……でも、確信もなかった。だから、ただ口をついただけ。」


「……ああ。ただ、口をついただけだ。君を煩わせたくなかったし、自分も縛られたくなかった。ただ、流れに任せていれば、少しでも一緒にいられるんじゃないかって……そう思ったんだ。結局……俺は、それが望みなんだろう?」


笑みを作ろうとしたが、ぎこちないものになった。


彼女はゆっくりと手を下ろし、視線を少し横に逸らした。

腰に手を当てる。

その瞳に浮かんでいたのは、怒りではなかった。

ただ、静かで、疲れたような――諦めに似た失望だけだった。

「――そう? じゃあ、何のために?」

彼女は腕を振り上げて問いかけた。


「えっと……生まれ変わって、何かをするため……かな?」


「ほんとうに?」


彼女は眉をわずかに上げた。その表情に宿る疑いの色に、思わず俺も首を傾けてしまう。まるで「何かおかしいか?」と問うように。


「……いいわ。次に進みましょう。」


その一言と共に、彼女の声から熱が失われていった。

さっきの俺の告白が原因なのか。あるいは、軽々しい理由づけのせいか。

もしかしたら、言葉の中に責めを感じ取ったのかもしれない。

分からない。ただ一つ言えるのは――彼女が沈んで見えたこと。そして俺は、またしても罪悪感に苛まれた。いつものことだ。


つまり、俺たちは一歩も前に進めなかったということだろう。


彼女は両手を背中に隠し、不安げな足取りでテーブルへと歩いていった。

椅子に腰掛け、肩にかかるポニーテールを指に巻きつけながら、窓の外を見上げる。空には、再び雲が集まりつつあった。


――これは、何かの兆しだろうか。悪い予感の。


招きはなかった。だが、今回は必要なかった。


「……ねえ、私、人間の魂を異世界から呼び寄せるなんてできないのよ。正直、存在すら知らなかった。」


「は?」


彼女の口から出た言葉に、俺は座る前から固まってしまった。椅子の背もたれに片手を置いた中途半端な姿勢のまま、口を塞ぐこともできなかった。


「ちょ、ちょっと待てよ……それってどういう……」


「分からない。」彼女は俺の言葉を遮り、ぎゅっと目を閉じた。

「分からないの。ただ……あなたはここに現れた。それだけ。」


視線は俺と窓の間をさまよっていた。

俺はその言葉を必死に咀嚼しようとする。

彼女を初めて見たとき――その魔法を目にしたとき、俺は無意識に彼女を神格化していた。

だから「万能ではない」と知っても、失望はしなかった。

ただ、戸惑いだけが胸を満たした。


だが結局のところ、分からない。なぜ俺がここにいるのか。どうして。


ほんの一瞬の後、諦めにも似た感覚が訪れた。

――彼女すら知らないのなら、俺が考えたところで意味はない。


「……私ね、ここがどこかも分からないの。」

そう切り出した彼女に、思わず顔を向ける。


「初めてここに来たとき、私はもう死んだのだと思った。

周囲は果てしない闇。どこへ走っても、光の気配すらなかった。

そんなとき、頭の中で声が響いたの。

――『すべてをやり直し、安らぎを得なさい、子よ。ここでは誰にも邪魔されない』

その声は私自身のものではなかった。長い沈黙の果てに、もう自分の声を忘れかけていたから……」


俺は顎を手に乗せ、黙って聞き入った。

考えは浮かばない。ただ、ちくちくとした妙な感覚が胸を刺す。

自然と、彼女の体験を自分のものと重ね合わせていた。

違っていたのは、俺を導いたのは闇ではなく、遠くで瞬く小さな光だったということだけ。

――もっとも、その正体が誰のものだったのか、今は分からなくなっていた。


「……だから私は、自分の一番好きな場所を作ったの。

両手を広げるだけで、景色がひとつずつ形になって……やがて“月の湖”が現れた。」


その光景を想像し、思わず吹き出してしまった。

あの落ち着いた彼女が、風車のように両腕を振り回している姿を。


彼女はすぐに目を細め、軽く睨みつけてきた。

俺は慌てて笑いを飲み込み、続きを促す。


「最初は理想的に思えた。けれど、すぐに孤独を感じた。

どんなに試しても生命は生まれなかった。

羽音で静けさを破る虫一匹すら作れなかった。

私が欲しかったのは……友達だった。」


彼女は言葉を切った。

俺に反応を求めているようだったが、正直、状況を理解しきれていなかった。

それでも、不完全なまま放っておくのも嫌で、短く頷いてみせる。――続けて、という合図のように。


「……そうして、ようやく“魂”が現れた。

本当に驚いた。怖くもあった。

胸が高鳴ると同時に、拒絶したい気持ちもあった。

――彼はここで幸せになれないんじゃないか。

――私なんて退屈だと思うんじゃないか。

――ここに連れてきたことを恨むんじゃないか。

そんな思考が、小さな虫のように心を食い荒らしていった。

でも、観察していくうちに気づいたの。……あなたは、決して悪い人じゃないって。」


彼女の笑顔は、無垢で、誠実だった。

その瞬間、俺は自分の胸の鼓動をはっきりと聞いた気がした。


同時に理解する。――俺はすべてを台無しにした。

彼女の信頼を裏切ったのだ。

本来なら、その場で別れを告げられてもおかしくなかった。

だが、彼女はそうしなかった。代わりに、こうして心を開こうとしてくれている。

……にもかかわらず、俺は。俺は――頼りにならない。


「じゃあ、最初から結末を知っていたのか?」


「私が預言者に見える?」


「え? ……いや、多分?」と曖昧に答えた後で付け加える。

「でも、見た目で分かるのかな? 例えばポケットにタロットカードを忍ばせてたり、水晶玉を持ち歩いてたり?」


俺は芝居がかった仕草で、手のひらを覗き込むようにしてみせた。


くだらない冗談だった。

それでも、その場に漂っていた重苦しさを拭い去るには十分だった。

もっとも、彼女は俺そのものを笑っていたのかもしれないが――まあ、どちらでもよかった。


気づけば、空は再び晴れていた。

いつ切り替わったのか分からない。

だが今なら、理由が分かる気がした。


「……ほんと、変わらないわね。相変わらずの馬鹿。」

彼女は笑いながら言った。


「失礼な! これは芸術なんだぞ。」

胸を張って答えると、彼女は返事をせず、ただ相槌を打った。


その表情を読み取るのは難しい。

同情か、驚きか。

いずれにせよ――なぜか、侮辱された気分だった。


それでも俺は、ためらいながらも口を開く。


「……じゃあ、なんで? ずっと友達を欲しがっていたのに……どうして俺を追い出そうとしたんだ?」


彼女の顔は、次々に表情を変えていった。

だが、少なくとも今は悲しんでいなかった。

それだけで、俺には十分だった。

— えっとね…変に聞こえるかもしれないけど…君は本当の意味で死んでいる以上に、もっと死んでいるように見えたんだ。どう言えばいいかな…君の体だけじゃなくて、君自身すべてがあの星に置き去りにされたみたいで。すごく暗くて、よそよそしかった…


— は? 自分こそ! — 僕は鼻で笑った。— 本物の氷の女王みたいに振る舞ってたじゃないか!


— それはあなたのせいよ。— 彼女は頬をふくらませた。— 誰かと話せるのが嬉しくて仕方なかったのに、あなたは自分の周りに城壁を築いて、誰も入れず、自分も出なかった。ただ考えてばかりで、自分のことしか見えていなかったの。しかも突然の一言が、私を何度も不意打ちしたんだから。


どの角度から見ても、彼女の言葉は筋が通っていた。もし最初から今のような彼女だったなら、どうなっていただろう。たぶん僕は逃げ出して、仲良くなることさえなかったかもしれない。


けれど、彼女の話を聞いても、疑問は減らなかった。割れた貝殻のかけらを必死に集めても、見えるのはやっぱり断片ばかり。考えれば考えるほど、わからなくなっていった。


僕たちはどこにいて、なぜここにいるのか、誰も知らない。この場所から出られる可能性はあるのか? そして…出る必要があるのか? いや、ある。彼女のそばにいる限り、彼女の願いは叶わない。僕はただ邪魔しているだけだ。


— 起こってもいないことを心配しすぎよ。私、あなたが邪魔なんて言った?


— いや、でも…


— でも何? 私にちゃんと言わせたい? 「全部台無しにした」って?


— うーん、そう。まさにそれ。


— 本当にイライラさせるんだから。なんでそんなにいつも面倒くさいの? — 彼女は眉間を押さえながら首を振った。— でもね、確かにあなたにしかできないことがあるわ。彼女を取り戻して。


僕にしかできないこと? 誰かを取り戻す? もっとわかりやすく言ってくれたらいいのに。


こういう時、僕の耳は不思議と綿で詰まったみたいになる。注意は話し相手の言葉ではなく、全然別のものに向かってしまう。窓から差し込む月明かりが、ランプの温かな光と混じり合って、窓辺に模様を織りなしていた。冷たさと温かさが同時にあるその光に溶け込みたくて仕方なかった。でも、何もしなければ何も変わらない。


— 誰を?


— 人形を。


僕はおそるおそる顔を上げ、目を大きく見開いて彼女を見つめたまま固まった。


— はあ?


— 人形よ。— 彼女は繰り返した。— あなた自身が見捨てて、引き出しの奥に閉じ込め、腐らせたあの人形。かつては恐れず夢を見て、倒れても立ち上がり、未来を信じ続けた存在。あなたは彼女を忘れたんじゃない。見捨てたの。今のあなたはそのかけらを他人の中に探しているのよ。見知らぬ顔に、空っぽの会話に、そして私の中に。でも、そんなの無理。— 彼女は首を横に振りながら俯いた。— 変わるものが残っていなければ、変化なんてありえない。自分で捨てたものを、誰も返してはくれない。


「やけに哲学的だな」――それが最初に浮かんだ感想だったが、彼女の顔を見て、すぐに打ち消した。


言っていることは理解できた。だが不気味さは消えなかった。


彼女の言う人形――それは僕自身だった。老いた体に閉じ込められても、未来を夢見ることができた内なる子ども。考えるまでもなく、あまりに明白だった。


僕は自分をただの普通の人間だと思っていた。外見も性格も、人混みの中で埋もれるだけの凡人。だが彼女の言葉は、そんな僕を違った角度から映し出していた。それは特別さではなく、むしろ疑わしさだった。


— まるで年寄りみたいだな。「昔のほうがよかった」とかさ。— 僕は冗談めかして言った。


— ねえ、誰が一番影響を受けやすいと思う? — 彼女はほんのり影を落とした顔で窓の外を見つめた。— 弱い人でも、愚かな人でもない。「正しくあろう」と必死な人よ。


彼女はあまりにも真剣な表情をしていて、ふざけ続ける気になれなかった。理由もなく、体中を蟻が行進しているように落ち着かない気持ちになった。僕は膝を抱え、顎を乗せて、足の指を動かしながら彼女の声を聞き続けた。


— 周りの空気を読もうとして、期待されることだけを言い、本当は心が燃えているのに黙り続ける。最初はそれが生き延びるため。次には習慣。そしてやがて、自分がどこで終わり、仮面がどこから始まるのかもわからなくなる。


相変わらず謎めいた言葉で、彼女は僕をますます混乱させていった。人形についての答えは近づくどころか、遠ざかっていくばかり。肩を抱きしめるようにして、不安に駆られた。彼女がどこに辿り着こうとしているのかに。


— 何が言いたいんだ? — 僕は尋ねた。


彼女は僕のほうを振り向いた。その鋭い視線に、僕は思わず身をすくませた。


— 周囲に合わせて色を変えてばかりいたら、自分の色を忘れてしまうのよ。


彼女の答えに、僕は首をかしげた。肩をすくめ、小さく首を振って「え?」とでも言うような仕草をした。


— あなたもかつては、人の感情を操る術を知っていたじゃない。残酷さからじゃなく、本能として。生き残るために。でも今では、争いの影すら避けようとする。優しくなったんじゃない。透明になったの。捕食者から…獲物へ。


僕の唇は震え、まるで部屋の温度が急に下がったかのようだった。もう聞きたくない――そう思ったが、もう遅かった。


— いつ自分を失ったのか、気づいてもいないんでしょう? 「部屋に合わせて」いたはずが、いつの間にか「部屋そのもの」になっていた。溶け込んでしまったのよ。何があなたをそうさせたの? 大人になること? 自分を守りたい気持ち? で、どうだった? 結果は? 利用されたじゃない。優しさも、弱さも、信頼も利用されて、盗みの濡れ衣を着せられて、捨てられた。そして無実が証明された時には…もう遅かった。その汚れは書類で洗えるものじゃない。あなたの中に残ったの。すべての視線に。すべての「もしも」に。

世界がもっと単純だったらいいのに。

大人の嘘がただの子供のいたずらに過ぎず、何の結果ももたらさなかったらいいのに。

年を重ねても言葉が野薔薇のように棘を生やさなかったらいいのに。

でも、人生はそんなふうにはできていない。

皮膚は厚くなり、逆に心の奥はどんどん薄くなる。

だから、針の一刺しでさえ刃のように感じるのだ。


彼女が何を言おうとしているのか、もう分かっていた。

それは昼の光ほど明らかだった。

僕にできるのは、ただ弱々しく、引きつった笑みを浮かべることだけだった。


笑いながら、あの出来事を思い出した。

でも、嘘をついても無駄だった――沈殿物は消えない。

どんな笑顔にも牙が見え、差し出された手には爪が潜んでいるように思えた。

髪の毛が揺れるだけでも、不安を覚えるほどに。

だから僕は、自分の死んだ皮膚を剥き出しにして、それで堅牢な城壁を築こうとした。


――で?その先は?

なぜ僕に、あいつらみたいな化け物になれと言う?

利用するつもりか?僕が許すとでも?


椅子に手をつき、床に足を下ろしながら問い詰めると、


「もちろん。今のあなたは完全に私の操り人形だから」


彼女は頷き、次いで口元を歪めて笑った。

その笑みに、僕は思わず眉をひそめる。


「でもね、違うの。それで私たちはもっと近づけるのよ」


「どういうことだ?今の関係が悪いとでも?」


「うーん、そういう言い方をするなら…」

彼女は顎に指を当て、しばし考え込む。

「一歩近づいたと思ったら、すぐ逃げ出す。それを“良い関係”とは呼べないでしょ。まあ、“普通”くらいかな?」

首をかしげながら、責めるような視線を投げてきた。


反論はなかった。

彼女に追い詰められた、と言えたら楽だったろう。

でも違う。僕は自分でそこに足を踏み入れたのだ。自分の意志で。


もっと勇気を持たなければ。

再び、人と向き合う方法を学ばなければ。

きっと彼女が伝えたかったのは、それだった。


僕は髪をかき上げるように手で撫で、短く何度か頷いた。


「新しい人生を生き切ったその時…また会えるのかな?」


「あなたはそうしたいの?」

彼女は意地悪そうに笑った。


「もちろん」――迷いなく答える。


腰に手を当て、胸を張った彼女は、あからさまに満足げだった。


「それはあなた次第ね」

「新しい人生を全うし、新しい人々と出会った後でも、同じ告白を繰り返せるかどうか」


「ふむ…どうだろうな」


思わぬ返答に、彼女は目を細めて不機嫌そうに睨んだ。


「なにそれ、ずいぶん自信ありげね。殴りたくなるじゃない」


「ち、違う!誤解だ!」

僕は必死に手を振って弁解する。

「ただ…約束って、守る気のない人ほど簡単に口にするものだろ?誓いやら契約やらって、結局は自分や他人の不安をなだめるための方便さ。破るときは“運命だった”って便利な言い訳を使う。それが嫌なんだ。だから僕はただ…努力する。それでいいだろ?」


「ふんふん」

彼女は満足げに頷いた。

「とても正直ね。いいわ、それで受け入れる」


「もし受け入れてくれなかったら、どうしてた?」


「おーっほっほっほ!」

高笑いしたかと思うと、すぐに顔を歪めた。

「…まだ考えてなかった」


時々、彼女は見た目以上に子供っぽく見える。

でも、にらみつける表情があまりに本気だったから、僕は慌てて言葉を引っ込め、視線で「ごめん」と伝えた。


「さて、本題に入るわね…」


僕はうなずき、耳を傾ける。


「もう気づいていると思うけど、この世界はあなたの知る場所とは大きく違うの。

中世ヨーロッパ、植民地時代…あるいは神話や伝説の時代と比べればいいかな。

あなたの世界では技術が支配しているけれど、ここではすべての基盤が“魔法”よ。

でも、人間の想像力が本に刻まれてきたおかげで、あなたも私と同じくらい知っているはず」


彼女の説明が終わっても、僕はしばらく待った。

さらなる補足や具体的な話が続くと思ったのに、彼女は黙ったままだった。

思わず顔をしかめ、「それだけ?」と視線で問いかける。


「えっとね…」

彼女はバツが悪そうに頭をかいた。

「もうどれくらい時間が経ったか分からないの。もしかすると、今はあっちにも技術があるかもしれないわね。あはは」


「ふむ…」少し考えてから答える。

「じゃあ、問題はその時に解決するしかないな」


「ごめんね…こんなの、あなたが望んでいたことじゃない。私のわがままのせいで、あなたはここにいて、これから知らない旅を歩むことになる。でも、あなたの言うとおり…本質は似てる」

彼女は顔を伏せた。


「お、罪悪感か?じゃあその気持ちにつけ込んで、どこにも行かないことにする」


驚いたように目を見開く彼女に、僕はこらえきれず吹き出しそうになる。

肩を震わせながら、笑いを抑え込んだ。


「冗談だよ。僕だってスーパークールな魔法使いになって、次会う時は君より上に立ってやるさ」


「はぁ?なにそれ!あなたに魔法があるわけないでしょ!」

彼女はすぐに身構えて言い返す。


「ん?確かに。…じゃあ僕は選ばれし者で、魔法の才能を秘めてるんだろ?」とおどけて答える。


「ぷっ、あんたが?ただの鬱に沈むうだつの上がらない放浪者のくせに!

魔法を使わせてあげるのは、この私だけよ!」

彼女は胸を張り、誇らしげに自分を指差した。

――ああ、これで俺の運命は決まったな、

と大げさに呟いた。

――思考を読んで、すぐ逃げ出す……確かに便利な技だ。


「……今、何て言ったの?」


その瞬間、周囲の空気が重くなり、俺の体を押し潰すような圧力が走った。

少女の額に浮かぶ青筋が、俺が地雷を踏んだことを雄弁に物語っている。

指先がわずかに動いたかと思うと、目に見えぬ力が俺を持ち上げた。


その時ようやく気付いた。

淡い光の下で、ほとんど透明に近い糸が俺の手足に絡みついていたのだ。

雪のように白く、冷たく、そして信じられないほど強靭な糸。

彼女の指先から伸び出し、虚空へと消えていく――まるで異なる次元に繋がっているかのように。


俺は人形のように宙に引き伸ばされた。

両腕は左右に、足は下へ。まるで四つ裂きにされるかのような姿勢。

背筋を冷や汗が伝う。


「どう? これでわかったでしょう、無礼者さん?」

彼女は獰猛な笑みを浮かべた。

「これは、私の生まれ持った才覚のようなもの。魔力を込めなくても、糸は立派な武器にも盾にもなるのよ」


「ほぉ……やっぱり俺は選ばれし者だって言っただろ?」

わざと挑発するように笑ってみせる。


直後、糸がピクリと動き、俺の体を震わせた。

さらに一本がするりと口元に巻きつき、声を封じる。

彼女は腕を組み、鼻を鳴らした。


「口数ばかり多い癖に、自分の身すら守れない。明日にはきっと、泣きながら私のところへ転がり込んでくるんじゃないかしら?」

わざとらしく嘆かわしい表情を浮かべる。


俺は天井を見上げた。

確かに口は達者だが、場を弁える程度の知恵はある。

彼女に再び会えるのは悪くないが、転生したその日に死ぬのは勘弁願いたい――不運なキリンの赤子みたいに。


だが、芝居を続けるために、俺はこくりと頷いてみせた。

――そういう計画だ、と。


「ふぅん……まぁいいわ」


彼女にとっては、要らないものを切り捨て、大切なものだけを残すのは日常の一部らしい。

初めはその冷徹さに身震いしたものだが、今ではわかる――彼女は決して無慈悲な存在ではない、と。


糸に吊られていた俺の体は、ゆっくりと地面へ降ろされた。

ロープで降下するかのように静かに。

椅子へ戻されると、俺は拳を握り、足をぶらぶらさせて無事を確かめる。


「――さぁ、今度はあなたの番よ」


「……は?」


「だって、それがあなたの未来の能力じゃない」


――そう言われれば、確かに。


「剣を学ぶときは、剣を自分の手足の延長として扱うように教わるでしょう? これは同じことよ。

何かに手を伸ばすように、触れるようにイメージすればいい。そして糸があとは勝手に応えてくれる」


「……ふん」

俺はうなずいた。


手を前に伸ばし、目をつむる。

窓の取っ手、椅子の背、棚の扉……いくつかの像が頭をよぎったが、俺は彼女を選んだ。

白い糸が彼女の手首へ伸び、蛇のように巻きつく姿を思い浮かべる。

漫画のヒーローよろしく、腕を一閃――そして、固唾を呑んで待つ。


笑い声が響いた。

澄んだ、楽しげな笑い。


「ふふふ……なんて素直なの」


目を開けると、全身から血の気が引いた。

彼女の笑い声が心を掻き乱し、俺は肩をすぼめる。

腕を引っ込め、膝を抱き寄せて顔を埋めた。


「やめろよ……」とうめく。


「本当に自分の中に眠る力だと思ったの? “選ばれし者、ミスター・アンダーソン”」

彼女は吹き出し、俺の膝に手を置いた。


「放っといてくれ」

俺は膝を引っ込め、椅子から転げ落ちそうになる。


「もう、拗ねないで。冗談だってば。ほら、手を出して」


「……いやだ。どうせまたからかうつもりだろ」


「いいから、ほら」

急かすように促してくる。


俺はその差し出された手を見つめた。

最近は彼女のそばで平静を保つのがますます難しくなっている。いや、正直に言えば、最初から難しかった。


胸の奥に小さな不安を抱えながら、俺はそっと自分の手を重ねた。


「べーっ」

彼女が舌を突き出し、子供じみた音を出す。

思わず手を引こうとすると、彼女はしっかり手首を掴み、笑い転げる。


顔全体が楽しさに輝いていた。目さえも。

それに比べて俺は、疲れ切った表情を浮かべていたに違いない。


「さっきは私の手首を掴みたいって思ってたんでしょ? なのに、また逃げるの?」


「ち、違う。ただ一番近くにあったからだ」

もがきながら言い訳する。


「ふぅん? ほんとに?」


意地悪な笑みを浮かべ、彼女は俺の手のひらへ指を滑らせた。

やがて指と指が絡み合い、熱が走った。

その熱は腕を伝い、全身へと広がる。


直後――閃光。

顔面に砲撃を受けたような白光が視界を覆う。

目を固く閉じても、光は頭蓋の内側を焼き尽くすように居座り続けた。


気付けば俺はどこか別の場所にいた。

内側の世界。


無数の糸が俺の臓腑を覆い、蜘蛛の巣のように絡みついている。

振り払おうとすればするほど、さらに増える。

どこもかしこも糸に満ち、まるで蜘蛛の巣窟。


そして最後には――俺自身がその糸の一部となり、繭の中へ沈んでいった。

僕は思わず叫んだ。頭の中に、無数の他人の声が流れ込んできて、それがひとつの鋭い悲鳴に変わったのだ。すぐさま突き刺すような激痛が襲い、僕は空いている手で髪を掻きむしり、意識が飛ばないよう必死に耐えた。


そして――すべてが途切れた。


目を開け、慌ただしく周囲を見回す。頭も身体も無事で、まるで全部が幻覚だったかのように。視線を落とすと、僕の指先から糸がゆらゆらと漂っているのが見えた。それは深海の海藻のように、静かに空気の中を揺れていた。手を握りしめても消えず、開いても変わらない。それらは独自に生きているようで――そして、もう僕の一部になっていた。


「大丈夫?」

少女が不安げに声をかけてくる。


僕はかすかにうなずき、彼女を見上げた。励ますように浮かんだ不器用な笑み。その瞬間、自分がどれほどみっともなく見えたのかを思い知らされ、彼女に心配をかけさせてしまったことに気づく。だが深く考えるのはやめた。頂上にたどり着くなら、どんなに這いつくばってでも構わない。そうだろう?


「で……この糸、ずっと指から飛び出したままなの? ボロボロのぬいぐるみみたいだ」


「そう思う? むしろ……あ、ちょっと待って」


彼女の手に、どこからともなくマーカーが現れた。キャップを口で外すと、僕に手を差し出すよう促す。怪訝に思いつつも従うと、くすぐったい感覚が走った。彼女がペン先で僕の掌をなぞっているのだ。描いているのは……丸? いや、何だ?


やがて描き終えると、彼女は少し離れ、芸術家のように首をかしげて成果を確認する。そしてマーカーは現れた時と同じように、ふっと消えた。なぜ口でキャップをくわえていたのかは、最後まで謎のままだった。


「はい、できた。受け取りなさい。これで君には目が二組、そしてすっごく魅力的なまつ毛がついたわ」


「なんて可愛らしい……いやいや、本気で聞いてるんだって」

僕は彼女を払いのけるように手を下ろし、膝の上に置いた。

「本当に、ずっと出たままなのか?」


「うーん、そうかもね。でも……んふふ、結局は、もう一度私を信じられるかどうか、ってところかな」

彼女は照れくさそうに笑い、人差し指同士を突き合わせる。

「でも、ずっと出っ放しにはならないと思うよ。ほんとに」


その説明は軽すぎて、僕の不安を打ち消すには程遠かった。


「君を信じる、ね?」

僕は大げさに首を振る。

「いや、信じなくなったわけじゃない。ただ……ほら、ちょっと選り好みするようになっただけ、かな?」


「なら上出来。じゃ、手を出して」

彼女は掌を差し出し、指を小さく動かしながら僕を促す。


「え、また!?」


「なによ、嫌じゃないくせに!」

彼女は鼻を鳴らした。

「信じてるって言ったでしょう?」


「ちっ……」


僕は小声で何かごまかすように呟いたが、無駄だった。心の奥では、もちろん彼女と手を繋ぎたかった。ただ、それを声に出す勇気がなかっただけ。いや、むしろ口にすべきだったのかもしれない。でも確信はなかった。


差し出された手をもう一度見つめ、僕はおそるおそる自分の手を重ねた。


「ね? 全然怖くないでしょ。ほんと、子供みたい」


「うるさい。別に怖がってなんかない!」


彼女がぐっと僕の手を握ると、言葉が詰まり、抗弁はすべて霧散した。……悪くない感覚だった。頭を振り払い、余計な思考を払う。


彼女の指先はその時々で少しずつ違う感触を与えてくれるが、共通しているのは――冷たさと柔らかさ。そしてじっと手を重ねているうちに、ほんのりとした温もりが広がってくる。そのとき、ふと思った。魂というものも、きっと体温の一部なのではないか、と。


あ、そうだ。糸。


僕はふたりの手元に視線を集中させた。だが時間だけが過ぎ、糸は消える気配もない。彼女もどうすればいいのか分からない様子だった。


「え?」


「ん? 消えないの?」

彼女は僕から目を離さずに聞く。


その問いは僕へのものなのか、自分自身へのものなのか。


「……何が?」


「糸を隠すのよ」


「えっ? 俺がどうやって?」


「え……あ……あー……言ってなかった?」

彼女はこめかみをかき、気まずそうに笑った。


……僕はますます混乱した。彼女は説明していたのか? 僕が彼女の手の感触に気を取られて聞き逃しただけ? たぶん、そうなのかもしれない。


「イメージだよ!」

彼女は自由な手で空中に円を描きながら言った。

「それが魔法の基本。街だって私が思えば生まれて消えるでしょ? それと同じ。消えてほしいなら、ただそう願えばいいの」


そんなに簡単なのか?


……どうせ糸を隠すのが目的なんだ。だったら、ついでに少し練習してもいい。練習だ。ただそれだけ。


僕は彼女の手首に意識を集中し、体がこわばる。歯ぎしりの音が耳に響く。必死に糸を動かそうとした。まるで手を使わずに髪を動かそうとしているみたいな――そんな絶望的な試みだった。

額とこめかみに血管が浮き出るほど力を込めている気がした。だが、それが何に似ているかは口にしないでおこう。


結局、俺は諦めた。糸を動かすよりも、隠す方がずっと簡単だった。


「ほらね? そんなに難しくなかったでしょ」

彼女は満足そうに頷いた。

「まあ、予定よりは時間がかかったけど」


「で、次は?」


「使い方を覚えるのよ」

彼女はにやりと笑いながらそう言い、俺の手を軽く叩いてから離した。


その答えに俺は固まった。口を開けたまま、言葉が出てこない。


彼女はさらに身を寄せ、勝ち誇ったような顔をしながら俺の肩に手を置いた。


「ふふん。あなたのずるい考え、気づかないとでも思った? “ただの練習、ただそれだけ” でしょ」

俺を真似るように言いながら、肩を軽く叩いて少し離れる。


彼女は相変わらず笑っていた。俺の顔は引きつったような表情になり、不意にひらめいた。


「それがどうした? お前と手を繋ぎたかっただけだ。それの何が悪い」

挑むように、いやむしろ言い訳するように言った。


「その方が気が楽なら、どうぞ」

彼女は肩をすくめ、再び自分の手を差し出した。


さっきまでのからかうような調子とは違い、今の声は淡々としていた。その手が俺の手に重なったのは、まるで職場の同僚に挨拶するかのように自然だった。再び俺は、俺たちの感覚の違いを痛感した。


彼女がじっと俺の顔を観察する中、俺は想像に集中した。そこに現れるのは当然のように彼女だった。いや、正確には彼女の手首だ。俺はそれに糸を巻き付けるように思い描く。どのくらいの強さで触れるべきか、跡を残すのか、それとも羽のように軽くあるべきか――簡単ではない。


心の中ではうまくいくのに、現実では何も起こらなかった。糸が完全に自分の中へ溶け込んだようにすら思えた。


「だめだ」

俺はつぶやいた。


「じゃあ、作ればいいじゃない」

彼女はあっさりと言った。


「作るって……もうあるんじゃないのか?」


「見えたのはただの“兆し”。本物じゃないの。細いのか太いのか、硬いのか柔らかいのか、色は? 滑らかかざらついてるか? 想像すればするほど、扱いやすくなる」


その説明に俺は全く心が躍らなかった。だって、どうすりゃいい? いったい何でできているのか、どうあるべきかなんて分かるかよ。たとえば硬さを求めてダイヤを思い浮かべたら、それは爪みたいになるのか? そんな重いものが生えたら、顔から地面に突っ伏すのがオチだ。


考え込んでいると、不意に彼女からデコピンを食らった。


「いってぇ! 何すんだよ!」


「想像力が単純すぎるの。魔法ってそういうもんじゃないわ。形を与えて、名前を与える。それでいいの。素材は勝手に決まる。強くなれば、それだけ丈夫になる。誰が好き好んで長くて重い爪を振り回すのよ」


俺は最初から考え直した。そしてその時、彼女の力で宙に浮いた時の感覚を思い出した。


彼女の糸は細く、それでいて丈夫で、少し冷たくて、ほとんど透明だった。もし俺の糸も同じようになったら、気づかれるだろうか? いや、多分気づかれても気にしないだろう。俺はただ、離れていても繋がっていたかった。


やがて、俺の指先から淡い糸が伸び、彼女の手首へと触れていった。感覚はほとんどない。痛みを覚悟していたのに、まるで何もなかった。


見よう見まねで作ったはずなのに、全然違っていた。見た目は頼りなく、大人がちょっと引っ張ればすぐに切れそうだった。色も、あるのかどうか分からない。ただ袖口に引っかかった透明な釣り糸のように、かすかな光沢が見えるだけ。


「おお、すごい。ちゃんとできたじゃない」


「まあ、そうみたいだな」

俺は頷いて答えた。


「できたんだね」


今度は少し真剣で、けれど優しい声だった。俺が理由を探そうとすると、彼女は小さくくすっと笑った。


糸は自然に消え、笑い声が広がった。俺はさらに俯いてしまう。


「ふふっ、一つのことしかできないのね。効率悪いわ」

彼女は短く何度も頷いた。


――今のは軽くディスられた、気がする。


言い返す前に、彼女は続けた。


「でもまあ、当然よね。今はまだ種みたいなもの。芽が出るのは魔力が目覚めてから」

肩を軽くすくめて、彼女は笑いを収めた。


その瞬間、俺の目は興奮――いや、感動で輝いた。早く知りたい。俺の魔法がどんなものになるのか。


「で? 何になるんだ? 転移? 隠密? それとも糸で精神支配?」


「さあ? たぶんね」


彼女の声に一切の熱はなかった。もし感情が四季なら、彼女の声は天王星の気候のようだった。

時々、僕には自分がスローモーションで生きているように思えることがあった。けれど、彼女は早送りで進んでいる。僕が考え込んで立ち止まっている間に、彼女は一日中の退屈に飽きてしまう。……ふむ、本当にそうなのかもしれない。


「で、具体的には?」


「魔法になるわよ」彼女は気軽にそう言って、肩をすくめた。


「なんて細かい説明だ。ありがとう」僕は理解したわけでもないのに、皮肉を込めて頷いた。


「そう思う? ま、頑張ったんだから」


彼女はファンにでも手を振るようにひらひらと手を振り、くすっと笑った。僕は未だに彼女の気分の変化についていけない。さっきまで降っていた雪が、次の瞬間には暑さで汗を流させる――そんな感覚だ。


「魔法とは想像力よ」

彼女はまた繰り返した。だが今度は、その意味を僕も理解できた。


「じゃあ、『目覚め』ってなんだ? 何か決まった型が開かれるとか?」


「正しく言えば――属性ね」彼女の表情は急に真剣になった。まるで遊びから一気に、何か本当に大事な話題へ移ったかのように。

「世界は大まかに六つに分かれるの。水、火、風、土、光、そして闇」


彼女は片手で指を折って数えはじめたが、六つ目を数え損ねて、ぼんやり瞬きをした。眉をひそめ、まるで「見なかったことにしてよ」と言わんばかりに睨みつけてくる。


もちろん、僕は何も見ていない。……でも、正直、少し可愛かった。


「属性によってできることは違うわ」彼女は手を膝に戻して話を続けた。

「たとえば水なら雨を降らせることができる。大地を潤すための優しい雨。熱を冷ますための冷たい雨。あるいは敵を撃つ鋭い雨。光なら癒すことができる。でも、強すぎれば焼き尽くす。火と土は……」彼女は少し考え込むような顔をしてから言った。

「……燃やすか、砕くだけ」

「風については……顔面に渦巻が直撃したら、誰だって無事じゃすまないわ」


「なるほど。じゃあ闇は?」


「闇……」


その瞬間、彼女の声は妙に硬く響いた。目の下に浮かんだ皺から、その話題がどれほど重いかが伝わってくる。きっと、この場所に彼女を閉じ込めているのは、この「闇」なのだろう。


「無理に話さなくてもいい」


「実を言うと、今のあんた自身が“闇の魔法使い”よ」彼女は笑顔を見せたが、その裏に本当の表情を隠しているようだった。


「ふむ? あんまり期待通りじゃなかったか?」僕はぎこちなく笑い返した。


僕自身は特に気にしていなかった。破壊の力であっても、火は冬に人を温めるし、土の壁は風を防ぐ。風だって嵐を鎮められる。じゃあ闇は? 毒のようなものかもしれない。命を脅かすが、扱い方次第では薬にもなる。


「ほう?」


彼女は心底驚いた顔をした。なぜなのかは分からない。


「実際、それ以外の可能性なんてなかったのよ」彼女は誇らしげに言った。しばしの沈黙のあと、表情を和らげて続ける。

「そもそも“闇”って言葉自体が、そのまま意味を語ってるでしょう?」


「どんな意味を?」


「――“悪”よ」彼女は囁いた。


悪、か。


僕は反論しなかった。でも同時に、迷いが胸を掠めた。

人は生まれながらにして悪でも聖でもない。環境や権力、孤独――そうしたものが選択を決めていく。だが、この世界は違うのか?


捕食者にとって、一滴の血で獲物と認識するように――

人間も、一滴の悪で怪物へと変わってしまうのだろうか。


僕は視線を落とした。肩が沈み、まるで代わりにため息をついたかのようだった。

たとえ世界を敵に回すことになろうとも、この力には他のすべてよりも大きな意味がある。

――彼女の力だ。彼女が与えてくれたものだ。

それだけで十分だった。


「なら、僕はそうなろう」顔を上げて笑った。「時に、悪には悪でしか対抗できない」


「あなたって本当に考えすぎよ」彼女は苦笑いしながら言った。「ただの先入観にすぎないんだから」


彼女は指先を首にあて、言葉を搾り出すように撫でていた。


「もちろん、環境や権力は影響するわ。でも、根本的には自分次第。――地獄は地下じゃない。心の奥底にあるの。誰かに決められるものじゃなく、自分で自分をどう在らせるかよ」彼女は僕の胸を指で突きながら言った。


「わかってる」僕はすぐ頷いた。少し考えてから付け加える。

「じゃあ、なんでそんなことを? “悪”とか、“闇の魔法使い”とか」


「最初から圧力をかけても、あなたが折れないかどうか――それを確かめたかったの」彼女は何でもない風に答えた。


「まるで僕を死地に送り込むみたいだな。……要するに、厄介払いか?」


「これは息継ぎよ。――泳ぎ続けるか、沈むかを決める前のね」


なるほど。僕が言葉にしなくても、彼女には全部聞こえているのか。気が重くもあったが、同時に希望でもあった。彼女の口調は、僕が本当に戻れるかもしれないと思わせた。


「……わかった」僕は頷いた。


「行きましょ」彼女は立ち上がり、手を差し伸べてきた。

「もう、この壁の中に座り込みすぎよ」

私は片眉を上げて彼女を観察したが、口を挟むことはしなかった。そっと彼女の手を取り、私たちは“越境”した。


正直に言えば、なぜこの言葉が頭に浮かんだのか、いまだによく分からない。映画のようでもなく、ゲームのようでもなかった。閃光も音もなく、ただ一瞬にして――私たちは、さっきまでいなかった場所に立っていたのだ。


私たちは岩山の上にいた。それは、私が今まで訪れたどんな場所よりも高かった。

手のひらを額に当てて風を遮り、周囲を見渡す。目の前には見知らぬ、しかし息をのむほど美しい景色が広がっていた。


眼下の森はまるで生きた海のようだった。尖った樹々の梢は風に揺れ、その奥、幹の間にはかすかに青白い光が瞬いていた。植物なのか、魔力の残滓なのか――目を凝らしても分からなかった。けれど……その光景は魔法そのもののように見えた。


「まるで永遠が過ぎ去ったみたいね」


思わず彼女の方を振り向く。だが、彼女は森を見てはいなかった。

その視線を追ったとき、ようやく私は気づいた。


岩山の向こう側には〈月の湖〉が広がっていたのだ。

それはあの時と変わらぬ姿でそこにあった。湖の中央は静かに眠っているように澄んでいるのに、岸辺では荒波が轟音を響かせていた。視線を下ろせば、眼下で水が泡立ち、激しくぶつかり合っている。その光景はまるで一つの生き物の中に「静穏」と「怒り」が同居しているようだった。


「実際には、まだ百年ちょっとしか経っていないのよ」

そう言って彼女は振り向き、満面の笑みを浮かべた。


驚きかけたが、私はすぐにその感情を振り払った。


「ああ、本当に……永遠みたいだ」


彼女は顎で崖の端を示した。そこには自然に刻まれた凹みが連なり、ちょっとした居心地の良い隅のようになっていた。私はその岩の突起に腰を下ろし、足を投げ出しながら手で体を支えた。風が髪を乱し、彼女の細い髪の束が頬や首筋に触れる。そのくすぐったい感覚に思わず身震いする。


彼女はそれに気づくと、フードをかぶって髪を隠した。布から突き出た小さな鼻先だけが見えていて、それがどこか可愛らしく、そしておかしかった。


「じゃあ、あの底なしの裂け目を通って、あの世界へ行くことになるの? また落ちる羽目になるのかな」


「ふふ、それが望みなの?」


「いや……できればもうごめんだね」


「クスクス。やっぱりそう思った。大丈夫、別の方法もある……たぶん」


確信に欠けるその言葉に、不安は残った。けれど、追及する気にはなれなかった。彼女を疑う理由なんて、どこにもなかったから。


この瞬間、この場所で、私は至福を感じていた。

願わくば、この時が永遠に続けばいい――私と彼女だけの時間として。


「……呪文の創造者」

突然、彼女が口を開いた。


「え?」


「忘れないで。魔法を生み出すのは言葉じゃなく、想像力。たとえ誰かが呪文は魔導書に書かれていると教え込もうとしても、その無意味な称号が私の言葉を思い出させてくれるはずよ」


「……分かった。覚えておく」


新しい力を得るたび、別れの時が近づいているのを肌で感じていた。風のせいか、それとも別の何かのせいか――目がじんわりと潤んでいく。感情を抑えきれず、もう隠すのも遅かった。ただ、彼女のフードの下からは気づかれていないことを願うしかなかった。


私は慌てて手の甲で涙を拭き、背筋を伸ばした。


「それが……君が言いたかったこと?」


「んー……武術の達人」


「え? 魔法の世界で? どうして?」


「魔法に頼りすぎないこと。指を鳴らす前に攻撃されるかもしれない。だから、何にでも備えておきなさい」


「……なるほど、分かったよ」


当然といえば当然だが、まともな会話を続けることは難しかった。

普段は軽やかで冗談まじりの空気が、今は重苦しく、まるで粉塵が漂っているように息苦しい。


不思議なことに、彼女は私にとって推進力であると同時に錨でもあった。

彼女が導いてくれる先に、自分が辿り着けるとは思っていなかったのに――どうしても、そこを見てみたいと思う。だが、心の奥では恐れていた。最終的に、その場所へは一人で行かねばならないのではないかと。


その後、しばらくの間、私たちは何も言わなかった。

本当はこのためにここへ来たのに、彼女でさえ場の空気を和らげるのが難しいようだった。


会話の芽はすぐに崖下へ転がり落ち、波の轟音にかき消されていった。


私は小石を拾い、そっと崖の下へ転がした。

石は岩肌を跳ね、さらに落ち、やがて暗い岩の一部となって見えなくなった。


――あの時、もし告白していなかったら、どうなっていただろう。

なぜ、ああしてしまったのか。なぜ、別の選択をしなかったのか。

これは、誰しもが遅かれ早かれ直面する問いだ。


けれど真実は――何も変わらなかっただろう、ということ。

今の私は、かつての自分のただの色あせた影にすぎない。

少しだけ心を開けたのも、私の力ではない。

彼女が根気強く私の思考に踏み込んでくれなければ、私たちは初めて出会ったあの場所から一歩も進めなかっただろう。


私は、近づいてくる者を拒むことはしなかった。だが、自分から関係を築こうとすることもなかった。

その単純な性質のせいで、私は「扱いやすい」存在になっていたのだ――扱いやすいが、本物ではない。


――それなら、どうすればよかった?

どうすれば、違う未来を歩めたのだろう?

私の思考は、足元で砕け散る波のように出口を見つけられず、ただぶつかっては散っていった。


これから私を待つ人生は、まったく別のものになるだろう。そこでは――時間が再び「時間」として流れる。

一秒は一秒として、 一日は一日として感じられる。


だが、彼女と共にいるこの場所では違っていた。

世紀が一瞬のように過ぎ去る空間。始まりも終わりも見えない空間。


けれど今や……それらすべては意味を失っていた。

どのような経緯でここに辿り着いたとしても、今日の結末はもう決まっている。

どれほど抗おうとも、運命を変えられないことのほうが多いのだ。


「もう少しだけ、このままでいてもいい?」

私は膝を抱えながら尋ねた。


「ええ、いくらでも」


「永遠でも?」と冗談めかして言う。


「もし可能なら、それ以上でも。――でも分かってるわよね?」


この間、彼女は一度も私を見ようとしなかった。今も、その瞳はただ遠い地平を見つめている。そこに見える景色は彼女だけのもので、私には想像するしかなかった。いつの日か、私もそれを見られるのだろうか。


「……うん」私は短く答え、顎を膝にのせた。


引き延ばす意味はないと分かっていた。

彼女の傍らにいる時間が長引くほど、別れが重くのしかかってくる。

普段なら別れを告げるのは容易いはずなのに、今は「またね」と言う勇気すら湧かなかった。

それが本当に再会を約束できる言葉かどうか、自信がなかったから。

あるいは――次に戻ってくる自分がどんな姿なのか分からなかったから。


ひとつだけ確かなことがある。

――もう二度と、今の私たちのままでは会えないのだ。


彼女はフードを外し、私の方へ顔を向けた。その目が赤く滲んでいるように見えた。

かつては、彼女のまっすぐな感情が自分に向けられることを望んでいた。だが、その笑みを目にした瞬間、胸にぽっかりと穴が空いた気がした。月の湖が残した深い裂け目のように。


私は弱々しく笑みを返した。あるいは、返したつもりだっただけかもしれない。

正直なところ、自分の顔や体の感覚を失っていた。


彼女は崖の端から立ち上がり、ゆっくりと私の元へ歩み寄る。

その手が突然、私のシャツの襟を強く掴んだ。あまりに力強く、思わず彼女が今にも私を宙に持ち上げ、地平線の彼方へ放り投げるのではないかと想像してしまった――異世界行きの直通便のように。

瞳が大きく見開かれ、体がこわばる。彼女の指先は震えていて……私は一瞬、本当にそうされるのだと信じそうになった。


だが――代わりに。


彼女の顔が、近づいてきた。


私は硬直したまま、その距離が縮まっていくのを見つめる。心の中では突拍子もない仮説が次々と生まれ、神経は限界まで張り詰めていた。何も起こらないと分かっていても、両腕は無力にぶら下がり、まるで体が麻痺してしまったかのようだった。

彼女が少し顔を逸らした瞬間、私は大きく唾を飲み込んだ。


「おやすみなさい。夜を忘れずに――夜明けにまた会えるときのために」


そう囁いて、彼女の唇が私の額に触れた。


私の視界に映ったのは、彼女の顎と白い首筋だけ。

この瞬間を味わいたかった――だが、緊張で肌が甲冑のように硬くなっていた。

それでも、その仕草には確かに温もりがあった。


その瞬間、白い光の輪が触れた場所から柔らかく弾け、波紋のように全身を駆け抜けた。

次の刹那、光は私を後方へ押しやり――夜空が視界いっぱいに広がる。彼女の顔をもう一度見る間もなく。


――――


砂漠。


冷たい。灰色。果てなく、音もない。

すべてを黒い闇が呑み込み、遠方にただ一つ、孤独な扉が立っていた。


おそらく、これが彼女の言っていたもう一つの“トンネル”なのだろう。


このとき初めて、本当の寒さが肺を突き抜けた。

歩きながら、皮膚が目に見えない氷に覆われていくのを感じる。空気そのものが私を彫像に変え、氷河の下へ閉じ込めようとしているかのようだった。


この死んだ景色が――何かを呼び覚ました。

遠い昔に忘れてしまった、あの感覚を。


あれは、別の街に引っ越したばかりの頃。

見知らぬ通りと顔ぶれの中に立って、私は世界に拒まれている気がした。

自分を見てくれる人など誰もいない。覚えていてくれる人など、どこにもいない。


私はずっと、家族や友情は無条件のものだと信じていた。だが、それは嘘だった。

すべてを――最後の一滴まで与えなければ、何かの一部にはなれない。いや、与えたところでそうなれたのかも分からない。


あまりに遠くへ行ってしまい、私から得られるものがなくなったとき、気づいた。

あらゆる絆は条件付きなのだと。

それ以来、防衛本能が私に無条件の信頼を許さなかった。血の繋がりすら一瞬で断ち切れるのなら、関係など意味を持たない。


きっと私は、今も彼女を完全には信じ切れていない。

それでも――どこかの部分が、信じることを選んでいる。


愛は決意ではない。閃光だ。

命令に従って訪れるものではない。

もし私の中の何かが彼女を選んだのなら――試したい。

もう一度。最後の一度。


名前すら知らない人を追いかけるなんて、愚かかもしれない。

けれど――人を形作るのは名前ではない。


私は振り返った。

そこには誰もいなかった。


ただ信じたかったのだ。彼女が後ろで手を振り、あるいはまた愚かな冗談を言って、少しだけ気持ちを軽くしてくれるのだと。


けれど、彼女はいなかった。


あの顔が、今も瞼に焼き付いている。

たとえ彼女が望んでも、もうできなかっただろう。

――私も、同じように。

たぶん、私はここに留まることもできただろう――過去を忘れ、未来を知らないままに。

氷河の一部となって、幸福でいられたのかもしれない。誰にも分からない。


けれど、喉の奥にこみ上げる締め付けを感じたとき、私は悟った。

――知りたくはないのだ、と。


私は凍りついた扉の取っ手に手をかけた。

そして、それを開いた。

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