29話 滞在

 花じいが言った通り、翌日には朝から宗一郎が見知らぬ男と共に屋敷へ姿を現した。

 玄関前には瑞希と柊が静かに控えている。

「瑞希。こちらは病理医の端野はたのさんだ。仕事の関係で暫く家に滞在いただくことになった」

 宗一郎の簡単な紹介に、瑞希は優雅に微笑んでみせる。

「この度はお越しいただき、ありがとうございます」

 端野は宗一郎よりやや年上で、土気色の顔色に痩せこけた頬は見るからに不健康を体現したような男だった。彼は瑞希の微笑みに憂鬱そうな表情を浮かべてみせた。

「俺ははぐれ者でね、人付き合いが大嫌いだ。が、西園寺さんが俺専用の研究室を用意してくれるって聞いて興味が湧いた。で、人を知るには千の言葉より住処を見るのが手っ取り早いから、ここに来た」

 そして端野は吐き捨てた。

「美辞麗句はいらん。ま、途中で通った庭園は悪くない趣味だな。今はそれだけだ」

「……柊、端野さんに客室の案内をしてくれ」

 柊は宗一郎の言葉に頷き、宗一郎と端野を誘導し始める。

 その様子を、しおりと拓人は物陰から伺っていた。

「こういうことってよくあるの?」

「滅多にないよ。この家に来るのは僕の習い事の先生ぐらいだから……もう時間だから学校に行くね」

 拓人は踵を返して自分の部屋に戻っていった。拓人が宗一郎に子猫のことを打ち明けるようには、しおりには見えなかった。

 気がかりなことはもう一つあった。二、三日前まではケージの外に出たがろうとケージをガシガシ揺することが多かった子猫だったのだが。

「…………」

「どうしたの? お腹空いちゃった?」

 昼になっていつものように餌をあげつつしおりは宥めたが、子猫はぷいとそっぽを向いて餌を食べようとしなかった。やはり、ケージの中にずっといることがストレスなのだろうかと、首元をカリカリする子猫の様子を見てしおりは推測した。だが宗一郎や端野の目を考えると、猫対策がほとんどされていないこの部屋や、ましてや外で遊ばせるのは難しい状況だった。

 いい遊び道具はないものか、としおりは思案するものの、先に動いたのは拓人の方だった。拓人は学校の帰りがけに、ケージの中に設置できる爪研ぎポールを購入してきたのだ。

「帰りにホームセンターに寄ってみたんだ。これでちょっとは落ち着くといいんだけど」

 ケージの天井に引っ掛けられるタイプで、ポールから伸びる紐の先にはふわふわの球体がついていた。爪を研ぎつつ球体にタッチして遊べるとあって、子猫も早速夢中になる……はずだった。

「……にゃ」

 子猫は軽くポールに触れるだけで遊びたがろうとしない。しおりは浮かんだ不安を口にした。

「お昼も餌食べなかったんだよね……もしかして病気なのかな?」

「夜まで様子を見て、それでも餌を食べなかったら――柊に病院へ連れていくか相談してみるよ」

 拓人の手でいつも食べさせているドライフードを広げてみたが、子猫は少し鼻を鳴らすだけで興味を失ってしまう。その後は首周りをしばらく爪で掻くことを続けていたが、やがて窓の外を眺めるようにしおり達へ背中を向けた。

「――あ」

 昼に餌をあげるときにも、同じような仕草を見た。そしてしおりは一つ思い当たることがあった。

「先生、どうしたの?」

「ちょっとまだ確信は持てないけど……ちょっと待ってて。すぐ戻るから!」

 しおりは拓人の部屋を出て厨房へと向かった。この時間であれば、目的の人物――柊は夕食の準備に取りかかっているだろうからだ。

 厨房に入ると、柊は給仕服の上にライトブルーのシンプルなエプロンを身につけて調理に取りかかっていた。神業のような速度でネギのみじん切りを仕上げたところで、彼女はしおりの存在に気付く。

「……雪村様。どうかされましたか?」

「ごめんね柊さん、忙しい時に」

 しおりは周りに誰もいないことを確認してから、子猫の様子について伝えた。

「今日のお昼あたりからあの子、ご飯を食べなくなっちゃって。拓人が学校の帰りに買ってきた遊び道具も全然興味なくて……昨日までは元気だったから心配なんです。それで私、あの子が何を欲しがっているのか。思い当たることがあったんです」

 そして、しおりは柊の藍色の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「柊さん――最初に外して預かっていただいたあの子のネームプレートを、一度戻していただけませんか?」

「……それは」

「あのネームプレートには、かつて暮らしていた家や人の匂いがまだ残っていると思います。足元に置いておくだけでいいんです。そういった物が一つ側にあるだけでも、今のあの子にとっては安らぎになるんじゃないかって……そう思うんです」

 柊は腕を組み、指先で額を軽く押さえる。それから「少々お待ちくださいませ」としおりに告げると、火にかけていた大きな鍋の具合を確認した後にコンロの火を止めた。そして手を洗って、後ろ手にエプロンの紐を解くと早足でどこかへと去っていく。

 ――しばらくして柊がしおりの元に戻ってくると、裾から白い布に包まれた物を取り出した。

「お預かりしていたものでございます。では、わたくしは調理に戻ります」

 預かりものをぽんとしおりの手に載せると、柊は再び手を洗ってエプロンをつけ直し始める。その様子を見ながらしおりは頭を下げ、拓人の部屋へと駆け足で戻った。

「お待たせ、拓人」

 戻ってきたしおりが手にしていたものを見て、拓人は怪訝そうな顔をする。

「……その布は何?」

「これ。覚えてるでしょ」

 サッとしおりが布を解くと、最初に子猫が迷い込んだ日に外した首輪型のネームプレートが現れた。

「っ、なんで? それはもう要らないはずだよね?」

 不快感を顕にする拓人に、しおりは柊に話したことと同じ仮説を話した。

「これを着けるんじゃなくて、ただ近くに置いておくだけだから」

 ケージのすぐ外にしおりはネームプレートを置いた。最初は気だるそうにしていた子猫だったが……しばらくすると、目をぱちりと開けてケージの外へとゆっくり出ようとする。

「にゃ」

 そして近くにネームプレートが置かれていることに気づくと、前脚でコロコロと転がし始めた。時折匂いを嗅いだり、鼻を押し付けてみたりして遊び続ける。

 まるで玩具のようにじゃれて満足したのか――子猫はそっぽを向いていた水と餌置き場まで走り、勢いよく食べ始めた。

「よかった……!」

 胸を撫で下ろすしおりだったが、拓人はやるせなさそうな顔をしていた。

「……もちろん嬉しい。でも、僕たちが良かれと思ってこのネームプレートを外したのは……間違ってたのかな。この子の拠り所を奪ってただけで――」

「でも気付けたわけだし、今回はそれで良しにしよ」

 しおりは拓人の言葉を遮って穏やかな笑顔を浮かべた。

「初めから完璧になんてできない。私たちだって、最初の頃はお互いのことよく知らないで家庭教師と生徒をしてたじゃない?」

「そう、なのかな」

 そうだよ、としおりはネームプレートを包んでいた白い布を畳み始める。

「これ、柊さんに貰ったから返してくるね」

 ガチャリと、しおりは拓人の部屋の扉を開けた――その瞬間だった。

「にゃあ!」

 食事に夢中になっていたはずの子猫は、するりと一瞬の隙をついて拓人の脇をすり抜けていく。

「っ!」

 拓人は咄嗟に手を伸ばしたが、子猫の背中にわずかに触れるだけで捕まえることはできない。

「えっ、ちょ」

 子猫はそのまま後ろに背を向けていたしおりへと突進し――足元を見事に抜き去り部屋の外に飛び出していた。

 それからくるりと頭を向け、尻尾をフリフリと振ってみせる。捕まえてごらん、とまるで遊びに誘うかのように。

「待って!」

 焦った拓人が子猫に向けて飛び出し、それに合わせて子猫が逃げていく。

 あっという間の逃走劇の始まりに、しおりも慌てて共に子猫を追いかけ始めた。

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