第四話 家族と過ごす日々

 朝霧がまだ地面に残る刻、家の中には白湯を沸かすかすかな音と、薬草の香りが漂っていた。


 母、杏子の仕事は過酷な様子で、疲労した顔を浮かべている。


 体が本調子でない日でも、柚花の着替えを整え、拙者が帰れば笑顔で迎えてくれる。


 今日もその声が、障子の向こうから届いた。


「……刃。おかえりなさい。……外は寒くなかった?」


 襖をそっと開けると、母が座敷の奥で湯を注いでいた。


 白い湯気の向こう、淡く色づいた頬はやや青く、息をするたびに胸を押さえるように細く肩が揺れている。


 それでも、母はいつも通りの穏やかな笑みを崩さない。


 黒髪をひとつに結い、薄紫の小袖を着たその姿は、どこか野の花のように柔らかで、同時に、静かな強さを感じさせた。


「……冷えたでしょう? 薬湯を淹れたの。ほら、指先、少し赤くなってる」


 母のぬくもりなど知らぬ拙者に、確かな温かさを教えてくれた手に包み込まれる。


「拙者のことなど……母上こそ、また顔色が……」

「大丈夫よ」


 気丈に告げられるが、決して体が強いわけではない。


 拙者が心配した顔をしていたのだろう。母の手が頬に触れ、優しく頭を撫でられる。


「ほんとうよ。柚花が大きくなって、少し手がかからなくなってきたから、それに刃が、柚花のことを兄としてちゃんとお世話してくれているから助かっているわ」


 この世界では、男が家事をして育児を行う。


 だからといって、どの家にも男がいるほど数は多くない。


 母は、男子を授かったことで家事を拙者に任せたに過ぎない。


 旦那もおらず、母一人で二人の子を育てる苦労は計り知れぬ。


「私も刃に負けてられないわね。……あなたたちの未来のために、お母さんも頑張らなくちゃ」


 火鉢のそばに腰を下ろすと、母は拙者の手を包むようにして膝の上にのせた。


 女尊男卑の和国において、世間では、男女平等に扱ってはくれぬ。


 下衆な視線を向けられるか、蔑まれる。


「どうして男のくせに買い物に来てるんだい?」

「ねぇ、坊や。あたしと遊ばない?」


 そんな声を十歳を過ぎてから何度か浴びるよになった。


 だが、母だけは男である拙者に対しても変わらぬ、愛情を向けてくれていた。


 女が、仕事をして家を支え。魔との戦いにも駆り出される。


 だから、女性は偉い。


 男は鬼と戦えない。仕事をしても傲慢で、すぐに欲に駆られて鬼に堕ちる。


 そんな足手纏いと言われる男である拙者を、一人の子として、愛し、大切にしてくれている。


 接者が強くなっても、認めてはもらえぬことをわかっているのに、丸太を振るって剣術の真似事をしていることにも気づいてるだろう。


 拙者が明け方に家を出て、どこに向かったのかも、知っていて見守ってくれているのだ。


「刃はね、よく我慢してくれているわ。……ありがとう。お母さん、刃が生まれてきてくれて、本当に嬉しいのよ」


 そっと頭を撫でる手は、いつも変わらない。


 優しく、温かく、そして誇らしい。


 妹へ向ける愛情とは違う。


 母に対しても、敬愛を抱くほどに大切に思う気持ちが芽生えていた。


「……母上。拙者は……」

「ふふっ、あらあら。目を伏せる顔が、かっこよくなってきたわね。あまりかっこよく育ってしまうと、たくさんの女性に求められて大変なことになるわよ」


 母のその笑みは、どんな鬼も祓うような、陽だまりの中にいるような安らぎを与えてくれる。


 男性が少ない和国では、男は種として、多くの女性を孕ませるように願われる。


 侍としてではなく、種。


 それが男の生き方なのだ。


 成人を迎えるのは、女は十五歳。

 男は二十歳と定められていた。


 それまでは手出し無用が和国の法だった。


 十五歳で柚花が立派な元服を遂げられたなら、拙者は鬼になろうと、種になろうと、誰のことも気にしないで進める。


 朝の陽が差し込み、小さな家の縁側に、三人分の影が並んでいく。


「ふふ、柚花。ほっぺたにお米がついておりますよ」


 母が、柔らかい布巾を手に、にこやかに微笑んだ。


 やや青白い顔色ながらも、髪をゆるく結い、色褪せた小袖の袖をくるりと折って動いている。今しばらく、この幸せな時間が続いてほしい。


「えへへ、お母さま……とって~」

「もう、おてんば娘ですねえ」


 その手つきは、桜の花びらが落ちるように優しく。


 柚花はくすぐったそうに笑いながら、母の膝に身を預けている。


 拙者は、母の湯呑みに茶を注ぎながら、その様子を見つめていた。


「母上、無理をなされぬよう。茶も濃すぎはせぬか」

「ありがとう、刃。優しい子ね」


 母は、ゆっくりと湯呑みを口に運びながら、目を細めた。


 少し咳き込んだものの、すぐに微笑みへと戻る。


「この家には、家長となる娘がいて、家を支える息子がいるから、母も安心して過ごせるのです。ねえ、柚花?」

「うん! 兄上はとても優しいの」

「そうですか。いつか柚花が立派な大人の女になって、兄上を守ってあげてくださいね」

「はいなのです! ……ゆずかも、お侍になるのです……!」


 侍は国に使え、士官するのが一番の近道だ。


 女である柚花はいずれ、元服を迎え、侍を目指すのだと思へば感慨深い。


「まぁ、それは険しい道ですね。ふふふ……柚花が刀を持つ日は、もう少し先ですが。まずは、お手伝いから始めましょうか。ほら、今日も干し野菜を紐で結びますよ」

「はいっ!」


 そうして母の隣にぴたりと座る柚花の横で、拙者はその手元にそっと紐を添えた。


「ほら、こうやってな、結び目は固すぎぬように。力は抜いて、でも意志は込める」

「うぅ……兄上、また難しいことを言う~」

「当然でござる。内職も暮らしも、心があってこそ」

「……もう、また……」


 そんなやりとりに、母がふふ、と笑い声を漏らす。


 その音は、風鈴のように涼やかで、心地よく、何よりあたたかかった。


 この日々が続けばよい。拙者は、ふと、そう思った。


 たとえ剣を持てずとも。

 たとえ魔を宿していようとも。


 この三人で笑い合う朝が一日でも長く続けばいい。


 何よりも尊いものと思うでござる。



 昼下がりの陽が障子の隙間から洩れ、畳に模様を描いていた。


 母が仕事に出ている時間は、拙者は家事を終えて、長屋の奥にある竹林で、柚花と共に遊ぶことにしている。


 長家には他にも子供もいるが、そのほとんどが女子であり、成長してきた拙者に視線を向けてくることが多くなっていた。


 そのため、身を隠すために竹林に入って、柚花と身を隠す。


 女子からの視線で、身の危険を感じることになると思いもしなかった。


「兄上、今日も……あの、くるりとするやつ、見せてくださいませ」

「はは、くるりではない。風舞だ」

「風舞?」

「ああ、拙者が使う剣術は、自然の力を型に含む」

「自然の力?」


 柚花は首を傾げ、理解しようとするが、こればかりは言葉では全てはわからない。


 だが、その身体も心も幼いままではあるが、その瞳には真っ直ぐな意志の光が宿っている。


「……うむ、それでは……」


 拙者は竹林を抜けた先に柚花を連れて行く。


「まずは見ているのだ」


 柚花に指導するため、竹を削いで竹刀を作った。


 稽古の際には、丸太を使っていたので、随分と軽くて心許ない。


 だが、刀の形に整えた竹刀の方が、より見せることができる。


 己の中でこの一本に込める想いは、どんな名刀よりも誇りがある。


 風が吹いた。柚花の髪がふわりと舞う。


「参る」


 一歩、足を踏み出すと同時に、風が裂ける。


 空を切る音と共に、拙者の体がひと回りするように旋を描いた。


「旋風」


 今、吹いた風のように刀を振るう。


 地を踏み、腰を沈め、肘から力を流し、竹を斬る。


 この十年、一本、また一本。


 静かに、けれど熱を宿した気で、空間を断ち切るように。剣術に打ち込んできた。


 魔と向き合い、刀を振い、剣術を極める日々。


 幼く、まともに丸太を触れなかった体は、思い描く剣にやっと一歩近づいた。


 柚花は、その様子を見て、小さく手を打った。


 パチパチパチパチ!!!


「兄上すごい……! 風とお友達みたい!」

「風と友か……ふむ、それは面白い表現だな。間違っていない。何よりも刀とは、ただ振るうものではない。心を研ぎ澄まし、己の奥底と向き合う術だ」

「ゆずかも、したい……! 兄上のように、風とお話ができるようになりたい!」


 拙者はしばし黙し、彼女の顔を見つめた。


 まだ五つの娘が、刀を求めるのは早い。


 だがこの国では、女子であれば剣を学ぶことは許される。


 いずれ、力が無ければ柚花自身が苦労することになるだろう。


 何よりも、柚花が拙者の剣に憧れてくれることを喜ぶ心があった。


 言葉にできぬほど、嬉しく、くすぐったいものだ。


「……ならば、まずは構えからでござるな」

「ほんとうにっ? 教えてくれるのですか?」

「約束する。ただし、拙者の教えは厳しいぞ。覚悟はできておるか?」

「はいっ! 柚花、がんばりますっ!」


 嬉しさに頬を紅潮させながら、柚花は拙者が用意した子供用の竹刀を拾い上げる。


 まだ背丈とはほど遠い。


 だが、竹刀を持ち、ぶんぶんと振り回す姿は様になっていた。何よりも、柚花からは気迫が感じられた。


「柚花はスジがいいな。強くなれるぞ」

「本当ですか?! これで侍になって兄上と母上に美味しいご飯を食べさせてあげられますか?」


 幼い子供なりに、柚花は家族のことを考えてくれていたんだ。


 拙者はあまりにも優しい言葉に目頭が熱くなる。


「今日から、共に剣の道を進もう。そして、最初の一振り、それがそなたの刀だ」

「……えへへ、ゆずかの刀……!」


 その笑顔を見ながら、ふと空を見上げる。


 雲がひとつ、風に流れていた。


 この国の常識が、いずれ柚花を縛る時が来るかもしれぬ。


 何よりもいつまで拙者の身に宿った鬼が暴走してもおかしくはない。けれど、今はただ、自由に剣を振るう楽しさを、教えてやりたかった。


 この手で守ると決めた、家族の未来のために。


 拙者は、彼女の後ろに立ち、構えの型を手で導いた。


「両足を肩幅に。重心を落とし、棒は正面に……そう、そのまま!」

「兄上の声、くすぐったいです~」

「だまされてはならぬ、これは修行でござる」

「はいなのです!」


 笑い声が、竹林に響く。その音は、どんな剣戟の音よりも、心を震わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る