34話 休息
「……合宿?」
「うん。明日から合気道の合宿に参加してみようと思って」
しおりの家庭教師の時間に、拓人は静かにそう語った。
「練習なら一人でもしてるじゃない。師範? も呼んでるってこの前瑞希さんにも聞いたけど……」
「単に合気道をやるだけならそれで問題ないんだけど、それじゃ駄目なんだ」
拓人は拳をギュッと握った。
「この西園寺家で練習している限り、僕は西園寺の一員として扱われる。でも、合宿という集団の中で、ただの西園寺拓人として身を置く。それはきっと、ここでは得られない重要な経験ができる気がするから」
決意の込もった眼差しに、しおりは彼が新しい場所へと進もうとしているように感じた。
「偉いね、拓人は。あ、でも……」
拓人がこの家を空けるということは、としおりは一つのことに気づく。
家庭教師は生徒という相手あってこそ成り立つ役割だ。その拓人がいない以上、その間はしおりが家庭教師を担う必要がなくなる。
「その間は私、何したらいいんだろう?」
自然と浮かんだ疑問に、拓人は表情を緩めた。
「羽を伸ばしたらいいんじゃないかな」
「羽を……伸ばす?」
小さい頃から勉強と研究を頑張り続けて、西園寺家に来てからはずっと家庭教師をしてきた。しおりには、羽を伸ばすという感覚がよく分からなかった。
「うん。先生にはこの家に来てから僕や猫のこと、色々助けてもらったから。少しくらい好きなことをしたって誰も何も言わないと思うよ」
「う、うん……」
ありがたい話ではあったが、しおりは何をしたらいいのか思い浮かばなかった。
その日は頭がいっぱいになり、教えることにあまり集中できずに終わった。
「じゃあ、行ってきます。三日後には戻るから」
「行ってらっしゃいませ、拓人様」
「気をつけてね、拓人」
邸宅の玄関先で柊と瑞希に見送られ、拓人は合宿へと出かけていった。その様子を、しおりはぼんやりと眺めていた。
結局、この三日間で何をやるかは全く決まっていなかった。
「では瑞希様、
「はい、よろしくお願いしますね。柊さん」
瑞希の微笑みに、柊は深々と頭を下げて書庫の方へと向かっていった。
「しおりさん」
「は、はいっ」
少し前まで雪村さんと呼んでいた瑞希は、親しげにしおりへ話しかけた。
呼ばれ方が変わり、しおりは動揺を隠せない。
「な、なんでしょうか」
「拓人のことについて、お茶をしながらお話した時のこと。覚えているかしら?」
それはまだ、しおりが過去の傷を癒やす前のこと。
拓人の過去と……家の名前という重みへの悩みを抱えているという会話だった。
「あの時から、拓人はずっと強くなりました。それは肉体的な強さではなく、心の強さです。あの子は、ずっと反発していた宗一郎さんへ歩み寄ろうとしました。あの子は語りませんけど、きっとそのきっかけは……しおりさん。あなたなんでしょうね」
瑞希は、しおりに向き直ると……深々と、頭を下げた。
「え、あの」
「本当にありがとうございます、しおりさん。母として、これ以上の喜びはありません」
それからゆっくりと頭を上げ、瑞希は穏やかな微笑みを浮かべた。
その様子に、しおりの心が温かいもので満たされていく。
――この家の人たちは、どんな環境で生まれ育ってここまで来たんだろう。
しおりの中に、小さな一つの疑問が生まれる。
この大きな家には宗一郎と瑞希、そして拓人の他に、西園寺の血縁の者は住んでいないようだった。
どんな過去があったかは分からないけれど。
拓人がそうしたように、きっとそれを知るためには……この家にいるだけじゃ分からないような気がして。
「……あの……私。この家の近くにある街中に、出かけてみたいです」
しおりは、心にそっと生まれた思いを口にしていた。
「まあ、いいわね」
瑞希は手を合わせて嬉しそうにしおりを見つめた後、
「それなら……一つ、私からお願いしていいかしら」
「?」
「お使いみたいで申し訳ないのだけど、昔から好きなパン屋さんがあるの。そこのパンを買ってきてもらえないかしら? ちょっと待ってね……」
瑞希は少し離れた位置に置いてあったメモ用紙を取りに行くと、ペンを握って、サラサラと流麗な筆致でパン屋の名前と周辺の簡単な地図を描いてみせた。
他ならぬ瑞希に頼られたことが、しおりにはとても嬉しくて。
「はい……任せて下さい!」
しおりは瑞希のメモを受け取り、元気いっぱいに答えていた。
西園寺邸から坂を下り、しばらく道なりに歩くと大通りに出た。
今日は土曜日ということもあり、人通りはそれなりに多く活気づいている。
「……」
ああは言ったものの、街を見て回ることにしおりは一抹の不安が残っていた。
知らない人に指を指されて、あの雪村しおりだ。などともし声をかけられたら、どうしよう。
そう思った瞬間、しおりは俯きがちになり、足取りは早まっていった。
……パンを買って、少し近くを見て回ったらおとなしく帰ろう。
瑞希のメモを頼りに、しおりは件のパン屋を見つけて入店し――
「……あれ?」
そこで、しおりは見知った顔を見かけた。
「いらっしゃいま……ってあれ、先生じゃん!」
パン屋の制服に身を包んだ茜が、ちょうどパンの品出しをしていた。
「……茜、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だよ、私はここでバイトしてるの! 先生は?」
「えっと、瑞希さんにお使いを頼まれて」
「へぇー、すごい偶然だね」
茜は嬉しそうに笑う。それだけで、しおりの冷えついていた心に温かさが灯った。
「ね、先生はこの後時間ある?」
「うん、特に予定はないけど」
「ならもう十五分だけ待っててもらえないかな? 私ちょうど今日のシフトが終わるとこなんだ……って、買い物に来たんだよね、先生は」
ごめんごめん、とポニーテールを揺らしながら、茜はしおりが持っていたメモをチラッと見た。
「あ、これとこれ買いに来たんだ。うちの看板商品とロングセラー商品、さすが、分かってるね!」
まあ自分は品出しとポップ作りをしてるだけだけど、と茜は笑いながら、しおりが買いにきたパンを手早く袋に詰めていく。
「七百二十円になりまーす!」
しおりはお金を渡し、その後はパンが入った袋を抱えながら茜が働く様子を眺める。
お店に入るまでに抱いていた不安は、いつの間にか消えていた。
「お先でーす!」
快活に挨拶し、茜は店の外で待っていたしおりに手を振った。
白地にカレッジロゴがポップに映える少し大きめの半袖Tシャツを着て、腰回りにライムグリーンの薄手のパーカーを巻いている。ボトムスは動きやすいカットオフのデニムショートパンツで、裾のほつれが飾らない印象を与えていた。
「お待たせー!」
「ううん、茜も仕事お疲れさま」
「じゃ、行こっか」
「……行くって、どこに?」
「ん? ああ、今日はね」
茜はピッと人差し指を立てて、元気よく答えた。
「先生と一日遊ぶって、決めたんだ」
「え、えと」
色々とついていけていないしおりに、茜は少しだけ悲しそうな顔をした。
「やっぱり忙しい? ダメ?」
「そんなことないよ。ただ、急すぎてついていけてなくて……」
友達と遊ぶ。当たり前のような響きに聞こえることさえ、自分には分からないのだとしおりは気付いた。
「ごめんね、今日会えたから嬉しくなっちゃって。それでさ」
茜は屈託なく笑って、一つの提案をした。
「今日一日は先生のこと、友達っぽく、しおり……って呼んでいいかな?」
どこまでも真っ直ぐな茜の瞳に吸い込まれるようにして。
しおりは、頷いていた。
「やった、それじゃ……しおり、行くよ! まずは定番のお揃いコーデからいこー!」
茜はしおりの手を取ると、元気よく歩き始めた。彼女は意外なほど引っ張る力が強く、頑張ってついていかないと転けそうな勢いだった。
しおりは大変なことになった、と思いつつどこか胸の高鳴りを感じていた。
「はいしおり、これ被って!」
茜はアパレルショップに入ると、スポーディーなキャップを二着購入し、うち一つをしおりに手渡した。
「私も同じの被るからさ、これでお揃いだよ」
キュッとキャップのつばを前に向けて、茜は誇らしげに笑った。
しおりもそれに倣う形でキャップを被った。
「こ、こうかな」
「うん、似合ってるよ! それじゃお腹すいたしランチ行こっか」
その後、茜はしおりを色々なところに連れて回った。
ファストフードで腹ごしらえした後は、雑貨屋を巡ったり、古着屋を見て回ったり、歩き疲れたら手頃なカフェに入っておしゃべりして。
その後は、ゲーセンに来ていた。
「なんか、音すごいね……ちょっと怖い」
「まあこういう場所だからね。慣れだよ慣れ」
茜はしおりの手を引くと、華やかな一つの筐体まで歩いていった。
「しおりはプリクラ撮ったことある?」
「ううん……写真みたいなやつ?」
「だね。それじゃ、やってみよっか」
二人でプリクラの筐体に入り、茜が手慣れた手つきで画面を操作していく。
「じゃ、撮るよ」
パシャ、と撮影する瞬間。
茜はしおりの肩を抱き寄せ、画面に向かってピースサインしてみせた。
「えっ」
「へへ、しおりの驚き顔が撮れたね」
少し意地悪そうな顔をして、茜は印刷された写真が機械から出てくるのを待つ。
やがて、プリクラが機械の出口から吐き出されると、茜はそのうち一枚をしおりに差し出した。
「はいこれ。今日二人で遊んだ記念だよ」
初めてのプリクラを受け取って、しおりは少しだけ不思議な気持ちになったあと。
不意に、泣きそうになって。
それがなぜなのか自分でもよく分からないまま、しおりはプリクラをそっとポケットの裾にしまった。
「いやー、今日はめっちゃ遊んだね」
日も暮れる頃、茜はやりきったと言いたげな清々しい表情をしていた。
「うん。初めてのことだらけだったけど……楽しかった」
「良かったー!」
あ、と茜は声を上げると、鞄に入れていた包みを取り出した。
「忘れそうになってたよ。はい、これ」
「……?」
「私からのプレゼント。さっき雑貨屋寄った時に買ったんだ。開けてみて」
しおりは首を捻りつつ、包み紙を解いた。
「……スマホの、キーホルダー……?」
それは、しおりが前につけていたキーホルダーとよく似たデザインをしていた。
「そう! 最初会った時にさ、しおりのキーホルダーのチェーン切れてたじゃない? 多分真面目なしおりのことだから、家庭教師やるのに精一杯で、新しいの買ってないんじゃないかなって思ってさ」
茜はなんでもないことのように笑った。
「茜」
「ん?」
「……キーホルダー、ありがとう」
「へへ、大事に使ってね」
「……今日、楽しかった」
「うん、私も楽しかったよ」
「…………」
「うん?」
「……今日だけ、なのかな」
「今日だけ? また遊ぶ約束しよっか? しおりとならいつでも予定空けるよ、いつにしよっか?」
「……しおりって、呼んで、もらえるの」
しおりはなぜか、目の前のスマホのキーホルダーが歪んで見えた。
「……あれ?」
しおりは首をかしげ……そこで、頬が温かいもので濡れていることに気づく。
「……あれ……へんだな、ごめんね。私……へんだな」
一度溢れ出した涙は、拭っても拭っても、止まらない。
しおりは、自分で何が起こっているのか分からなくなっていた。
「ごめんね……すぐ止まるから……」
肩を震わせ、涙を止めようとするしおりを。
茜はそっと、抱きしめた。
「もー、しおりは泣き虫だなー。嬉しくて泣いちゃうなんて。可愛いんだから」
あくまで親友として、茜はしおりの背中を優しく撫でた。
「……嬉しく、て……?」
「そうだよ、しおり。嬉しい時に、泣いたっていいんだよ」
あまりにも優しい、親友の励ましに。
しおりは、花図鑑の時のことをどうしても思い出してしまった。
「茜……」
こんなにも明るくて、誠実で、私のことを楽しませようとしてくれて。
キャップでそれとなく人目から隠してくれたり、最初に拾ったスマホのキーホルダーのことをずっと気にしてくれるような、細かい心遣いをしてくれる、理想的な親友を。
「……ごめんね」
私は、苦しめてしまった。
彼女の気持ちを何も知らないで、無神経なことを言って。
それでも誠実な友人の顔をさせ続ける。そんな、辛い選択をさせてしまった。
「……ごめん……ごめん、なさい……!」
ずっと謝りたかった。なんでもない彼女の顔を見て甘えそうになった。
でも、言わなきゃいけないって、ずっと思ってた。
「……もう、いいんだよ。しおり」
私の不器用な謝罪に、どこまでも彼女は思慮深くて。
それが、すごく辛かった。
「私は今日、しおりと一緒に遊べて楽しかった……だから、もう泣かないで」
ポンポンと背中を叩いて、茜はそっとしおりから離れた。
「ばいばい、またね」
明るく手を振って去っていく茜を見送りながら。
しおりは、涙を零し続けていた。
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