第二話「明石の影にて」
1941年12月27日、南方戦線――ミンダナオ島・ダバオ港。
濃い雨雲が低く垂れこめる早朝、雪風は港内の最奥へと曳航されていた。
ラモン湾で受けた被弾は、幸いにも致命傷ではなかったが、魚雷管の一部と左舷タンク付近の隔壁に歪みが残っていた。
戦線の最前線でその修理を任されたのは、日本海軍が誇る最新鋭の工作艦――**「明石」**だった。
**
「……こいつが、噂の“浮かぶ造船所”か……」
艦橋から身を乗り出すようにして、涼介――中身は田中宏――は隣に並ぶ巨大艦を見上げた。
白い塗装に黒い汚れが交じり、艦上クレーンがうねるように動いている。
鋼の怪物。艦というより工場そのものだった。
「伊豆少尉、左舷固定、補助スラスター切れ。機関、停止」
「了解、左舷錨作動確認。機関、全停止」
自然に出る軍用語。
自分の声で、自分じゃない言葉を話しているような感覚に、彼はもう驚かなくなっていた。
**
修理は迅速だった。
「明石」の工作兵たちは、雪風の魚雷発射管をクレーンで取り外し、内部まで分解して破片を取り除き、補強を施していく。
その間、涼介は艦に残り、指揮系統の一角を担っていた。
(すげえな、あの連中……まさに戦場のドックじゃないか)
彼は「明石」に対して、畏敬にも似た感情を覚えた。
彼が過去に横須賀で見た護衛艦の整備風景とは違う。
ここには、“死ぬか、動くか”しかない極限の技術者たちの姿があった。
**
夜、艦の士官室。
薄暗い電灯の下で、涼介は艦長・飛田健二郎中佐と静かに湯呑みを傾けていた。
「……伊豆。貴様、ここのところ妙に冴えているな」
「……はあ、恐縮です」
(やばい、バレたか? いや、でも“冴えている”って……)
「最初の頃は硬かったが、今は舵を読む目がある。艦の呼吸とでも言うか」
飛田は、手元の湯呑みを揺らしながら言った。
「艦というのはな、言葉は話さないが、常に“訴えて”いる。機関の唸り、波の返り、鉄板の響き……それに耳を傾けられる者は、そう多くない」
その言葉に、宏の中の“自衛官としての敗北感”が疼いた。
(俺は結局、自衛隊じゃ認められなかった。ただの五年満了で、地上勤務に回されて、昇任試験にも落ちて、逃げるように辞めた……)
だが今、自分の操艦が戦場で役に立ち、人命を救ったのは確かだった。
彼は小さくうなずいた。
「ありがとうございます、艦長。……雪風が、教えてくれているような気がします」
「……ふむ」
飛田中佐は、それ以上何も言わなかった。
だがその眼差しは、明らかに彼をひとりの“士官”として見ていた。
**
その夜――。
涼介は士官寝室の脇にある書棚から、手紙を一通取り出した。
破れかけた封筒には、「神奈川県大和市・綾子」の名前。
> 「涼ちゃん、こないだ町に来た陸軍さんが“お前の婚約者は戦地に行ったのか”って訊いてきて、ちょっと照れちゃいました。
お正月にお雑煮作る予定だけど、食べられないと思うと、少し寂しいです。
でも、無事でいてください。綾子」
(……帰れるのか、俺。いや、“伊豆涼介”は、帰れるのか……)
外では「明石」のクレーンが、雪風の魚雷管を再装填している音が響いていた。
修理はもうすぐ終わる。
戦線復帰の日も近い。
涼介――田中宏は、静かに窓の外を見つめた。
ダバオの空は暗かったが、遠くにひときわ輝く星が、一つだけあった。
**
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます