32話 見せたい人

 拓人にとって、花の絵を描くことは父への反発心の象徴だった。

 武道を身につけること。それは確かに身体を鍛えるという目的に対して、非常に合理的だ。

 だが、合理性だけでは人は動かせない。人には得手不得手、向き不向き、好き嫌いといった個性がある。それは、善悪ではなく、ただそうあるというだけなのだから、決して合理性で捻じ曲げるべきものではないと、拓人は考えていた。

「……」

 その反発心の結晶が、この花図鑑だった。

 しかし父は、花図鑑作りを一度も否定しなかった。絵画用のスキャナーや印刷機の購入を頼んだり、もっと言えば、絵を描く道具そのものにお金を投じることを拒むことはなかった。

 そうだ。本当に否定したいのなら、自分が必要とする物品を購入しなければいいだけなのだ。

 合理性を重んずる父が、そんな矛盾めいた行動を取るはずがない。

「……わからない」

 父の部屋の前に立ち、拓人は深呼吸をした。

 いつも、この部屋に入る時は緊張する。父は決して怒鳴ったりしない。ただ静かに、この城のような部屋で自らの哲学と合理性を説く。いっそ感情的に言ってもらったほうがすっきりするぐらいだ。それが拓人には苦痛だった。

「……入ろう」

 分厚い扉をノックをすると、

「入りなさい」

 扉の奥から、凄みのある声が聞こえてくる。

 拓人は、ゆっくりとドアノブを回し部屋に入った。部屋には自分の席に腰掛ける宗一郎と、デスクの前に設置されたソファーに腰掛ける瑞希の姿があった。

「あら、拓人。どうしたの?」

 瑞希は息子がただならぬ顔をしていることを察したが、あくまで平然と問いかけた。

「……」

 そして父――宗一郎は、無言で拓人を見つめる。

 彼が小脇に抱えた花図鑑に視線を集めながら、何も言わず、拓人の言葉を待っていた。

「……今日は、これを見せに来たんだ」

 気圧されるような形で、拓人は小脇に抱えた花図鑑を中央のテーブルに置いた。

「まあ、例の花図鑑ね。やっと見られるのね」

 瑞希は嬉しそうに図鑑へと視線をやった。

「宗一郎さん、一緒に見ますか?」

「……いや、瑞希から見てくれ。俺はその後に読む」

 何かの試練が始まったような気がして、拓人は緊張で身体を固くした。

「はい、では遠慮なく先に読みますね」

 瑞希は軽やかな手つきで図鑑を開き……美しく印刷された花々に、息を飲んだ。

「……素敵ね……」

 愛おしいものに触れるように、ゆっくりと頁をめくっていく。

 一枚一枚を、記憶に刻むようにして彼女は読んでいった。

 そして、最後の頁までたどり着くと、ほう、とため息をつく。

「これだけで、庭の景色の移ろいが目に浮かぶようね……私は素晴らしいと思ったわ、拓人」

「……ありがとう、母さん」

 すると、宗一郎は自席からゆっくり立ち上がると……瑞希の隣に座った。

 そして、何も語ることなく花図鑑の背表紙をめくる。

「一般的なハードカバーの書籍ではないな、ビス止め式か。なぜこれを選んだ?」

「この図鑑は、新しく描いたものを後から足していけるようにしたいと思ったんだ」

「それだと年々分厚くなるし、重みも増すばかりだろう」

「持ち運べないほど重くなったら、新しいのを作るよ。自由に足したり入れ替えられるのが大事だと思ったんだ」

 拓人は自分の花図鑑の構想を話し始めた。

「例えば、頁の並べ方。描いた時間順に並べるのがセオリーかもしれない。でも、思い出深い花だけまとめておくこともできる、敢えてバラバラにして、どの花が次の頁に来るのか分からない状態で楽しむこともできる。読む人が何を大切にするかによって、それに応えられるような形にしたかったんだ」

「……この光沢と発色は、おそらくアート紙だろう。これを選んだ理由は何だ?」

「勿論、発色が良くて綺麗に印刷できることも大きいよ。でも、一番は耐久性かな。普通の紙だとどうしても経年劣化で色褪せる。それが嫌だから、このアート紙を印刷できる印刷機を買ってもらったんだ」

「……」

 それ以上宗一郎は質問することなく、静かに頁をめくり始めた。

 拓人にとって意外だったのは……瑞希以上に、一頁あたりの読む時間が長かったということだった。見開き二頁を一分かけて鑑賞する。それは、花図鑑全体の頁数を考えると永遠のような時間だった。

 宗一郎は、決して図鑑を乱雑に扱ったりはしなかった。一つひとつの花が、いつ、どこで咲いていて、今も咲いているのか、もう枯れて庭からはなくなっているのか……家に戻れる時間が取れない分、それらを振り返っているのかもしれない。

 そもそも、この庭園はいつからあるのだろう。生まれた時から当たり前のように存在していたから、拓人は誰の手で作られたのか聞いたこともなかった。宗一郎の代からなのか、それとももっと前から存在していたのか。父の真剣な面持ちを見つめながら、拓人は様々な想像を浮かべる。

 時計の長針が一周するかという頃。宗一郎は花図鑑の背表紙に辿り着いて、

「……これは、お前が作ったのか?」

 ただ静かに、そう問うた。

「違うよ、僕だけじゃない。雪村先生と、学校の友人と皆で協力して作り上げたんだ」

 拓人はそれから、花図鑑作りをどのように分担したのかを二人に説明して聞かせた。しおりが編集長を担当し、レイアウトの原案担当であったこと、自分は絵を整理しながら簡単な説明を記載していたこと、ビス止めの仕掛けや背表紙制作は学校の工作室を借りて作ったことなどを語った。

「僕一人の力では絶対に完成しなかったよ。みんなに図鑑のことを説明して、一緒に作りたいって力を貸してもらったんだ」

 拓人の言葉を、二人は黙って聞いていた。


――大丈夫だよ。だって、この図鑑を作るのに必要な機械を買ってくれたのは、お父さんなんでしょ?


 背中を押してくれた、大切な言葉を心に思い浮かべながら。

 大きく息を吸って、吐いて。

 それから拓人は、宗一郎の瞳を正面から見据える。

「父さん……父さんが、僕が絵を描くことや、この花図鑑を作っていることをどう思っているのかは分からない。もしかしたら、父さんからは軟弱な趣味だって思われてるのかもしれない」

 反発心の結晶から始まったものを。

「でも、これが僕の嘘偽りない世界なんだ。僕のやりたかったことなんだよ」

 拓人は臆することなく――父に差し出した。

「父さんはどう思ってる? この花図鑑を見て、何を考えたの?」

「……」

 宗一郎はしばらく考えた後、

「瑞希」

 拓人ではなく、横にいる瑞希に話しかけた。

「はい、なんでしょうか」

「……あの時の話を、してもいいんじゃないかと俺は思った。瑞希はどう思う?」

 あの時の話。

 拓人にはピンと来なかったが、瑞希はその言葉だけで彼が何を言いたいか察したようだった。

「素敵だと思います。私もちょうど、この図鑑を読み終えてそのことを思い出したところです」

 瑞希は嬉しそうに微笑んだ。

「……拓人」

 宗一郎は立ち尽くす拓人に視線を上げた。

「この後、時間は取れるか?」

「……うん、大丈夫だけど」

「瑞希も、一緒に来てもらえるか?」

「わかりました」

 宗一郎はソファから立ち上がると、部屋から出る支度を始めた。

「拓人。この花図鑑は、お前が作ったものだ。この後もお前が持っていなさい」

 宗一郎は、拓人の花図鑑についてどう思ったのか、結局何も答えなかった。

 不安のまま、拓人は部屋を出ていく宗一郎の背中を、瑞希と共に追いかける。

 宗一郎が向かった先は、屋敷の外――この家の庭園だった。

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