第三話 妹の温もり

 鬼祓いの儀を乗り越えられたことで、拙者の中で魔は丹田に封じられるという実感を持つことができた。


 そして、魔が封じられるのであれば、刀を思う存分に触れることができる。


 その喜びは拙者にしかわからぬだろう。


 この細く弱々しい体では、刀はまだ上手く振れない。

 魔に取り込まれる恐怖を乗り越えられた。

 これで、刀が振れる。


 男だから、刀が振れない。ということを気にしなくてもいい。


 この世界の現実に、直面して悩んでいたことが晴れたのだ。


 これで魔を恐れて剣を極めることができないという言い訳はできぬ。


 竹林に射し込む光は淡く、湿った空気が土の匂いを孕んでいた。


 拙者は、いつものように丸太を握っていた。


 魔を丹田に封じ、他者に気づかれない。


 いつもよりも気合を入れ、闘気を纏わせて丸太を振るう。


 けれど……その日は不思議なことが起きた。


「……なんだこれは?」


 その日、拙者は確かに丸太の重みを感じていた。


 握った丸太の感触が、あまりにも本物の刀に近かった。


 肌に吸いつくような鞘革の質感。

 重さの中に確かな芯を感じる刀身。

 手の中で呼吸するように脈打つ。


「……なんだこれは……」


 拙者の手の中に、確かに刀があった。


 それは、形なき幻ではない。


 丸太を握っていたはずなのに、刀を握る感触がある。重みがある。握った時、意志すら感じる。


 目を右手に向ければ、真っ黒な影が丸太を飲み込み。


 かつて握った愛刀と同じ、形を作り出していた。


 真っ黒な鞘に、抜かれた刀身も真っ黒。


 だが、煌めくような波紋があり、握る柄は刀そのものだ。


 拙者の内に熱を感じる。


 胸の下、丹田の奥深く。

 

 魔を封じた場所から、拙者の腕を通り、影が伸びていた。


 ふつふつと波打つように震えていた。


「……魔が……」


 魔が溢れ出している。


 丹田に封じた魔が、拙者の体から溢れ出して、漆黒の刀を作り出していた。


 それは己の想いが引き出した魔が生み出した刀。


 拙者の願いを叶えるように、欲望という名の火種が、魔に反応したのだ。


 力が欲しい。剣の道を極めたい。


 誰にも負けぬ、己だけの刃が欲しい。


「それが形を成したというのか?」


 魔とは、欲を形にする力だとでもいうように、影が己の心に反応している。


 拙者の欲を認め、形として顕現していた。


「なるほど……これが魔の力か」


 拙者は息をのんだ。


 ここはかつて自分が生きた世界ではない。


 このような魔が存在する。

 

 かつての世界でも魑魅魍魎が存在していたかもしれぬが、自分は知らぬ。


 この世界には、輪廻転生でやってきた。


 別の世界であると認識はしていたが、このような欲望を形にする魔が存在しているとは思いもしなかった。


 だが、恐ろしい。


 確かに魔には魅力がある。


 意志と力が直結しているこの感覚。


 努力や鍛錬を超えた、別の原理。


 それ故に力を求め、深みにハマる魔からの誘いだ。


 これが、魔を宿す者が堕ちていく道なのか。


 己が思い描くだけで、力が手に入る。


 血の滲む稽古など必要なく、ただ、欲望を肯定すればよい。


「……だが、それでは拙者ではない」


 力の誘惑を感じながらも、拙者は丸太を握り直した。


 想像ではなく、現実として。


 魔が作り出した幻の刀を追うのではなく、現実に存在する丸太を選ぶ。


 魔は、封じるだけのものではない。


 理解し、律し、共に存在しているのだ。


 それが、拙者に課せられた道である。



 さらに時が流れ、拙者は十となった。


 この地に生を受けて、早五年の時を越えたのだと思うと、不思議な感慨がある。


 いや、違うな。転生して十年、表向きには刀を捨てて十年、己を隠して十年。


 現在は、刀だけでなく魔との向き合い方にも苦戦させられている。


 確実に前世よりも己と向き合う時間が増えたことは間違いない。


 そして、柚花もまた、五つとなった。


 赤子の頃は、母の懐にくるまって泣くばかりだったが、今では自分の言葉を持ち、歩き、拙者の袖を引き、顔を覗き込むような少女となっていた。


「兄上、今日は一緒にお昼寝いたしましょうぞ」

「……昼寝の誘いか。武士道にあるまじき……いや、断じて悪くない提案でござるな」

「ふふっ。ゆずかは、兄上のおそばがよいのです」


 そう言って、拙者の膝にぴたりと寄り添ってくる。


 その手は小さく、温かく、どこか頼りなさげで。けれど、その温もりが、この世のどんな理よりも確かな今を示してくれている。


 柚花は、拙者を疑わぬ。


 男が剣を持てば鬼に堕ちる。


 その教えすら、まだ知らぬ歳。


 純粋に、ただ兄を慕い、傍にいたいと願う。


 柔らかな心だけが拙者を包み込んでくれる。


「兄上、また竹林で、剣の舞をしておられたのでしょうか? ゆずかは、知っておるのですぞ」

「見られていたか……ふむ、これでは隠しごとにもなり申さぬな」

「ゆずかも、兄上のようになりたいのです。剣を抜き、くるくると風のように……」


 彼女は手を広げて、風に舞う蝶のようにくるりと一回転してみせた。


 それはまるで、かつての拙者の剣舞を真似たもの。


 軽やかで、無垢で、まだ何も知らぬがゆえの真っ直ぐな憧れ。


「……ならば、いずれ教えてやろう。剣とは、ただ振るうだけのものではない。想いと、心と、誇りが宿るものだ。そのためにまずは勉学をしなければならぬ」

「はいっ、兄上におそわりたいです! でも、今日はお昼寝でいいですか?」

「ああ、もちろんだ」


 彼女の瞳は、曇りなき水面のようであった。


 拙者の中に眠る魔の影。


 それがいずれ、この妹の前に立ちはだかる日が来るかもしれぬ。


 それでも、今は。


 この温もりを、忘れぬように。


 彼女の小さな手を取り、静かに頷いた。


 この日々が、永く続くようにと胸の奥で、誰に向けるでもなく祈ってしまうでござる。

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