30話 衝突

 楽しげに走り回る子猫は軽い足取りで屋敷の階段を登っていく。

「お願い、止まって!」

 子猫が登っていく方向にしおりも見覚えがあった。端野が屋敷にやって来た日、柊が宗一郎と共に案内した時もこの階段を登って行ったのだ。つまりこの階段の先にあるのは――

 最早なりふり構わず、拓人は階段の踊り場まで駆け上がり子猫を捕まえようとするができない。子猫の動きは素早く、先ほどまでお腹を空かせて餌を食べていたとは思えない俊敏さだった。

 二階の廊下は一階の温かさとは全く違う静謐な空気に包まれていた。壁は重厚なマホガニーの板で覆われ、床には深い緋色の絨毯が敷き詰められている。廊下の一番奥には重厚な両開きの扉が鎮座しており、その中央には真鍮製の百合の紋章が象られている。

 そこに在るだけで部屋の主の威圧感と存在感を体現したような大扉が――内側から開かれた。

「騒々しい、何の騒ぎだ」

 顔を覗かせたのは西園寺宗一郎であり、拓人は子猫をようやく捕まえて胸元に抱き締めたところだった。

 ――宗一郎の目の前でという、最悪のタイミングで。

「……なんだ、その猫は」

 どこまでも冷え冷えとした声に、拓人だけでなくしおりの身体にも緊張が走る。追いかけっこで遊んで満足したのか、子猫だけは無邪気に尻尾を振って喜んでいた。

「……」

 拓人は答えられなかった。

 たまたま迷い込んで捕まえたという方便も使えない。それが答えだった。

「私に黙ってこの猫の面倒を見ていたな? 動物を飼うなと固く注意してあった筈だ。忘れたとは言わせない」

 軽く嘆息すると、宗一郎はしおりへと鋭い視線を向けた。

「大方、柊も把握しているのだろう? 雪村さん、悪いがここに連れてきてくれ」

 悪いと言いつつ全く悪びれた様子のない宗一郎の言葉に、しおりはただ頷くしかなかった。


 子猫をいったん拓人の部屋のケージに戻して待機させた後。

 しおりは拓人、柊と共に宗一郎の部屋に集まっていた。部屋に入ってしおりがまず感じたのは、あの書庫と同じ紙と革の匂いだった。

 三方の壁は大きな窓と、別室に繋がる扉以外は床から天井まで届く巨大な本棚で埋まっていた。そこに並べられているのは文学や芸術の本ではない。経営学、法学、そして最先端の生命科学に関する洋書や専門書。その背表紙がずらりと並ぶ光景は壮観であり、見る者を畏縮させた。

 部屋の中央には英国調のアンティークを思わせる重厚なデスクが鎮座し、宗一郎はチェアに深く腰掛けている。デスクの上には一台のラップトップといくつかの書籍が並べられていた。

「……」

 宗一郎は自席に座ったままゆっくりと一人ずつ目を合わせる。その様子に、しおりは背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 拓人は俯いており、柊も心なしか顔を強張らせている。

「柊」

 宗一郎が最初に呼びかけたのは、柊だった。

「……はい、宗一郎様」

「拓人が猫の面倒を見ていることは知っていたはずだ。それを黙認したのはなぜだ?」

「……あの猫は捨て猫でした。そして拓人様に早くから懐いておりました。そこで里親を探すまでの間、面倒を見ることにしてはどうかと提案致しました」

「柊、それは違うよ。僕が里親を探すって我儘を言って柊を困らせたんだ。柊は何も――」

「拓人。今は柊に話を聞いている」

 柊を庇おうとした拓人に宗一郎が凄みを利かせると、たちまち口を噤んだ。

「成程、ただ迷い込んだだけの野良であれば敷地の外に出せば良かった。だがそうではなかった。拓人の言い分も叶えるために里親という曖昧な期限をぶら下げたわけか。確かに一時的に保護しているだけで飼っているわけではない。私が決めたルールを破っているわけではないと……ふ、柊らしいな」

 宗一郎はこめかみを軽く押さえた後、柊を一瞥した。

「柊、あの子猫をどうするかは後で追って伝える。今回だけは不問にする。仕事に戻れ」

「……承知致しました」

 柊は深く頭を下げると、そのまま静かに退室していった。

 宗一郎は次に、しおりへ問いかける。

「雪村さんはこの事をどこまで知っていた?」

 宗一郎の目を見て誤魔化しや隠し事は出来ないと感じ、しおりはありのままを伝えた。

「私は、柊さんの助言に従って里親を探していました。正直、信頼できそうな里親が見つからずに難航していますが……」

「……そうか」

 最後に、宗一郎は拓人へ向き直った。

「拓人。今更隠していたことを問い正すつもりはない。お前はあの子をどうしたいんだ。分かっているはずだ……里親が見つからない限り、お前はずっとあの猫の面倒に皆を巻き込み続けることになる。それは飼うことと何が違うんだ」

 宗一郎の問いに、拓人は答えを返すことが出来なかった。それは、薄々しおりも気付いていることだった。気付いていたが、拓人に突きつけまいと言葉にしていなかったことだ。

「……そもそも父さんは、どうして家で動物を飼うことを禁止してるの? 母さんに聞いても理由を知らないみたいだったんだ」

 拓人は質問の答えの代わりに、最大の疑問を投げかける。

 渋面を浮かべ、宗一郎は呪詛を唱えるかのような低い声で呟いた。

「動物をペットとして飼うという行為そのものが個人的に嫌いだからだ。ペットという関係がなければ、人は動物に対する信頼や愛情という関係を証明できない。この家に持ち込むような関係性ではない……それが、この家で動物を飼うことを禁じている理由だ」

「でも、あの子は捨て猫なんだよ。今更ペット以外の生き方なんてできない。もう、誰かに飼われないと生きていけないんだよ」

「なら尚更、専門的な知識を有する者に面倒を見てもらうべきだろう。里親探しは施設に引き渡して継続してもらえばいい。お前がわざわざ背負う必要はないはずだ」

 その言葉に、拓人の我慢が爆発した。

「あの子がどういう理由で捨てられたのかは分からないよ。今も元の飼い主のところに帰りたいのかもしれない。それでもここまでやってきて、生き延びようとしたんだ! 僕はあの子を見捨てたくない。里親が見つからなかったら僕が責任もって育てるよ! だから――」

「一時の感傷に絆されて、責任という言葉を軽々しく使うな。その言葉の意味をお前は理解しているのか。猫の一生を背負い、自分がどんな困難に陥っても猫のために自身を全うする覚悟が、お前にはあるのか」

「……っ!」

 宗一郎は決して声を張り上げたりはしない。研ぎ澄まされた刃の如き自身の論理を、ただ冷静に拓人へ突きつけた。

「その覚悟がないなら、大人しく施設に引き渡してこの件は忘れろ。以上だ」

 その壁は拓人にとってあまりにも分厚く、突き崩すことができなかった。


 しおりと拓人が退室した後、宗一郎の部屋に繋がる客間から端野が入ってきた。

「隣が何やら物々しいと思ったら、面白そうな話をしていたな」

「……交渉の途中で家の見苦しい部分を見せてしまい、申し訳ありません」

 宗一郎の言葉に、端野は面白可笑しく笑ってみせた。

「なあに。これこそ住処の醍醐味だ。嘘偽りのない人の本質がそこには出る。息子に冷徹な論理を容赦なくぶつけるアンタという男がどういう人間か、よーく分かったよ」

 ニヤリと、端野は血色の悪そうな唇を精一杯歪めた。

「気に入った、アンタに雇われるよ。世の中の煩わしいモンを一切俺に求めてないってよく分かった。俺がプレパラートの上で知りたいモンと同じモンをアンタは見てる。ぜひ俺の力を製薬の将来に役立ててくれ」

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