第二話 魔の手
時は過ぎ、拙者は七つとなった。
春先の風は、まだ少し冷たく、裏手の竹林が揺れる音に耳を澄ませながら、拙者は丸太を振るっていた。
夜明け前、人の目を避けて。
長屋の裏手にある獣道を抜けた先、誰にも見られぬ竹林の中にある小さな空き地。
そこが、拙者の道場であった。
母には朝の散歩と偽り、柚花が目覚める前に修行を終えるのが、いつしか日課となっていた。
刀を持つことは罪。
男が力を持てば、鬼に堕ちる。
その教えは重々承知している。
だがそれでも、拙者は振るわずに生きるよりも、刀を取って鬼に堕ちる。
前世で果たせなかった剣の道。
極めることが叶わず、銃弾に倒れた己の誇りを、この手に取り戻すために。
ふと、手が止まる。
何か、違和感があった。
空気が、重い。
風が止み、鳥の声も消えていた。
……いや、違う。音が奪われている。
耳鳴りのような、低い唸り。
誰もいないはずの空地に、何かがいる。
その気配を感じて、拙者は丸太を構えた。
「……誰ぞ」
返事はない。
だが、確かにそこに何かがいた。
音もなく、黒い影がぬるりと木陰から現れる。
人の形をしているようで、していない。
影のようであり、霧のようでもあり、それでいて目だけが、明確に存在していた。
ぎらりと光る紅の双眸。声もなく、だが確かに聞こえた。
……ちがう、おぬしは……
……ちがう……この世の者ではない……
頭の奥に響く声。
それは言葉ではなく、感情の奔流のようだった。
怒り。悔しさ。無念。憎しみ。孤独。
かつて拙者が抱いたそれらの想いが、逆流してきたかのように心を満たしていく。
「やめろ……」
丸太を握る手に力が入る。
額に汗が滲み、吐く息が白くなる。
目の前の影は動かぬ。ただ、こちらを見つめている。
いや、誘っている。
力を欲せよ。
この身に宿せ。
剣に、意味を。
そんな声が聞こえた気がした。
視界の端が、黒く染まりかける。
丸太の先に、奇妙な熱が走る。ぬるりと、何かが這うような感覚。
このまま力を受け入れれば、剣は鋭くなるだろう。誰にも負けぬ、圧倒的な力を得られる。
だが、それは拙者ではなくなるということ。
かつての仲間を、己の意志で斬ってしまったあの夜の記憶が、胸を貫いた。
「……黙れ」
だが、そのとき、確かに感じた。
影が、拙者の心に染み入ろうとした瞬間、拙者の内から何かが滲み出たのだ。
それは魔に対抗する力。
いや、拙者はこの力を知っている。
「死にたくない! 生きたい!」
人を喰らう魔、心を蝕むこの世ならざる力という欲望。
その侵蝕に抗する芯のようなものが、拙者の内から立ち上がっていた。
熱でも、冷気でもない。
呼吸、脈動、そして剣への祈り。
それは、かつて命を懸けて斬り結んだ戦場で得た、闘気と呼ぶべき感覚。
刀を振るうとき、心が澄み、雑念が消え、気が一つに収束するあの瞬間。
闘気とは、剣の理であり、心のかたちであり、魂の護りであった。
拙者はゆっくりと呼吸を整える。
一つ、吸って。
一つ、吐いて。
己の中心にある芯を意識する。
そこに、刀を納める。
斬るだけではない。
内なる鞘に刀を納めるように、魔を自らの内に沈めていく。
構えずとも、そこにあるという想いを添える。
静かに目を開けば、もう魔の影はなかった。
空気は戻り、竹の葉が鳴る。
鳥が囀り、朝の陽が地平から射し込んでいた。
……魔は消えたわけではない。
内なる丹田に封じられたに過ぎない。
拙者が心に魔を宿したのは間違いない。
しかし、拙者に心を奪われなければ魔に取り込まれることはない。
魔の囁きに屈さぬためには、刀で抗うのではない。
己が精神にて、魔と対話するのだ。
そこに、一本の刀を納める。
「拙者は……鬼にはならぬ」
胸の奥には、まだ残っている。あの声。あの眼差し。
だが拙者は、それを忘れはしない。
忘れてはならぬのだ。
力を求めるほど、魔に近づく。だが刀を捨てれば、拙者ではなくなる。
その相反する狭間で、拙者は歩んでいく。
心に刀と魔を納め。
この道は、誰も知らぬ道に続いていく。
だが、それこそが拙者の剣の道でござる。
♢
鬼祓いの季節がやってきた。
年に二度。男児たちは寺に赴き、魔の気配を調べられる。
男とは、放っておけば魔に堕ちる存在。
それがこの国の定めである。
拙者もまた、例外ではない。
だが、今は違う。
拙者はすでに、魔を宿している。
剣を振るい、心を澄ませたあの朝。
拙者の中に、たしかに魔は入り込んだ。
だが、それを封じた。己の中に納めた。
封印して、共にあることを選んだ。
それでも、鬼祓いの道を歩く脚は、正直だった。
竹林を抜け、石畳の道を登る。肌寒い朝霧のなか、手のひらがじっとりと汗ばむ。
鬼が棲む者は、神前の香にて炙り出される。
己の胸に納めたそれが、今も眠っていてくれることを、ただ祈るばかり。
「……拙者は、拙者である。今は、まだ……」
誰に言うでもない言葉を呟きながら、石段の上、白木の門をくぐる。
女僧たちが並び、数珠を鳴らしながら来訪者を迎える。
「七つの男児、こちらへ」
無機質な声。
拙者は列の一番後ろについた。視線を上げることも、顔を伏せず、ただ淡々と歩く。
静寂のなか、香の匂いが鼻を刺す。白い帳の奥、あの空間。
目を閉じ、掌を合わせる。
呼吸を整える。
魔よ、眠れ! 心の内にあるそれに、そっと念じる。
荒ぶるな。騒ぐな。お前の力を望んでおらぬ。
やがて、白衣を纏った僧が前に立った。
黒髪を結い上げ、歳の頃は二十ばかり。清らかな佇まいの中に、鋭さを宿した眼を持つ女性。
その目が、拙者の胸を刺すように見ていた。
……見られている。心の奥を、覗かれている。
鼓動が高鳴る。口が乾く。
もし、あの影が蠢けば、すべてが終わる。
「息を整えて」
僧侶の声は、驚くほど優しかった。
その手が、拙者の額に触れる。
香の煙が焚かれる。
白い霧の中、何かが体内を這うように通り抜けていった。
……魔は、反応しなかった。
眠っている。納めたまま、揺るがぬ。
それを、僧もまた感じ取ったのだろう。
「問題ない。綺麗なものです」
そう言って、彼女は微笑んだ。
嘘ではない。だが真実でもない。
見抜けぬほど深く、魔を押し留めている。
拙者の手が、静かに膝の上で震えていたのを、誰も気づかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます