第9話 「大いなるすべて」に感謝して
これはある意味、宗教的な観念かもしれませんが、これがぼくの根っこにあるものなのでお話します。
「大いなるすべて」はネイティブ・アメリカンの言葉です。日本風に言えば「万物に魂が宿る」的なニュアンスでしょうか。
一般的な宗教と違う点は、人間が考えたり想像した神ではないということです。
現代の宗教で伝えられる神は、すべて人間の想像した人工物であると、ぼくは考えています。
その理由として、幼いころからの疑問があります。それは、天地創造をして、万物を生みだすような能力のある存在が、自分が生み出した人間に天罰を与えるということ、それが理解できませんでした。万物を生みだすような力があるなら、いらない人間を削除すればいいだけですし、そもそも完全な存在であるものが、失敗するような人間を創造しているのも考えにくかったんです。
また、天国や地獄という概念、戦争や論争、怒りや恨みなど、神が完全な存在であるならば必要のないものばかりです。しかし、現実的にはこの世に存在しています。
そういったことから、現代の宗教で神と呼ばれるものは本質的な神ではなく、部分だけを抜き取って、時代の権力者などが想像したもの=人工物、ということではないかと、ぼくは考えています。
現代の大きな宗教の多くは、古代文明のある地域での発祥が多いですし、そういったところは人が多く集まる場所です。人が集まれば統べる人が出てきます。統べているうちにエゴに取り込まれて、欲のままに動き出せば、独裁的権力者の完成です。
対して「大いなるすべて」は、呼び名は変わりますが、たくさんのネイティブに伝わっています。日本でもアイヌ民族には「カムイ」と呼ばれる存在がありますが、「万物に魂が宿る」という考えかたでは一致しています。
万物に宿っているのは魂ですが、ぼくはこれが神の本質だと考えています。
万物ですから、特定の崇拝や信仰を強制されることはありませんし、できません。
また、個人の人生に干渉することはありませんから、天罰も天国も地獄もありません。そもそも、何かを人に強制することはありません。
人は信仰したい生き物です。心の支えがあると安心できるのでしょう。ぼくも若いころはそうでしたが、神仏などは一切信仰せず、太陽や風を信仰していました。
そして祈りではなく、感謝を伝えてきました。これは今もそうです。漠然と感謝することもあれば、何か幸せなこと、うれしいことがあるたびに感謝するようにしています。
「大いなるすべて」に感謝して生きる。それは自然であり、環境であり、「今・ここ」に存在する自分にも向けられています。
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