春を迎えない青

ツキシタコウ

scene.1

 白い部屋に白い家具の輪郭が浮かぶ。

 ごちゃごちゃとしていない、情報量の少ない整然とした部屋はおれの心を落ち着かせるが、他人にとってはそうではないようだ。


 先生の家って病院みたいで落ち着かないんですよねと、うちに来る度に編集者は言った。


「いいじゃないですか。ホワイトインテリアのコーディネート」

「いや、先生の場合は常軌を逸しているんですよ。テレビもないし、そもそも物自体があまりない。整いすぎです。先生の家にお邪魔すると、白以外の存在を許さないって強迫観念にかられます。この場合、強迫観念にかられているのは先生の方ですかね」

「おれは、いたって平常です。さかきさんをそういう気持ちにさせているなんて胸が痛みます。わざわざ、うちに来なければ、そんな思いはしないで済みますよ」

「新しいタイプの脅迫の仕方やめてくださいよ。先生はすぐ連絡つかなくなるから、外で打ち合わせするにしても、わざわざ迎えに行って引っ張り出さないといけないですし。こっちはいつも大変なんですよ、本当に」


 そう言って、榊さんはわざとらしくため息をついて、コーヒーカップを口元へ運んだ。


 心底困ってますという表情を浮かべているが、それはただのポーズだとすぐにわかる。いつもどこか余裕を感じさせる態度で、軽薄そうな話し方をするが落ち着いている。掴みどころのない食えない男だ。


「そういえば朝比あさひ先生」

「なんですか榊編集」

「さっき、後ろ姿を見て思ったんですが、背中、少し大きくなりました? 身体鍛えましたね」

「わかりますか」


 気分が高揚したので、両腕を上げ下げする仕草をして見せる。最近、個室のジムに通うようになり、密かにトレーニングをつづけていた。他人の目から見ても成果が出てきているようだ。


「でね、朝比先生の次回作なんですが――」

「次回作はありません」

 先ほどの高揚感が一気にスンと沈んだ。

「間髪を入れずに言いますね。人の会話を遮るのはよくないですよ先生。学校で教わりませんでしたか」

「すみませんね。義務教育は受けましたが育ちが悪いものでして。どれだけ煽っても次回作は出しません。おれは、もう、筆を折ったんです」


 物語は書き切った。出版されて世に送り出され、映画化もされ、ついでに社会現象も巻き起こした。

 おれの役目はもう終わった。


「ええ、朝比先生が筆を折ったのは知ってます。『おれは筆を折る!』だなんて電話口で言うから駆けつけたときにはもう……遅かった。家にあるペンやら鉛筆やらをバッキバキに折り散らかしていましたよね。見ましたもん、惨状を。目が点になりましたよ。まさか物理的に筆を折るなんて」

「そうするしかなかったんです。そうでもしないと落ち着かなかった。物理的にペンを折ったのは覚悟の表れなんですよ。おれの気持ちを受け取ってください」

「お断りします。着払いで返送しますよ」

「そこはせめて元払いでしょう」


 この男と話していると調子が狂う。

 いまだに学生でもぎりぎり通用しそうな外見をしているが、年齢はおれより四歳ほど上のはずだ。

 この独特なテンポと言い回しで、いつも気付いたときには口車に乗せらてしまっているが、今回ばかりはそうはいかない。こちらも引くことはできない。


 四角いテーブルを挟んで対峙している相手は強敵だ。


「榊さんには本当にお世話になりました。用意してくれた資料や、集めてくれた情報や意見が大変役に立ちました。物理学のこととか、二人で思考実験を繰り返したりとか。本当に助かりましたよ」

「その手の分野に詳しい知人がいたのでラッキーでした」


 出版業界は高学歴が多いと聞く。その知人というのも、大学や大学院の研究室の伝手だろう。

 取材が苦手な自分の代わりに榊さんが色々と動いてくれたが、用意してもらった資料だけで十分すぎるほどだった。


「それにしても」と榊さんがつづける。

「突然タイムリープしてしまった人間の心理描写が特に素晴らしいです」

「ありがとうございます」

「臨場感があります。一回目のタイムリープ、あれで一気に読者は没入したと思います。その後、同じ時間を何度も繰り返す苦悩や葛藤も、心情描写が秀逸です」

「どうも、ありがとうございます」

「あまりにも描写がリアルすぎてね、私、ふと思っちゃったんですよ」


 眉間にしわを寄せ、今までに見たことのない怖い顔をして彼は言い放った。


「先生はもしかして、実際にタイムリープの経験がおありなんでしょうか?」

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