第五話 初陣

 空に薄雲が流れ、陽射しはまだ柔らかい。


 季節は春先。けれど、山の空気は冷たく、木々の間を渡る風が衣の裾を揺らしていた。


 柚花は小さな籠を背に負いながら、はしゃぐように駆け回っていた。


「兄上、ふきのとう、これも食べられるやつでしょうか!」

「葉の巻き方が浅い。毒があるやもしれぬ。これは避けた方がよかろう」

「なるほどです……うーん、難しい!」


 元気に笑う声。その声の奥にある理由を、拙者は忘れていない。


 母上の、咳が止まらなくなった日。


 無理を押して働いていた母が、ついに床に臥すようになった。


 医師は「静養を」と告げたが、それだけで癒える気配はなかった。


 せめて、母に栄養のある食事を。そう思い、拙者と柚花は山へ足を運んだのだ。


 三年、柚花は休まずに拙者の稽古についてきた。


 その修行の成果もあって、柚花の動きは軽やかだ。


 竹刀を構えれば、大人の女性すら油断すれば打ち負かされる腕前に成長を遂げ、五歳の頃よりも体力がついて山々を歩いても元気に飛び回っている。


「……柚花、止まれ」


 風が、音を変えた。


 獣の匂い。土と血の混じった、獰猛な気配が迫っている。


「兄上……なにか、います?」

「……伏せろ!」


 叫ぶと同時に、茂みが裂けた。


 現れたのは、猪……いや、異形へ変貌した魔物だ。


 全身に黒い斑点。眼は血のように赤く、牙は二尺にも達する。


 足元にあった木の根を砕き、猪が跳んだ。


「柚花!!」


 刹那!!! 


 拙者の体は、無意識に跳ねた。


 背の皮袋に忍ばせていた竹刀を抜いた。


「兄上!」


 彼女も咄嗟に猪から距離を取るが、明らかに異質な存在に体が震えている。


 拙者とて、己が丹田に魔を宿していなければ異形に対して、理解が追いついていなかったであろう。


 この猪は力を求めたのか、それとも魔に取り込まれたのか、だが、確実に魔物としての覚醒を遂げていた。


 このまま命を喰らえば、さらなる鬼へ発展する。


「柚花、逃げるでござる」

「何を言われているのですか?! 兄上!!」


 剣術は人を相手に磨いてきた。このような異形を相手にするために鍛えてはいない。


 何よりも、柚花では到底太刀打ちができる相手ではない。


「柚花、拙者を信じられるでござるか?」

「えっ?」

「兄を信じれるかと聞いておるのだ!」


 妹が生まれ、初めて大きな声を出した。


「はい! 私は兄上を信じております!」


 即答で返ってきた答えに、拙者は口元がにやけてしまう。


 大切な妹に信じてもらえる。それがとても嬉しいことだ。


「ならば、兄を信じて逃げるでござる。そして、母上の元に帰るでござる」


 自分でも前世の口調に戻っていることは理解している。


 どうしても、緊張し、心が高揚すると口調を抑えられない。


「しかし!」

「負けぬよ」

「えっ?」

「拙者は負けぬ。だから、心配することなく母上の元に帰られよ。拙者も、必ず帰るでござるから」


 この世界で生きる侍を呼べば、魔物を倒してくれるだろう。


 (侍を呼んできてほしい)


 そう言えば、柚花は急いで走ってくれたのかも知れぬ。


 だが、拙者は試したい。


 ずっと内に秘め、己が力とするために鍛錬をしてきた力を。


 欲に取り込まれてはいない。


 己が力とするために訓練を重ねた成果が欲しい。


 だから、侍は呼んでほしくない。


「承知しました。兄上! 必ず生きて」

「うむ。必ず」


 柚花は強い瞳で拙者を見つめ、承諾してくれた。


 ああ、なんと嬉しいのだろう。妹は拙者を信じてくれた。


 男が弱者と言われる和国で、柚花だけは拙者を強者として認めてくれる。


 ならば、それに応えよう。


「柚花! 走れ!」

「はい!」


 柚花が逃げるために走っていく。


 その代わりに、拙者の手には竹刀が次第に重みを増していく。


 漆黒の剣へ変貌を遂げて魔を宿す。


 自らの刀を、意識の奥から呼び起こす。


 手に宿るのは、あの感触。

 

 何もない空間から、思念で引き寄せた黒き刃。


 魔刀。


 この刀を抜いたことは、未だ誰にも知られていない。


 それは柚花にもだ。


 だが、今はその是非を問う刻ではなかった。


「応えよ……我が魂に刻まれし刃よ。そして、魔物よ。貴殿がこの刀を振るう最初の相手でござるよ」


 人には向けられない。人には見せられない。


 逃げる柚花に向けて、魔猪の突進が、空を裂く。


 だが、やらせはしない。


 魔刀の刃によって空間が断たれる。


鎌鼬かまいたち


 拙者が学んだ剣術は、自然流剣術。


 自然を型に組み込み。己を自然の中に溶け込ませる。


 拙者の剣に魔力が宿ればどうなるのか? 試したことがないと言えば嘘になる。


 柚花に剣術の指導をしながら、拙者は魔を制御するために修練を積んできた。


「ふぅ〜いざ」


 血飛沫と共に、魔物は体勢を崩しながらも、こちらに視線を向けてきた。


「兄上!」


 柚花は振り返ろうとしたが。


「振り返ってはならぬ! 前を向いて走るでござる!」


 拙者の喝に柚花はそのまま走り続けた。


「はい!」


 その返事は力強くあったが多少震えていた。


 柚花は、初めて魔物を目の前にしたのだ。


 怯えて動けなくなってもおかしくない。


 だが、柚花は気丈に立ち上がって、逃げることができる強い子だ。


「異形の魔猪よ。拙者の初陣でござる。いざ、尋常に勝負されよ」


 異形の魔猪は、もう柚花を追うそぶりを見せずに、拙者だけを見てくれる。


 人為らざる者、されど強者との対峙。


 心が躍る。


 黒い刃を握りしめて、構え。


 正眼、狙うは魔猪の瞳。


 いくら魔に落ちても生き物として構造が変わるわけではない。


 瞳の柔らかさ、そこから繋がる脳髄は変わらぬ。


「いざ」

「ブルル」


 その長い牙を突き立てんと、拙者に突進を開始する。


 馬車などの非にならぬ巨体が拙者に迫る。


 なんとひりつくことか、恐ろしい。


 だが、この恐怖こそが己が剣を磨いてくれる。


やなぎ


 風になびく柳が如く、受け流し魔猪の突進を躱す。


あらし


 攻撃に転じる時には暴風を想像して、魔猪を躱した体は竜巻のように回転しながら、勢いを増して魔猪の瞳に魔刀を突き立てる。


 針のように突き刺せれば……。


「なっ!」


 魔刀は河豚フグのように針を発して、体内から魔猪を突き刺した。


「どこまでも思い通りに力を使わせてくれるのだな。それほどに拙者の魂が欲しいでござるか?」


 『鬼に堕ちろ』と拙者を呼んでいるように望みを叶えてくれることに、苦笑いを浮かべてしまう。


 だが、魔猪は倒れた。


 魔刀は拙者の意志に応じて霧のように溶け、手から消えた。


 心臓の鼓動が、まだ速い。初陣を終えた高揚が抜けぬ。


 何よりも大切なものを、守れた。


 それだけで、今は十分だった。

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