第一話「雪風、炎に包まれて」
1941年12月24日――
フィリピン・ラモン湾。曇天の下、海面にはかすかな油膜が揺れていた。
駆逐艦「雪風」は、上陸部隊の支援にあたっていた。
空母「龍驤」の航空隊が南方上空を制圧し、神通型軽巡を中心とした艦隊が海岸砲の制圧を行う中、雪風はその最前線にいた。
艦橋で、伊豆涼介少尉――中身は田中宏――は、操舵輪を握りしめていた。
「左前方、敵機ッ! 距離一千、P-40と思われます!」
見張員の叫びに続いて、艦橋上空を銀色の機体が低空で駆け抜けた。
機銃掃射。甲板に火花。
直後、**ドン!**と腹の底に響く衝撃。
「左舷後方、被弾! 重油タンクから火災!」
「落ち着け! 魚雷管にも命中したが、爆発はしていない!」
艦内電話から報告が怒号のように飛び交う。
飛田健二郎艦長の怒声がそれを制し、各部署は即座に消火活動に移った。
涼介――いや、宏はその場で歯を食いしばっていた。
(やばい、やばい、やばい……)
身体は勝手に操舵をこなしている。
魚雷を避け、被弾部位を艦の死角に隠すよう、最小限の回頭でかわす――
だが、心は完全に追いついていなかった。
(これ、マジで戦争じゃん……。いや、冗談とか映画じゃない、戦争だよ、これ……)
記憶は確かだ。
自分は横浜でタクシー運転手をしていた。
中華街の裏手でうとうとした瞬間、突然この「戦時下の艦橋」にいた。
目の前には日本海軍の制服。艦橋にはカタカナが刻まれた計器類。
自分の手は汚れていて、指には細かなタコ――これは操艦を続けていた証拠だ。
(これは夢じゃない……たぶん、転生なんだろうな)
彼は自衛官時代に何度も“戦争ごっこ”をやった。
陸自の即応予備自衛官として、迫撃砲の訓練も受けた。
サバゲーも月に2度は通い詰めた。
でも、これは“遊び”ではなかった。
「……伊豆少尉、動きがいいな。さすがだ」
艦長の飛田中佐が一言、彼に声をかけた。
(……さすが、って。いやいや俺、中身は元自衛官の落ちこぼれなんだって……)
だが、その評価に救われた自分がいた。
誰かに必要とされている感覚。
自衛隊では得られなかった承認。
(だったら……ここで俺が、この船を守る。雪風の操舵手として)
彼は気を取り直して、叫んだ。
「左回頭5度、機関中速! 火点、艦尾左舷、回避!」
反射的に放ったその指示は、正しかった。
次弾の機銃掃射は、空を裂くだけに終わった。
艦内に一瞬、安堵の息が漏れた。
その刹那、雪風は反撃の機会を捉え、25mm機銃が敵機をかすめた。
「命中確認! 一番機、煙を引いて離脱!」
歓声が上がる。
雪風は、撃たれただけではない。戦っている。
彼は舵に力を込めた。
(俺がこの舵を握る限り――雪風は、沈まない)
その瞬間、彼の中で何かが変わった。
タクシー運転手・田中宏としての人生と、
海軍少尉・伊豆涼介としての使命が、一つに溶け合っていく感覚。
**
作戦終了後、雪風は小さな火災と6名の軽傷者を出しながらも、無事帰投した。
その夜、艦内士官室で、涼介は鏡を見つめた。
そこには、自分と似て非なる若い軍人の顔があった。
そして――棚の引き出しには、婚約者からの手紙。
> 「涼ちゃん、クリスマスにケーキはありませんが、畑で採れた大根と白菜で漬物を作りました。元気でいてください――綾子より」
(……神奈川の大和市、か……)
記憶が交錯する。
今の自分が帰るべき“現代”と、ここにある“戦時の人生”。
そして彼は、覚悟を決めた。
(今はまだ、戻れない。なら――最後までやりきってやる)
風が吹いた。
雪風の艦橋に、南方の海の香りが流れ込んだ。
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