35話 憧れ

「……うあー」

 茜と半日遊んだ日の翌朝。

 しおりは目覚めてすぐに昨晩の自分の醜態を思い出し、羞恥に悶えた。

「……友達の前で大泣きして、抱き締められて……うー、思い出したら恥ずかしすぎる。茜と次会う時どんな顔したらいいか分かんないよ、もー……」

 ゴロゴロゴロ、とキングベッドの端から端まで実に三往復は回転移動して。

 しおりは枕に戻って顔を埋めた。

「……れも、たのひかった、な」

 枕に向けて呟いた後、くるんと仰向けに戻ってしおりはゆっくり起き上がる。昨日の思い出を振り返ろうと、鞄にしまっていたプリクラとスマホのキーホルダーの包みを取り出した。

 プリクラには、茜が身体を寄せてきて驚く自分と、悪戯がうまくいったのを喜ぶ茜が並んでいる。顔は加工されて全体的にキラキラしていた。

「……誰かと写真撮るのなんて、いつぶりだろ」

 研究者としての自分が撮られることは何度かあったが、それはあくまで宣伝素材だ。友達はおろか、家族とも最後にいつ撮っただろうか。しおりは記憶を探ってみるも心当たりはなかった。

 家に帰ったら七五三の写真くらいは出てくるかもしれない。そう思いつつ、しおりはスマホのキーホルダーを改めて取り出した。電源をオフにしたままのスマホに取り付けながら、前のキーホルダーはいつ買ってもらったものか思い出そうとした。

「確か、家族で旅行に行った時に……」

 旅先で買ってもらった、ような気がする。でもどこへ旅行に行ったのか、何がきっかけで買ってもらったのか――細かいことは何一つ覚えていなかった。

「……」

 でも、買ってもらって嬉しかったことだけは覚えている。それに、これからは茜にプレゼントしてもらったという新しい思い出も加わるのだ。

 しおりは新しくなったキーホルダーに満足し、ついでにスマホの裏面にプリクラを一枚貼ってから鞄にしまった。

「さて、と」

 今日も拓人は合気道の合宿で家を空けているので、家庭教師の仕事は引き続きお休みだ。

 今日はこの屋敷で静かに一日を過ごそうと考えて。

 ふと、浮かんだ欲求をしおりは口にしていた。

「……久しぶりに柊さんの作ったお菓子、食べたいな」

 最近は子猫の件もあって、柊と顔を合わせる時間がここに来た当初より減っていた。そもそも、家庭教師の準備や花図鑑作りなど、しおりは今まで自分のすべきことに時間を費やしてきた。その隙間に柊は接してくれていたが、彼女がどんな一日を過ごしているのか、実はよく知らないことに気付いた。

 今日予定はどうなっているのか、早速聞いてみようとしおりはダイニングルームへ向かった。


「――わたくしの本日の予定、でございますか」

 食卓にしおりの朝食を並べながら、柊は淡々と答え始めた。

「平素と変わり映えしませんが、まず皆様方の朝食の後片付け、洗濯をしつつ空き部屋の清掃。終わり次第、昼食の準備と――」

「ちょ……ちょっと待って柊さん」

 忙しそうという印象はあったが、想像以上の仕事量に慌ててしおりはストップをかける。柊は無表情に小首を傾げた。 

「その、休憩時間とかはないんですか……?」

「勿論ございます。中でもお菓子作りは、趣味と実益を兼ねた良い休憩時間になっております」

 休憩という概念が揺らぎかねない回答ではあったものの、忙しい合間を縫って自分のことを気にかけてくれていたのだと、しおりは申し訳ない気持ちになる。

「……柊さん。もし休憩時間にお菓子作りをされるなら、私も混ざっていいですか? 自分じゃあんまりやったことなくて」

 気持ちを返すとまでは言わない。せめて、彼女がやっていることを一緒にしてみたいとしおりは思った。

 柊は少し呆気にとられた様子だったが、軽く頷いてみせる。

「はい。ちょうど今日は宗一郎様が戻られる日でもありますから、お気に入りのクッキーを作ろうかと」

「え、西園寺さんもお菓子食べるんですか?」

「自室で仕事の合間に召し上がっていただいているようです」

「そ、そうなんですね」

 ちょっと失礼ではあるが、正直意外だとしおりは苦笑した。

「では雪村様、十時頃にキッチンへお越し下さいませ」

 コーヒーを注ぎながら、柊はほんの僅かな笑みを湛えたように――しおりには見えた。


 西園寺家のキッチンには、最新の調理器具と磨き上げられた銀の調理台が並んでいた。

 その空間の中で、柊の動きはまるで精密機械のようだった。

 彼女はまずしおりに真っ白なエプロンを手渡す。そして流れるような所作でバターと砂糖を寸分の狂いもなく計量し、ボウルの中に入れていく。

「雪村様。こちらの材料を白っぽくなるまで混ぜていただけますか。最初に少し実演致します」

「は、はい」

 柊はゴムベラを握り、一切の無駄のない動きでバターと砂糖を混ぜていく。

「数字の一を描くように切り混ぜ、ボウルを少しずつ回転させながら底をすくって均等に混ぜます。では、どうぞ」

 しおりは柊からゴムベラを手に取り、ぎこちない手つきで混ぜ始める。途中、溶いた卵を柊が少量ずつ分けて混ぜていく。二回、三回と卵が加わると生地が抵抗を増し、普段ペンと本しか握らないしおりの腕はすぐに悲鳴を上げた。

「……はぁ……はぁ……こ、これ、結構大変ですね……」

「代わりましょうか?」

「ううん、もう少しだけやらせてください」

 意地になってボウルと格闘するしおりの姿を、柊は静かに見つめていた。

 やがてしおりの額に汗が滲み始めた頃。柊はそっと、しおりの手を制した。

「……ここまでで結構です。あとはわたくしが仕上げを」

 柊がゴムベラを握った瞬間、その動きは一変する。淀みない動きで、ボウルの中の生地はあっという間に均一なクリーム色の塊へと姿を変えていった。

「……すごい……」

 薄力粉を混ぜ合わせてから生地を半分に分けて一方にココアパウダーをまぶし、マーブル台の上に強力粉をふるいながら生地を練っていく柊の姿に、しおりは感嘆の声を漏らす。

「柊さん。さっきの混ぜ方、何かコツとかあるんですか? 全然真似できる気がしなくて……」

 しおりの言葉に、柊は手を止めることなく静かに答えた。

「反復です」

「反復?」

「はい。わたくしはただ、同じことを何度も繰り返してきただけでございます」

 生地を練り終えると、柊は一度手を洗ってからラップを取り出した。

「一つの動きを身体が完全に覚えるまで、ただひたすらに繰り返す。そのうち仕上がりを見て、細かい調節が出来るようになる……お菓子作りに限らず、わたくしが担っているのはそういうものでございます」

「……でもそれって、すごく大変じゃないですか? お菓子作りくらいはもっと気楽にやってもいいんじゃ……」

「大変、と感じたことはございません」

 柊は生地をラップに包み終えると、きっぱりと言い切った。

わたくしが作ったものを皆様が口にして『美味しい』と言って頂ける。それに勝る未来はございませんから」

 そしてどこか過去を懐かしむような遠い目をして、柊はしみじみと呟く。

「その一瞬のためならば、幾千幾万の反復さえも厭いません。それこそがわたくしの、ささやかな喜びなのです」

 言い切ると、柊は生地を一度冷蔵庫へとしまった。

「三十分ほど生地を寝かせます。それから型を抜いて焼き上げましょう……雪村様?」

「え、あ、はい。すみません、ちょっとボーっとしちゃってました」

 しおりは曖昧に笑って誤魔化す。

 柊の芯の強さがただ眩しくて、返す言葉が浮かばないでいた。

「では、雪村様は少し休まれて下さい。わたくしはその間に昼食の仕込みを致します」

――自分なんかより、柊さんの方が余程動いているのに。

 軽い自己嫌悪になりつつも、しおりは手を洗ってエプロンを外す。そして浮かない表情のまま自室へと戻り、手持ち無沙汰な時間を過ごして。

 気付いた頃には、約束の時間を十分ほど過ぎてしまう。

「っ!」

 しおりは慌ててキッチンへと戻っていった。

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