第1巻 第2章 慣れ親しんだ昨日の彼方 — 異なる明日が生まれる

静かで、どこかメロディアスな音が、どこからともなく、しかし同時にあらゆる場所から響き渡った。

私は思わず目を見開いた。

目の前に広がっていたのは、時間に色褪せながらも、胸が痛むほど懐かしい村の景色だった。

私たちは祖父母の家に来ていた。

その家は庭の奥にあり、柔らかく散らばる月の光に包まれていた。

この村は、良い時代でさえ決して明るい場所ではなかったが、夜ともなると完全に影に溶け込んでしまう。

それなのに今日は、まるで月明かりが意図的に全てを照らしているかのように、くっきりと見えた。

玄関先の一本一本の草、壁に刻まれた模様、古びた木材の暗い隙間まで。

私は一歩踏み出した。

砂利道が耳に馴染んだ音を立て、閑散とした庭に反響する。

若い木の枝に覆われ、犬小屋の灰色の屋根は隠れていたが、それが未完成のレンガ造りの建物のそばにあることを私は知っていた。

動物用の器はいつもの場所に置かれ、水と餌の残りが入っていた。

すべて、私の記憶の中にある通りだった。

ただ、一つを除いて。

誰も私を待っていなかった。

犬の鎖は持ち主を失い、砂利の上に無造作に横たわっていた。

器の中身は、もはやプラスチックのフィラーのようで、餌や水には到底見えなかった。

鳥の声も…不自然で、あまりに正確に、繰り返し響く様子は、レコードのようだった。

「人は死ぬ間際、それまでの人生が走馬灯のように駆け巡るというわ。

やり残したことや、手放したくないものを思いながら。」

「つまり、お前は俺が死ぬ前に何を考えていたか知っていたんだな?

じゃあ、この茶番はなんのためだった?」

「あなたが自分の意思で話してくれるのを期待していたの。

でも、あなたは死を受け入れることを選んだ。」

幽霊なんていなかった。

目の前に現れるのは、ただの記憶の残響だ。

亡くなった人の声を聞いたと言う者たちも、結局は過去に縋る心が生み出した幻を見ているだけ。

私も、その例外ではなかった。

思い出の廃墟の中に立ち尽くしながら、私はほとんど信じかけていた。

今にも玄関の扉が開き、祖母が提灯を手に縁側に現れ、遅い散歩から帰った私を門の前で出迎えてくれるのではないかと。

カイドウが鎖を鳴らしながら走り出し、誰が庭を歩いているのか確かめに来るのではないかと。

そのあと、母に少し叱られ、弟には歓喜をもって迎えられ、祖父はただ楽しそうに笑うのだろう。

それが目に浮かび、耳に聞こえる気さえした。

でも――彼らがいないこの場所に、いったい何の意味があるのだろう?

彼らの痕跡がなければ、ここを大切に思えただろうか。

おそらく、無理だ。

「ねえ、分かる?

この場所は確かに私にとって特別だった。

でも、それはこの場所自体が特別だからじゃない。

家族や友人、そこにいた大切な人たちが、特別にしてくれたんだ。

いつも一人でいたいなんて――それは嘘だよ…」

少女は手を背中に回し、空を見上げた。

「そう…なるほどね。」

彼女は静かにそう言った。「それなら、確かに理にかなってるわ。」

その後の一時間ほどは、私の記憶に強く刻まれている場所を巡って過ごした。

逆に、はっきり覚えていない場所には、どこか曖昧なものが埋め込まれていた。

それが少女の想像なのか、それとも私自身の作り出したものなのか…正直、分からなかった。

私の知っている家々は、剥げかけた柵や色褪せた雨戸のまま、ちゃんとそこにあった。

一方で、それ以外の建物は推測から織り上げられたもので、子どもの絵を模写したかのように、どこか嘘っぽかった。

もし誰かが「こんな奇妙な建築をデザインしたのはお前か?」と冗談めかして聞いてきたら、

「いやいや、勘弁してくれ。俺はそこそこ絵心がある方だ」と返しただろう。

時折、記憶にはない街灯や、誰もいない交差点のそばに彫刻のようなベンチが現れた。

そうした細部は勝手に浮かび上がり、誰の仕業なのか私には分からなかった。

道は完全に無人で、それは当然だった。

私たち以外にここを歩く者も、車を走らせる者もいないのだから。

だが、私の記憶では単なる土の道で、人々がそのまま車を停めていた場所には、今は淡い線で描かれたような完璧な舗装道路が伸びていた。

アスファルトではない。ただ土の上に、無理やり絵の具で描いたような道路。

私たちはそんな死んだ道を歩き、私の足音だけが唯一、私たちを追う音だった。

いつからか覚えていないが、鳥は鳴くのをやめ、風が止むと葉擦れの音さえも消えた。

門を出るときには確かに「行くべき場所」があったはずなのに、それがどこだったのか、何を目指していたのかはもう思い出せなかった。

結局、私は家に入る決心がつかなかった。

入ったところで何が変わるわけでもないのに…。

いや、きっと怖かったんだ。

そこに何が「ある」のかを見るのが。

いやむしろ――もう「ない」ものを見るのが。

私たちは人気のない通りをぶらぶら歩き、そして会話を交わした。

おそらく、これほど長く話したのは初めてだった。

彼女の声は歩き方と同じくらい軽やかで、私にはこの村の雰囲気に少しそぐわないように思えた。

どこか…派手すぎるというか。

私はと言えば、どこへ行っても違和感を与えない人間だ。

都会の雑踏に紛れれば簡単に埋もれるし、ここではただ目立たないだけ。

でもだからと言って、彼女にこの場所が似合わないわけじゃない。

むしろ今、月以外で唯一輝く存在は彼女だった。

その明るくて暖かい笑顔だけで、私はこの時間を一瞬たりとも忘れたくないと思った。

きっと、美しいっていうのは、こういう特権なのだろう。

…それとも、単に私が単純すぎるだけか?

やがて私たちは、ダムの先にある小さな湖に辿り着いた。

昔はここにはあまり良くない噂が絶えなかったが、それでも私たちは平気で泳いでいたものだ。

今、水面は不自然なほど滑らかで、月の湖と違って底はまったく見えない――濁りすぎて。

「…もういいかな。」

私はあたりを見回し、最後に彼女の目を見て言った。

「一度は価値を失った場所だって、君が一緒にいてくれれば、また大切になれる気がする。」

彼女が振り向いた瞬間、私はどこか懐かしい匂いを感じた。

優しくて、安心できる香り。

けれどそれが何だったのか、どうしても思い出せなかった。

ただ一つ分かっていたのは、その匂いが胸を心地よく満たしてくれたということだけだった。

たぶん、それで十分なのだろう。

この長い間、何も嗅ぐことのなかった私の鼻が、初めて何かを捉えた――それは、彼女だった。


「そういうこと? じゃあ、私、あなたと一緒には行かないほうがいいかもね。」

「えっ? ちょ、待って、なんでだよ?」

私は思わず慌てふためいた。

彼女はくすっと笑った。

「ただの冗談よ。」

どうしてこんなにも簡単に、一言で足元を崩せるのだろう。

「ねぇ、自分の傷を他人で癒そうとするなんて、失礼だと思わない?」

「いや、ちょっと待ってくれ! そんなつもりじゃ――」

私は両手を振り回し、必死に弁解した。

「ふーん、なるほど。」

…それは一体どういう意味だったんだ?

全く分からない。

彼女は私を信じたのだろうか? おそらく、違う。

本当に私は、彼女の優しさを利用しようとしていたのかもしれない。

結局、それを決めるのは彼女だ。

「もし傷つけたなら、ごめん。」

私は頭を下げた。

「考える前に口に出してしまうくらい、俺は馬鹿なんだ。」

彼女はきょとんとした。

目を大きく見開き、次の瞬間、笑いを堪えきれず体を小刻みに揺らした。

お腹を押さえながら前後に揺れ、最後には一筋の涙を拭いながら、嬉しそうに息を吐いた。

「なにそれ、どんだけみっともないの?」

彼女はさらに声を上げて笑った。

「バカね、本当にただの冗談じゃない。

…そういうのって、友達だからこそじゃない?」

「友達」という言葉を、少しだけ特別に響かせてから、彼女はやわらかく、大きく微笑んだ。

もう私には降参するしかなかった。

つられて、自然と笑みが零れた。

「じゃあ、行きましょうか。」

彼女は風に舞う落ち葉のようにくるりと回り、歩き出した。

軽く跳ねるような歩き方で、今にもふわりと宙に浮きそうだった。

…もしかして、今、彼女は幸せなのだろうか?

私は、その髪がふわりと舞い、そしてまた肩に落ち着く様子を眺めた。

あの光る粉はもう見えなくて、今はただの髪――普通に、美しかった。

不思議だ。あれは一体、どんな仕組みだったんだろう?

「どこへ?」

彼女は少し首を傾げ、不思議そうに問い返した。

「ん? 決まってるじゃない。駅へよ。」

決まってる…? 全然決まってなんかない。

駅? そんなもの、ここにはなかったはずだ。

いや…強いて言うなら、バス停くらいか。

「だーめ。」

彼女は私の目の前で指をひらひら振ってみせた。

「私たちが乗るのは電車よ。」

彼女の力を知っているだけに、それが冗談ではないことはすぐに分かった。

問題は――その電車が、どこに、どうやって現れるのかということだった。


私は少女のあとをついて行った。

狭い路地を抜けて進むと、家々の壁はますます迫り出し、頭上には細く切り取られた空だけが残った。

街灯の光は届かなかったが、それでも月は道を見つけ、私たちの足元にかすかな光の帯を落としていた。

この建物はあまりにも互いに近く、まるで空間そのものが誰かの想像に屈しているように思えた。

けれど、それが誰のものなのかは分からなかった。

最初は私の知っている家ばかりだった。

剥がれ落ちた外壁、歪んだ柵、誰も顔を覗かせない窓。

だが歩を進めるにつれ、壁は高くなり、通りは広がっていった。

普通の家は二階建てに、やがて三階建てへと変わり、気づけば石の塀が続く道を歩いていた。

ふと見上げると、そこには見覚えのない高層マンションの窓が並んでいた。

いつからこうなった?

私は気づけなかった。

そして振り返ると、そこに村はもうなかった。

私たちが出発した場所には、多くのマンションや店が軒を連ねていた。

あまりに自然な変化で、まるで初めからそうだったかのように思えた。

それは季節の移り変わりと同じだった。

昨日まで青々としていた木々が、今日には足元に葉を散らしているように。

道すがら、派手な色合いの看板たちが私たちを迎えた。

そこに書かれた文字は見知らぬ言語だったが、なぜか苦もなく理解できた。

奇妙な名前の数々に疑問は浮かんだものの、問いかけることはしなかった。

私と彼女の繋がりはあまりに脆く、それを揺らすような質問はできなかった。

むしろ、私が問われる側であるべきだった。

時々、そよ風が吹いただけで私たちは離れ離れになってしまいそうで。

私はワニがうごめく堀の上に張られた細い綱を渡っているようだった。

少しでも足を止めれば、彼女は平然と私の足元を崩してしまうだろう。

そんな関係だった。文字通り。

視線を感じて顔を上げると、彼女は肩越しに私を見つめていた。

その目は冷ややかで、どこか軽蔑にも似た静けさを湛えていて、背筋を震わせた。

私は笑みを作ろうとしたが、その前に彼女はもう視線を外してしまった。

…聞こえていたんだろう?

ごめん。

その短い時間、私は何も考えまいとして歩いた。

彼女は何度も私に手を差し伸べてくれた。

ならば私は、それを壊すのではなく、信じるべきだったのだ。

数分後、駅が現れた。

一見すればどこにでもあるような駅だった。

淡い照明、無機質な金属の柱。

だが少し長く眺めていると、輪郭は滲んだり鋭くなったりを繰り返し、

まるで思い出そうとしてもはっきり掴めない記憶のようだった。

改札の前まで来ると、私たちに気づいたようにゲートがカチリと音を立て、自動で開いた。

余計な動きも音もなく、ただ静かに。

…生きていた頃も、こんなふうに無料で通してくれたら、どれほど節約できただろうか。


余計な考えを振り払い、私は下りのエスカレーターに足を踏み入れた。

広々としたロビーに降り立つと、そこは高い天井に柔らかな光が反射する、磨かれたタイルの世界だった。

その空間はどこか見覚えがあるようで、同時に嫌になるほどよそよそしかった。

かつて暮らしていたのに、いつの間にか忘れてしまった街のように。

ホームと線路を見渡しながら、頭の中に似たような場所の名前が浮かびかけた。

だが、それを掴もうとすると、まるで飲み込んでしまうかのように味わう前に消えてしまった。

すると、空気に少しずつ振動が混じり始めた。

最初は心臓が速く打つような、微かな震え。

やがて足元が細かく揺れ、光は息を潜め、それから一気に輝きを増した。

金属が光を反射し、その瞬間、トンネルの奥を何か黒い影が素早く横切った。

電車が来たのだ。

私たちがホームに着いた瞬間、ドアは何の誤差もなく開いた。

まるで私たちの歩調に合わせたかのように。

私は少女を見た。

彼女はただ小さく笑って、軽い足取りで電車へ乗り込んだ。

私もそのあとに続いた。

車内で、私たちは黙って座っていた。

話すことがなかったわけではない。

ただ、お互いに窓の外の景色を眺めるのに夢中だっただけだ。

車窓を過ぎ去るいくつかの風景は、妙に胸に引っかかる既視感を残した。

まるでどこかで見たことがあるのに、いつ、どんな状況だったのか思い出せない。

私は昔よく通ったショッピングモールを見つけたが、何かがおかしかった。

看板の位置が違う。

ショーウィンドウはやけに奥行きがあり、まるでその先が虚無に続いているようだった。

次に見えたのは見覚えのある交差点。

だが街灯はどこか灰色がかった光を放ち、アスファルトは滑らかすぎた。

まるで打ち立てのコンクリートで、まだ誰も歩いたことがないように。

私たちは街を横切った。

だが街は私たちの存在に気づいていないようだった。

電車は私がこの辺りで一度も見たことのない線路を滑っていく。

だが、その線路は電車が必要とする場所にだけ、正確に姿を現した。

電車は見慣れた通りや庭、果てには昔の職場まで通り過ぎた。

しかしそのオフィスの窓には、残業していた同僚たちの影はなく、空っぽだった。

やがて車窓に映るのは森となった。

濃密で、ほとんど光を通さず、私は驚いた。

こんなところに鉄道があるなんて。

そもそも歩道すら見えないのに?

電車はひたすら進み、道を塞ぐ木々は空気の中に溶けるようにして消え、そのあと再び私たちの後ろで閉じていった。

暗闇だけを残して。

私は思った。

ただ過去が後ろに置き去りにされていくだけではない。

むしろ消されていくようだった。

そうだ、過去は過去の場所に。

これからは未来だけがある。

ようやく私は、今日を抜け出し、前へ希望を向けて見つめられた気がした。

そっと少女を見た。

彼女は黙ったまま、その全てを見守っていた。

窓の外から差し込む光の粒がその瞳に反射し、彼女の顔はこの世界のどんな景色よりも美しかった。

「君の魔法は本当にすごいな。どうやってるんだ?」

そう尋ねると、彼女はただ首を横に振った。

否定しているのか、答えたくないのか、それは分からなかった。

私たちは最初の駅に着き、次の駅に着き、それからは徒歩で移動した。

多分、途中の記憶はもう終わっていて、これから先にあるのは本当に重要なものだけなのだろう。

もちろん、それを誰が重要と決めたのかは分からなかった。

でも――それでも楽しかった。


私たちはいくつもの見覚えのある場所へ入っていった。

バーやカフェ、レストラン――生きていた頃に何度も足を運んだ店たちだ。

一見すると、何もかもが以前と同じだった。

同じテーブル、同じ控えめな照明、疲れたように光るネオンの看板。

けれど耳を澄ますと、そこには誰の気配もなかった。

客も、ウェイターもいない。

ただ私たちと、私たちの声が作る静寂だけ。

料理は注文すると同時に勝手に現れた。

メニューを読み上げただけで、目の前に皿が置かれる。

黄金色の衣、瑞々しい断面、香ばしい匂い――思わずお腹が鳴りそうになるほど完璧だった。

けれど一口食べた途端、その味は消えた。

全てが無味無臭で、まるでプラスチックでできているようだった。

私は向かいの少女を興味深く眺めた。

彼女は眉を寄せ、何度も何度も料理を口に運んでは、次こそ変わるのではと期待しているようだった。

だがやがて箸を置き、悔しそうに私を見た。

まるで私が直接騙したかのような顔で。

思わず吹き出した。

「ねぇ、それが何かさえ知らないんじゃない?」

皿を指しながらそう訊くと、彼女は疑わしそうに目を細めただけで答えなかった。

私は元から食に強い関心を持つ人間ではなかった。

食事はただ当たり前にあるもの。

記憶に残るのは形や色、質感だけで、肝心の味はなぜか曖昧だった。

おそらく彼女は、見た目だけを頼りに料理を作っているのだろう。

その奥にある味を知らずに。

そういう意味では、私たち二人とも同罪だったのかもしれない。

だが、彼女の実験はそれだけでは終わらなかった。

彼女はそっとジョッキを持ち上げ、金色に泡立つ飲み物を慎重に一口飲んだ。

そしてあまりに率直な困惑の表情を浮かべたので、私は危うく吹き出すところだった。

「これ…うーん…これって…ひどい味。」

泡を舌でなぞって拭う彼女の顔は真剣そのもの。

それが可笑しくて、とうとう私は堪えきれずに声を上げて笑ってしまった。

この分野に関してだけは、私は自信があった。

まともなビールを出す店を見つけるまで、何度も何度も味見を繰り返したのだから。

酸っぱければ古い樽、

水っぽければ水で薄めた証拠、

苦すぎればホップの入れすぎ。

私はそうした細かい違いを覚えていて、慎重に店を選んだ。

だからだろう、食事の味を覚えていなかったのは。

数杯飲めば、あとは何を食べても一緒だったから。

少女はじっと私を見つめていた。

その目はどこか遠く、だが同時に真剣で、微かに苛立ち、そして少し興味深げでもあった。

彼女はジョッキを手に取り、その重みを確かめるように持ち上げ、

何事もなかったかのような顔で、再び口をつけた。

その仕草には不思議な魅力があった。

単なる美しさとは違う。

自然体の中に、何か確固たる気品がある。

彼女はどんな背景にも違和感なく溶け込むくせに、決して埋もれることがなかった。

もしこの場に人がいれば、きっと誰もが彼女に目を向けたに違いない。

決して派手だからではなく、目を逸らせない何かがあったから。

ジョッキを置いた彼女は、少し首を傾げ、考え込むようにして私を見つめた。


「でも、見た目は面白いわね。」

そう呟いた彼女を見て、私はまた笑ってしまった。

泡を散らし、ビールをこぼしながら。まぁ、いつものことだ。

店を出ると、風景はすぐに変わり始めた。

足元のアスファルトは柔らかさを帯び、やがて瑞々しい緑に覆われていく。

誰かが街を消しゴムで消し、その跡に生きた芝生を敷き詰めているかのようだった。

気づけば、私たちは花咲くフロックスに埋め尽くされた丘の頂に立っていた。

数えきれないほどの桜の木が周りを囲み、その花びらは風に舞って、空中をふわふわと漂いながら地面に淡いピンクの絨毯を作っていく。

落ちるというより、むしろ私たちの周囲を泳いでいるようだった。

私は舞い散る花びらを目で追いかけ、いつしか彼女に視線を戻した。

陳腐な表現かもしれないが、それでもやはり彼女は美しかった。

月明かりに照らされ、花びらの渦の中に立つその姿は、言葉にならないほど幻想的で。

「君は綺麗だよ。」

そう言おうと口を開きかけたその時、一枚の花びらがそっと唇に触れた。

黙っていろと言わんばかりに。

だから私は代わりに微笑み、彼女を見つめ続けた。

歩みを進めるうちに、いつの間にか芝は消え、乾いた硬い地面に変わっていた。

風が運ぶ匂いも、さっきまでの花の甘さではなく、塩気を帯びた苦みが喉を刺し、肌をちくりと刺す。

私たちはただ前へ進んだ。

やがて足元に黒い光沢が広がり、地面から染み出した油のように見えた。

月光の中で境界はぼやけ、水面は引き裂かれた夜空のようだった。

星だけはそこにあった。

空ではなく、私たちの下に。

液体のガラスに映り込み、風が吹いても一切揺れなかった。

私はこの場所の熱をよく覚えていた。

まとわりつく暑さ、肌を伝う汗、それが水に飛び込む前の感覚。

そしてシャワーの後に吹き抜ける冷たい風。

ふと見ると、彼女はしゃがみ込み、指を水に浸してそれをじっと見つめていた。

「面白いわね。」

彼女が小さく呟く。

私はそれに頷くしかなかった。

――かつて水の上を歩いた男の話を聞いたことがある。

もちろんここではない、全く別の場所の話だ。

けれどこうして簡単に水の上を歩ける様子を目の当たりにすると、その伝説もあながち荒唐無稽とは思えなくなる。

もしかしたら私の世界にも、彼女のような存在がいたのかもしれない。

あたりを見渡すと、そこには何も変わったものはなかった。

水は遠くまで続き、廃墟になった建物や、かつての浜辺の名残、岩に刻まれた水位の跡が見えた。

この乾ききった景色には、しょっぱい苦味と一緒に、どうしようもない喪失感があった。

なぜだろう。

きっともう一度こうして辿り直すうちに、変なセンチメンタルになってしまったのだ。

視線を彼女に戻すと、長い髪が風にそよぎ、睫毛の影が頬に小さく揺れていた。

彼女の指先に触れた薄い塩の膜は、白く崩れ落ち、肌に淡い跡を残した。

その瞬間、ふと思った。

これが終わったら、どうなるのだろう。

きっと私たちが最後まで行けば、全て終わる。

その先で、私は彼女と一緒にいられるのだろうか。

それとも一度触れただけの塩の粉のように、最初の波が来たら跡形もなく消えてしまうのだろうか。


「考えすぎよ。それって体に悪いの。」

彼女はそう言って、私の頬に手を触れた。

現実に引き戻されるまでに、少し時間がかかった。

何が起きているのか理解した瞬間、顔が熱くなるのを感じたが、なんとか軽口を返した。

「おいおい、俺をハンカチ代わりにする気か? そうはいかないぞ!」

彼女の顔に、一瞬だけ不思議な表情が浮かんだ。

それが何を意味するのかは読み取れなかった。

だがすぐに笑い出し――本当に私の頬で手を拭きはじめた!

「やめろって! ふざけるな。」

私は顔をしかめ、彼女の手を払った。

「ふざけてるのはそっちでしょ。私の手はちゃんと綺麗よ。ほら、見て。」

そう言って、彼女は私の目の前で手のひらをくるくる回して見せた。

「ははっ、そりゃそうだろうな。もう全部俺の顔にくっついた後だし。」

「へぇ、そう思うなら、確かめてみたら?」

彼女は首を傾げ、にやりと笑った。

何を言いたいのか分からなかったが、言われるがままに自分の頬を指でなぞってみる。

ベタつきもざらつきもない――ただ、彼女の手の温もりだけがそこに残っていた。

「そんなに顔、赤くしちゃって。」

くすっと笑って彼女が言う。

「間接的に触れられる方が、直接よりドキドキするの? ほんと変わってる。」

途端に顔がさらに熱くなり、彼女は楽しそうにまた笑った。

「もう、いい加減にしてくれよ。先に進もう。」

「ふふ、もう着いたんじゃない? 見えない?」

「着いた? 何が? どこに?」

私は首を傾げて彼女を見た。

すると彼女も、すぐに同じ角度で首を傾け返した。

「……おもしろいな。」

私は目を細めて小さく呟いたが、正直に言えば、その仕草さえ可愛かった。

私が姿勢を戻して首を横に振ると、彼女も少し遅れて真似をした。

私が眉をひそめると、彼女の顔にも全く同じ皺が寄る――ただし、そこにはどこか皮肉げな色が混ざっていた。

まるで鏡と遊んでいるみたいだった。

けれど、その鏡は自分自身の意志を持っているかのようで。

もちろん、見た目は全然違う。

そして、私の髪はあんな風に綺麗には動かない。

彼女を見れば見るほど、今まで知らなかった一面が少しずつ現れるようで。

瞳は今までになく輝き、薄く浮かんだ笑みにはどこかいたずらっぽさがあった。

それは、何か悪戯を思いついた子どものような笑顔だった。


いつものことだが、彼女の顔からは何も読み取れなかった。

それが私の不安の根本だったのかもしれない。

もっとも、彼女の奇妙な言動にも、今ではもうほとんど驚かなくなっていた。

それでも彼女は、まるで熟練のマジシャンのように、いつだって帽子の中から信じられないものを取り出してみせた。

.

そして――私たちは旅を続けた。

雪に覆われた丘は凍りついた波のように広がり、流れる川は水音で自分たちの物語を囁いていた。

もっとも、そこに魚の姿は一匹も見つけられなかったが。

森では、降り止んだばかりの雨が葉に滴を残し、

山は時に険しい岩壁をそそり立たせ、時に柔らかな落ち葉に覆われたなだらかな斜面を見せた。

私たちは砂浜を歩き、野生の浜辺を抜け、石だらけの海岸を訪れた。

どこもかしこも見覚えがあった。

まるで雪に刻まれた自分の足跡を辿って歩いているかのようだった。

ただ一つ違ったのは、その足跡が今では二人分になっていたこと。

もし彼女がずっとそばにいてくれたら、私の人生はどう変わっていただろう。

仕事帰りに一緒にスーパーへ寄り道して、くだらない話をしながら帰る。

夜はお互いが好きなものを見たり、本を読みながらただ並んで座ったり。

休みにはこんな場所へ出かけて、桜の下でピクニックをしたり、

あるいは陽の光を避ける吸血鬼みたいに、家の中でずっと過ごすのもいい。

寝る前には少し話をして、朝目覚めた時、一番に見るのは――眠そうに笑って目を開ける彼女の顔。

そうしていれば、いや、きっと少しは長生きできたんじゃないか。

気づけばまた、同じ思考の輪の中で彼女のことばかり考えていた。

考えれば考えるほど、一枚の古いフィルムがゆっくり光に当てられて浮かび上がるように、ある真実がはっきりしてきた。

いつからだったのか?

思い返してみれば、最初からそうだった気もする。

ただ自分自身のことにばかり気を取られて、気づこうとしなかっただけで。

鍵を探してそこら中を探し回っていた間も、その鍵はずっと私の手の中にあった。

もちろん、他に誰もいないからこそ生まれたただの一時的な気の迷い――そういう可能性もある。

だけど、こんなに不器用な私の心や頭のどこから、こんな気持ちが湧いてきたのか。

それだけは分からなかった。

「それで…次はどこへ行くんだ?」

「いい場所よ。」

「ん? いい場所?」

彼女にとって「いい場所」ってなんだろう。

もう月の湖にだって行ったのに。

考えながら歩いたが、結局何も思いつかなかった。

千里の道も一歩から。

私たちはどれだけ歩いてきたのだろう。

こうして、ようやくここまで。


私が住んでいた家は、ぴかぴかのガラス張りの新しい高層ビルでもなく、和風の心地よい邸宅でもなかった。

それは古い二階建ての集合住宅で、東京にはもうあまり残っていないような建物だった。

クリーム色の壁、ところどころひび割れた漆喰、そして何度もの夏と冬を越えた、くすんだ瓦屋根。


共用の階段は長く、金属製で、建物の正面に沿って伸びていた。

足音に合わせて軋み、年月を経て塗装は剥げ、錆びの染みを残していたが、手すりはまだしっかりしていて、触ると冷たかった。

各階には同じような扉が並び、その奥には小さなアパートが隠れていた。

住人の名前を書いたプレートが飾られた部屋もあれば、何の飾りもない無表情な扉もあった。


中庭には、きれいに刈り込まれた木や鯉の泳ぐ池はなかった。

アスファルトの小道が門へと続き、建物の壁際には細い土の通り道があった。

誰かが花を植え、またある人は枯れた植物の入った古い鉢をただ置いていた。

入口のそばには自転車が並び、一部はチェーンでスタンドに繋がれ、他は壁に寄りかかっていた。

持ち主は誰も触らないと知っているかのようだった。


夏の空気は焼き魚と醤油の香りが漂い、冬には暖かく、わずかにガスの匂いが混じっていた。

住人たちが夕飯を作っているのだ。

夕方、窓から漏れる灯りは温かな光の斑点となってぼやけ、耳を澄ませばテレビの音や皿の音、声が聞こえた。

大きくはないけれど、生きている音だった。

その空間にいると、まるで完全に一人じゃないような気がした。


「それが“いい”場所っていうの?」

と私は彼女に尋ねた。

「嫌い?」

と彼女は返す。

「そういうわけじゃないけど…」

「“一度私にとって大切さを失った場所でも、あなたとならまた意味を持てる”」

と彼女は空中に指で円を描きながら言った。


彼女の論理には反論しにくく、特に私の言葉を引用されると、

私は顔をしかめたけれど、認めざるを得なかった。

しかし、なぜこの場所が?

なぜ“いい”のか?

当時も今も、理解できなかった。

ここには特別なものは何もない。

鳥が檻の棒を「いい場所」と呼ぶことは、自由になれた経験がなければないだろう。

私が言えるのは――ここで私の人生は終わった。

ここに終止符が打たれた。

唯一の終止符が。

数え切れないコンマの中で。


私たちはゆっくりと二階に上がった。

階段は馴染みの軋みを返し、手すりは冷たく感じられた。

階段の外の景色は高層ビルに遮られて見えなかった。

昼は暗い影を落とし、夜は全てを飲み込む進歩の恐ろしいシルエットになる。


隣のアパートの窓には灯りがついていた。

薄暗くかすかなところもあれば、明るく暖かな光の帯を作るところもあった。

その壁の向こうに生活の営みがあるように思えたが、私たちの周りには誰もいなかった。

誰もいないし、いるはずもなかった。


「開けて。ポケットに鍵があるはず」

と彼女はドアの前で立ち止まり言った。


私は彼女を戸惑ったように見つめ、ポケットをまさぐった。

この世界のすべては彼女のものだったが、彼女は驚くほど礼儀正しく、他人の境界を守っていた。そうではないか?


鍵を探し当て、取り出して鍵穴に差し込み、回した。

ドアが開いた。


「失礼します」

彼女は大きな声でそう言い、敷居をまたいだ。


玄関は冷たく迎えた。

それは感じられる冷たさではなく、むしろ幻のようなものだった。

その一方で、自分のアパートは遠く、見知らぬ場所のように思えた。


心の中にあの朝の光景が浮かんだ。

私とこの玄関。

だが、その時の自分の顔を想像するのは難しかった。

おそらく、自分の望みで飾られた姿だったのだろう。

現実よりも良いのか悪いのか、判断はつかなかった。


苦さが舌を滑り、金属の味が残った。

私は顔をしかめたが、その感覚はすぐに消え去った。

まるでなかったかのように。

かすかな余韻だけが一瞬残り、やがて溶けていった。

周囲の色彩はゆっくりと失われ、私をあの場所へと戻していく――何も残らなかったあの場所へ。


闇が体を包み込み、深みへと引きずり込もうとした。

その底に何があるのか知りたくなかった。

だから私は彷徨った――蛍に導かれながら。


目を大きく見開き、手を首に当てて、背骨を鋭く鳴らした。

静かな玄関に鈍い音が響き、凍りついた思考を揺さぶったかのようだった。


あの私が手を伸ばしていた像――

あの私を導いた蛍――

それは、君だったのだろうか?


私は彼女にそれを尋ねたかった。

知りたかった。

だが、それを置いて、今をしっかり見つめることにした。


私は顔を上げ、彼女を見た。

彼女は肩越しに私を見て、穏やかな笑みを浮かべていた。

その瞬間、彼女は光だけでできたあの姿よりも輝いていた。

私は微笑み返し、ドアを閉めて中に入った。


「ただいま」

この部屋で、初めて空虚にではなく、そう言った気がした。

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