33話 一年草の花
一家三人でこの庭園を共に歩くのは、いつぶりだろうか。
拓人は小さい頃の記憶に思いを馳せる。まだ運動が嫌いで、武道を始める前に一度回ったきりかもしれない。
宗一郎の背中を瑞希と共に追いながら、拓人は父の背中が昔より少し小さくなったように感じた。
いや、そうじゃない。自分が大きくなったのだと彼は気付いた。その間に父は少し白髪が増え、体つきも痩せたように思えた。
小さい頃の父は厳格そのもので、静かな佇まいでありつつも、無言で立っているだけで逆らうことを許さない凄みがあった。
与えられた習い事は絶対で、手を抜くことは許されなかった。必死に食らいついて色々なことを覚えさせられた。何の役に立つのか分からないこともたくさん経験した。
ただ……ある日を境に、父の厳しい視線と言葉が減ったように拓人は感じた。武道であれば柔道、剣道、合気道と一通りを極めるよう言われていたのが、いつしか自分が好んだ合気道だけ続けていても、何も言わなくなった。
出来が悪くて見捨てられたのかもと最初は思ったが、新しい習い事の数が減ることはなかった。
父の考えはよく分からなかったが、彼と背丈を並べるほどに育った今、昔ほどの震え上がるような威圧感は小さくなったと拓人は感じた。ただ、幼い頃から父への反発心を抱いて育ったせいで、今更何を話せばよいのか分からなくなるのも事実だった。
やがて、宗一郎はコバルトブルーのワスレナグサが咲く、大きな花壇の前で歩みを止める。
その花は拓人の図鑑にも載っており、昔から何度も描いているモチーフの一つだった。
「三人でとは、珍しいな」
ワスレナグサの裏で庭作業をしていた花じいが、一家の様子を見ていた。
「今日は、息子に話したいことがあってここに来た」
「ほう」
宗一郎の言葉に、花じいはどこか興味深そうな顔をして目を細める。
「その話、仕事がてら聞かせてもらおうかの」
「構わない。花じいにも関係する話だからな」
どこか謎めいた口ぶりで話す宗一郎に、拓人はどんな話が始まるのだろうと手に汗を握った。
「……この庭園の建設が終わったのは、瑞希と結婚してから数年経った頃だった。その時、瑞希はお腹にお前を宿していた」
この庭園を作ったのは父だったのだと、拓人は驚きに息を詰まらせる。
少し遠い目をしながら話す宗一郎を、瑞希は慈愛の眼差しで見守っていた。
「懐かしいわね、宗一郎さん。私のお腹が大きくなって一人で歩けなくなっても、何度かこの場所に連れてきて下さって」
「ああ、もうかなり昔の話だが、よく覚えている」
そして、宗一郎はワスレナグサが生い茂る花壇に一歩近づいた。
「その頃、この花壇には別の花が咲いていた。花じい、覚えているだろう?」
「忘れるもんか、この家にきて一番大変な一年じゃったわい」
くつくつと、花じいは白髭の下に埋もれた口から笑みを零して、花壇をゆっくりと眺めた。
「――これだけ広い花壇の一面を一年草で埋めろと言われた時、この男は何を言ってるんだと度肝を抜かれたわい。管理のことを考えたら、花壇の大半は多年草や宿根草を植えて、一年草は彩りを添えるために花壇の隙間や角に植えるのが定石だ。一年草は何かと手間がかかるからな」
だが、と花じいは言葉を続ける。
「この家が建った直後から庭師をしとるが……記憶しておる限り、庭師にとって最高の仕事だったのは間違いない」
「あの時は無茶なお願いを引き受けてもらって、感謝している」
「礼には及ばん。雇われの身とはいえ、好きでやっていることだ」
花じいと宗一郎のやり取りを聞きながら、拓人はなぜ父がそのようなお願いをしたのか分からなかった。
宗一郎は拓人の様子を敏感に察知し、再び語り始める。
「確かに合理性はない。実際、その一年草が枯れた後は全て多年草や宿根草に植え替えてもらった。その時も花じいには面倒をかけてしまったな」
「それが庭師の仕事だ。構わん」
「……合理性がないって分かってて、どうして?」
拓人の当然の疑問に、宗一郎は目の前のワスレナグサだけではなく、花壇一面を悠然と見渡した。
「……覚えておきたかったんだ」
「? 何を?」
拓人へと向き直った宗一郎の瞳は。
決して今まで拓人に見せてこなかった、穏やかで温かな光を宿していた。
「お前という新しい命が誕生する。そのことを、一年限りの光景として俺と瑞希の目に焼き付けたかったんだ」
その瞬間。
一陣の風が吹いて、花壇のワスレナグサの隙間を通り抜けていった。陽の光を浴びたコバルトブルーの花びらがわずかに舞い上がり、ゆっくりと空を泳いでいく。
それから宗一郎は、拓人が抱える花図鑑に視線をやった。
「どの一年草を植えるよう花じいに依頼したかは覚えている。お前ならきっと、瑞希との記憶の中にある風景を描き起こすことが出来るだろう」
「……それって……」
拓人は父親の、あまりにも情緒的な一面に衝撃を隠せなかった。合理的の塊でしかなかった父のイメージが拓人の中で揺らぎ――
いつしか忘れていた、遠い記憶を呼び覚ましていた。
――生まれて初めて描いた花の絵を、母の部屋へ見せに行った時のことだった。母はお気に入りの椅子に腰掛けて嬉しそうに絵を眺めていた。だが母だけではなく、その場には偶然ながら父もいて、母の側に立っていた。
そして父は遠目に、自分が描いた絵を見つめていた。
稽古場を抜け出して描いていた絵だ。また叱られると思って怖くなり、父から目を背けた。だから父が微かに呟いた言葉が、ずっと何かの聞き間違いだろうと確信を持てないでいた。
『――いい絵だ』
幼い頃に聞いた、ただ一つの肯定の言葉がはっきりと形を成して。
それが今、目の前に立つ父、西園寺宗一郎という男の言葉だったのだと拓人は理解する。
初めて自分が絵を描いた時から、父は自分の絵を――
「拓人」
宗一郎は拓人から視線を外し、虚空を見つめながら次の言葉を呟いた。
「……いつでも構わない。その絵が完成したら――お前の図鑑の零頁目として加えて、見せてくれないか?」
それは、拓人が知る限り最大限の、父の歩み寄りの言葉だった。
拓人が作った世界を受け入れて。拓人の誕生を象徴する自分達の思い出も、その中に入れてほしい。
宗一郎は、静かにそう願ったのだ。
「……うん」
父親の不器用な願いに、何を話せばいいのか分からなくなる。
――それでも。
「あの子猫、僕が最後まで責任持って飼うから……だから、この家に居させても、いい、かな……」
震える声で、少しでも互いの距離を縮めたいと拓人は願い、
「……ああ」
宗一郎はやはり不器用に……しかし愛情を込めて彼を肯定する。
その様子を見ていた瑞希は二人に背を向け、悟られないように少し肩を震わせた。
「――仕事に戻るかの。長生きはするもんだ」
花じいは静かに別の場所へと去っていった。
その後、宗一郎は直ちに獣医を手配した。
結果、邸宅の一室に獣医を常駐させ、しばらく子猫のケアを任せることとなった。
子猫のケアが終わったと判断された時、再び西園寺家の家族として迎え入れることを。
宗一郎は拓人と約束したのであった。
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