黄昏の英雄

葉月 初

黄昏の英雄

12月の黄昏時。

街は柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。

冷たい風が頬を撫で、すべてが静かに沈み込んでいくようなその時間帯に、私はかつて国を救った英雄の元へ向かっていた。

私は新人記者のジョンだ。

幼い頃から、俺は英雄ことレイン・ハワードに憧れていた。戦場での武勇伝、政治改革の手腕、そして何より、人々を思いやるその姿勢に心を動かされていた。今日の取材は緊張で手が震えたが、彼の本当の姿に触れられる貴重な機会だと信じていた。

彼の家は質素で、その簡素さは彼の質実剛健な性格を象徴しているかのようだった。

玄関の扉を開けると、レイン様は穏やかな笑みで俺を迎え入れた。

「寒かったろ、ジョン。気楽に座ってくれ」

男らしい低い声で、しかしどこか優しさが滲んでいる。

取材は始まり、彼の過去の栄光や功績が淡々と語られていった。

その声は静かで重みがあり、しかしどこか遠い世界のことのようでもあった。

だが、帰り際に彼がふと立ち止まり、小さな写真立てに視線を落とした。

そこには、20代前半くらいの美しい女性が微笑んでいた。

俺は思わず尋ねた。

「美しい方ですね。どなたですか?」

レイン様は目を伏せ、寂しげな笑みを浮かべて答えた。

「俺の恋人だ。50年も前に亡くなったんだ」

しばしの沈黙。俺は申し訳なさそうに身を引こうとしたが、彼がぽつりと口を開いた。

「俺の惚気話を聞いてくれないか?」

その言葉に、俺は心の中で驚いたが、同時に彼の一面を垣間見た気がした。

あの頃の自分は、ただ目の前の課題をこなすことで精一杯だった。孤児としての未来への不安や、英雄になれるのかという疑念が心の中で渦巻いていた。そんな時、ふと目にしたのが、あの古びた礼拝堂だった。

月明かりに照らされたステンドグラスが、床に淡い紫色の紋様を描いていた。石壁からは松脂と古い聖水の匂いが混ざり合い、静寂を切り裂くように遠くで鐘の音が響いていた。その瞬間、足を止めたのは、何かに導かれるような気がしたからだろうか。

礼拝堂の中央には、本を抱えた少女が立っていた。長い髪が月光に照らされ、淡い銀色の光を帯びていた。彼女の瞳は落ち着いており、その奥には優しさと驚きがほんのり宿っていた。

「こんばんは。こんな時間に、何か探し物?」

彼女の声は柔らかく、どこか懐かしさを感じさせた。私は咄嗟に答えた。

「いや、ちょっと頭がまとまらなくてな。気分転換に、歩いてただけだ」

彼女はゆっくりと頷き、優しく微笑んだ。その微笑みが、どこか安心感を与えてくれた。

「そういう時、静かな場所って大切よね。礼拝堂は…ええと、導きの精霊に祈る場所でもあるし」

その言葉に、礼拝堂の石碑を照らすかすかな紋様が、微かに淡い光を帯びるのが見えた。私は驚きと共にそのルーン文字を見つめた。

「ルーン文字…?」

「ええ、『希望を照らす精霊』の祈りのね」

彼女は本の角を指で軽くなぞり、優しく教えてくれた。その瞬間、胸に熱いものがこみ上げてきた。ただ静かに頷くだけだったが、その沈黙が二人の距離をすっと縮めたように感じた。

やがて、礼拝堂のドアの外へ歩み出す私に、彼女がそっと囁いた。

「…またここで会いそうな気がするわ」

その言葉が、どこか心に残っていた。そして、数日後の魔法実技の授業で、俺はまさかの再会を果たすことになる。

温室のドアを開けると、湿った土と草の香りが息を飲む。中には名門貴族の令嬢らしい気品を漂わせつつも、どこか緊張に揺れるアリスの姿があった。俺はそっと手を上げた。

「アリス、また会ったな。今日はよろしく頼む」

彼女はノートを閉じ、驚いたように目を見開き、やがて爽やかな笑みを浮かべた。声には透明感があり、真摯な気持ちが滲んでいた。

「ええ、よろしくお願いします。…ちょっと緊張してるけど」

その言葉に、俺は頷きながらも内心、胸が高鳴っていた。二人で並んで進む温室では、ぽんと心が通い合うような静かな安心感があった。

授業が始まり、アリスがノートを握りしめながら囁いた。

「根元から咲く“月光シダ”は、光を蓄えている…そこを狙いましょう」

俺は杖を構え、ひそやかにマナを流す。その刹那…「ヒュンッ!」と、風とも違う気配が通り抜けた。月光シダが意思を持つように葉を揺らす。

「今、動いた…?」彼女の声が震える。

瞬間、胞子の球が勢いよく飛び出す。アリスが後ずさり、俺は咄嗟に飛び込んだ。杖の柄が胞子を跳ね返し、泥と湿気が宙を舞う。ツルは鈍く崩れ落ちた。

アリスが震える声で呟いた。

「レイン…!」

俺は荒れた呼吸を鎮めながらそっと問いかけた。

「大丈夫か?」

彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。胸に小さな安心が灯る。

その後、緊張の中で教室に戻り、先生が並べられた素材を慎重に見ていく。「おお、見事だ…」と呟き、続けた。

「他のグループも頑張っていたが、素材をすべて完璧な状態で揃えたのは君たちペアだけだよ」

教室にはどよめきが走り、全員が俺たちを見つめる。先生はさらに言った。

「特に、危険な事態にも冷静に対応した判断力と行動力──見事だった。私も長く教師をしているがここまで出来た学生は見たことがないよ、君たちなら、宮廷魔術師にもなれるかもしれないな」

二人は自然と顔を見合わせ、小さく頷いた。アリスの頬は紅潮し、俺の胸には小さな誇りが生まれた。

英雄になるという夢が、確かにこの瞬間から、現実に一歩近づいた。

そこにはただの成果ではなく、お互いを信じたからこそ掴んだ、連帯があったのだろう。

その日の授業を終えたオレたちは、静かな礼拝堂に足を運んだ。冷たい石の床に座り、窓から差し込む夕日の光が、二人の影を長く伸ばしている。

アリスがふと口を開いた。

「レイン、あなたの夢って、どんなもの?」

オレは少しためらいながらも答えた。

「俺の夢は…英雄になることだ。貧しい者でも機会を掴める国を作るために、戦いたいんだ。」

アリスはしばらく黙って彼の顔を見つめていたが、やがて優しく微笑んだ。

「素敵な夢ね。」

その言葉に、オレの胸は温かくなった。普通なら、そんな夢は笑われるものだと思っていた。でも、アリスは決して笑わなかった。逆に、オレの夢を素晴らしいものだと認めてくれた。

あの瞬間、確信した。アリスと共に歩む未来が、夢を現実に変える鍵となることを。

「レイン、私もあなたと同じ気持ちよ。あなたの夢を、私も共に歩みたい」

その言葉に、俺の胸は熱くなった。彼女の覚悟と深い愛が、確かに伝わってきた。

俺は彼女の手をしっかりと握り返し、力強く誓った。

「アリス、君と共に、どんな困難も乗り越えてみせる。君のためにも、俺の夢を叶えてみせる」

その言葉が、二人の未来を照らす灯火となった。

礼拝堂での出会いから始まり、試練と偏見を乗り越えて、互いに惹かれ合った俺たちはいつのまにか恋人同士になっていた。だけど、世間も彼女の家族も、そんな俺たちを許すほど優しくはなかった。

魔法学校の広い中庭で、オレとアリスは並んで歩いていた。陽光が木々の間から差し込み、柔らかな光が二人を包み込んでいた。アリスの笑顔が眩しく、オレもつられて微笑んでいた。周囲の喧騒も、二人の間に流れる穏やかな空気の中では遠く感じられた。

しかし、そんな幸せな一時も束の間だった。遠くから、貴族の子女たちの視線が二人に注がれているのに気づいた。その中には、アリスの幼馴染であるエリザベスや、名家の令嬢であるセシリアも含まれていた。彼女たちの顔には、明らかな不快感と軽蔑の色が浮かんでいた。

「あの二人、何をしているのかしら? まさか、あの孤児とアリスが一緒にいるなんて…」

「本当に、名家の令嬢として恥ずかしくないのかしら?」

「あんな男と親しくするなんて、アリスも堕落したものね」

彼女たちの囁きが、風に乗ってオレたちの耳に届く。オレはその言葉に胸を痛め、顔を伏せた。アリスはそんな彼を気遣い、そっと手を握った。

「気にしないで、レイン。彼女たちの言葉は、私たちの関係を理解していないからこそのものよ」

アリスの優しい言葉に、オレは少しだけ心が軽くなった。それでも、貴族社会の厳しい壁が重くのしかかっていた。オレはアリスに対して深い愛情を抱いているが、それが彼女を傷つけることになるのではないかと恐れていた。

ある日、オレはアリスの父親に呼び出された。執事に案内され、厚い扉を開け部屋に入ると、中は静まり返り、重厚な木製の机を挟んで侯爵が腰を下ろしていた。オリーブ色の瞳はアリスに似て柔らかいが、その奥には頑なさが漂っていた。

侯爵は静かに口を開いた。

「突然呼び出して申し訳ない、君がハワード君だね、私はアリスの父親のヒースだ。少し話がある。座ってくれ」

「突然だが、娘は、君を愛していると言っている。あの子が本気なのも分かっている。だが、だからこそ認められないんだ」

侯爵は視線を下げ、足元の絨毯の縁をゆっくりとなぞる。その所作には、慈父としての哀しさと、貴族の責任感がにじんでいた。

「彼女は貴族の血を引いている。責任と名誉を背負って生きる宿命にある。ただの学生同士の恋愛ではない、身分の違う君との交際を、認めるわけにはいかない。娘とは別れてほしい」

侯爵の言葉が終わると、オレは息を呑んだ。背後では執事や侍臣たちの低い囁きが聞こえ、胸に重くのしかかる。言葉に詰まり、その場で何も返せなかった。

オレは侯爵邸を出た後アリスに会いに行った。そして、その時の小さな誓いがオレたちを支えた。

しとしとと降る雨音が窓を打つ中、室内には静かな緊張が漂っていた。向かい合って座るアリスは、濡れた髪の先で窓の水滴をそっと拭い、俺を見つめていた。オレは胸が押し潰されそうになりながら、震える声で切り出した。

「アリス…オレと――付き合ってくれて、本当にありがとう」

拳が震え、机を強く握りしめる。顔を背け、小さな吐息が漏れた。

「正直…周囲は冷たい。孤児の俺と一緒にいることで、アリスに“恥”をかかせたくないんだ。君の家族や友人も、みんなそう思ってる」

肩がぷるりと震える。俺の声には、自分自身に対する迷いと恐れが滲んでいた。

長い沈黙の後、アリスはゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに俺を見つめ返した。瞳には、雨粒よりも強い光が宿っていた。

彼女は俺の震える手をそっと包み込み、穏やかに言った。

「ありがとうなんて、言わせないで。あなたがあなたであること――それが私にとって誇りなんだから」

声は震えず、言葉に揺るぎない覚悟があった。

「私は誰よりあなたの味方よ。あなたの夢も、傷も、全部大切にしたい。孤児だからって、身分が違うからって、何ひとつ変わらない」

そう言って、指先が俺の頬に触れた。アリスの表情には、揺らぐことのない確信と深い愛が映っていた。

「あなたと歩む人生が、私にとっての喜びだから。誰に何を言われても、私はあなたを選ぶ」

その言葉に、俺の胸はぎゅっと締め付けられた。だが同時に、一筋の温かい安心感が胸の奥に広がった。冷たかった世界が、一瞬で優しく照らされたようだった。

俺はアリスの瞳を見つめ返し、深く息を吸い、固く決意したことを口にした。

「アリス…俺は、君を心から愛している。そして、君と共に歩み続ける。どんな障壁が立ちはだかっても、俺は夢を叶えてみせる。英雄になって、オレと同じような貧しい人間でも機会を掴める国をつくるって、約束しただろ? あの夢は、君が認めてくれたから、ずっと俺の中で生き続けてるんだ」

その言葉に、アリスの目が潤んだ。部屋の奥で響く雨音が、まるで二人の鼓動を祝福するかのようだった。

その静寂と雨音に包まれながら、二人の間に新たな約束が結ばれた。世間の荒波にも揺るがない、愛と覚悟、そして夢を叶える強い絆が、そこにあったのだ。

肩章の重みが、胸の奥でずんと鈍く響いた。

16歳―最年少で宮廷魔導士に任命された瞬間は、今でも胸の鼓動と共に甦る。

冬の陽が王宮の大広間に差し込む。その光は硝子の窓を通し、床に神聖な幾何学模様を描き出していた。厳かな静寂が支配する中、オレはゆっくりと玉座前へ歩み寄る。

足音が石畳に「カツ、カツ」と響き、緊張が肌を突き刺すようだった。そして、空気が微かに震えた──式典のために集められた魔力の痕跡なのか。

国王が玉座から端正な顔を上げる。王冠の輝きに呼応するように、周囲の空気にかすかな青白い光が揺らめいていた。貴族たちのざわめきの中、オレは一礼し、跪く。ひざまずいた瞬間、胸の奥で魔力が鼓動を始めた。

「レイン・ハワード殿、宮廷魔導士への任命をここに宣告する――」

国王の低い声が、大広間を震わせる。杖先を思わせるその響きには、不思議な力が潜んでいた。侍従が差し出した金縁の懐中時計を受け取ると、淡い光が漏れるようで、手が微かに熱を帯びた。懐中時計を持った腕は震えたが、眼差しは揺るがない。

「拝命します。」

大広間に積もった緊張が、一瞬にして潤いに変わる──未来への扉が、静かに開かれた気がした。

20歳の冬、戦争が始まり、宮廷魔導士のオレも国の武力装置としての役割を果たすため招集された。

冬の朝霧が城門を濡らし、冷たい空気が喉にひっかかるようだった。軍旗がゆっくりと風にたなびき、遠くからは馬の蹄音と兵士たちの呼吸が交錯する。

アリスは薄手のマントを肩へ引き寄せ、微かに震える手でオレの手に触れた。

その瞬間、「この手がもう触れられないかもしれない」という恐怖と、「奪われたくない未来を守りたい」という決意が胸にせめぎ合う。


「レイン……戻ってくるって、約束して」

彼女の声は震え、でもその瞳だけは揺らいでいなかった。

オレはぎゅっと彼女を抱きしめ、息を詰めるほどに近づいて囁いた。

「アリス、必ず帰る。戦地で得たものは、すべて君と未来のためにする」

土と革の匂い、彼女の吐息が混じり合い、世界が一瞬止まった。


そのとき馬車の車輪が石畳を踏む音が近づき、群衆のざわめきが胸中の静寂を破る。

アリスは目を伏せてから、小さく笑みをこぼした。

「ずっと待ってる」

その言葉が、冬の冷気よりもずっと温かく、オレの背を押してくれた。

戦地では、赤茶けた大地が揺れ、地鳴りのような戦鼓が胸に響く。

煙が視界を曇らせ、烈風に乗って硝煙と鉄の匂いが鼻腔を刺した。 「ここで踏み止まらなければ、国が崩れる」オレの心臓は鼓舞する鼓動と緊張で張り裂けそうだった。

敵の突撃が間近に迫り、兵士たちが叫び声を上げる中、彼は杖を掲げた。先端から青白い魔力の渦が迸り、敵陣の盾を焼くように崩し、楯兵の列が乱れる。

鋼鉄と魔力の衝突音が「ズドン」と大地を震わせ、爆音と同時に泥がはねた。手に伝わる振動が肉体と精神を揺さぶる。

敵のひとりが斜めから迫り、剣を振り下ろす。「くっ」と唸りながら、オレは咄嗟に杖をひねり、反魔法の結界を展開した。剣は空を切り、敵は怯んだ。

意識が一瞬、幾千の可能性に広がる。 その隙を見逃さず、一撃の閃光とともに魔力が炸裂し、相手の盾ごと吹き飛ばした。

騎士隊がその隙間をついて突入し、オレは魔導士として初めて「戦果」を知った。

吹き飛ぶ破片、敵の断末魔、そして仲間の歓声が重なり、血と泥で濁る視界の片隅で、彼は小さく拳を握りしめた。「これは、アリスと未来のためだ」と。

やがて戦争は終息を迎え、王国は数多の英雄を讃える宴を開いた。

大広間の中央に設けられた高壇に、王が立ち上がると、静寂が広間を包み込んだ。その目は、戦の英雄たちを見渡し労を労う様にあたたかだった。

「レイン=ハワード、戦の最前線で数多の敵を打ち破り、国を守るために尽力したその勇姿に、深い感謝と敬意を表す。」

王の言葉が響くと、広間の隅々から拍手が湧き上がった。オレはその場に立ち、深く頭を垂れた。オレの胸には、アリスとの約束と夢、国への忠義が交錯していた。

その後、王は手にした杖をオレに手渡し、「この杖は、王国の守護者に与えられるものだ。」と告げた。オレはその重みを感じながらも、しっかりと受け取った。

その後、王国からの勲功により、オレには爵位が授けられることが決まった。その知らせを受けたオレは、驚きとともにその重責を感じていた。

ある日、王宮の執務室にて、王から直接その知らせが告げられた。王は書類を手にしながら、静かに言った。 「貴殿の功績は計り知れない。そのため、王国の名誉をもって、爵位を授けることとした。 」

オレはその言葉に驚きつつも、深く頭を下げた。 その後、正式な儀式が執り行われ、オレには新たな爵位が授けられた。

オレの心には常にアリスとの約束があり、その想いがオレを支え続けていた。


アリスの屋敷に到着したオレは、使用人に案内されて応接室に通された。

静かな室内で待つ間、オレの胸は高鳴り、アリスとの再会と未来への期待で満ちていた。

しばらくして、扉が開き、アリスの父親である侯爵が姿を現した。その顔には、深い悲しみと疲れが滲んでいた。

「ハワード卿、君が娘に真摯に向き合ったのは知っている。此度の戦いで武勲をあげ、爵位も叙勲され、国の英雄となった君ならば、我が娘を嫁がせても申し分ない。 だが、すまない、アリスは先ほど息を引き取ったんだ。事故に遭ってね。」

その言葉がオレの耳に届いた瞬間、世界が音を立てて崩れ落ちるような感覚に襲われた。彼の心は凍りつき、言葉を失った。

侯爵は続けた。「君の気持ちは娘もきっと喜んでいたことだろう。だが、今はただ、あの子の安らかな眠りを祈るしかない。」

オレは深く頭を下げ、静かに屋敷を後にした。彼の胸には、アリスとの約束と、彼女への深い愛情が今もなお、強く刻まれていた。

数日後アリスの葬儀が行われた。

葬儀の参列者たちが整然と並ぶ中、オレは礼服に包まれたまま、震える足で棺の前に立ち尽くしていた。

呻くような悲鳴が胸の奥で渦巻き、呼吸すら苦しくなる。 司祭の祈祷が途切れるたび、雨音と十字架の鐘の音だけが響いた。

愛しい彼女の肖像が棺の蓋にそっと置かれ、花々の甘い香りが静寂を薄く覆う。

だがオレには、それが毒のように感じられた。棺に手を置くと、木の冷たさと固さが皮膚を刺し、「触れられない」という現実が重くのしかかった。

葬列の行進中、オレの視界はぼやけ、石畳の雨滴だけが足元できらめいていた。歩みを進めるごとに、彼の世界は色を失い、すべてが虚ろになっていった。

墓穴の前で整えられる土の匂いが、彼の胸を引き裂く。最後にシャベルで一すくい載せられるごとに、記憶が霞んでいくかのようだった。 埋葬が終わり、参列者が静かに退席する中、レインは1人だけ残った。棺に最後の言葉を囁き、嗚咽を抑えて立ち去ることしかできなかった。雨は止まず、その滴が彼を濡らし、彼とアリスが共有した未来を洗い流すかのようだった。

彼女の墓前で動けずにいると、彼女の侍女をしていた女性が近づいてきた。

  侍女の手には、革表紙の日記がそっと抱えられている。

「ハワード卿、アリス様の日記です。どうか、お受け取りください。」

その声は震え、ときおり息を飲むように止まる。侍女の瞳には、期待と哀しみが交差していた。

俺はその日記を受け取り、革の冷たさを指先で感じる。古い革の香りに混じって、彼女が好んで使っていたほのかに甘いローズの香りが漂い、記憶が胸にざわめく。

開かれた最初のページには、淡く彼女の筆跡が刻まれていた。まるで彼女が、隣で囁いているかのようだ。

侍女はそっと一歩後ずさり、距離を置いて「失礼いたします。」 と告げ去っていった。

侍女の小さな気遣いが、俺の孤独をほんの少しだけ溶かした。 俺は視線を下ろし、震える息を整えながら、ゆっくりとページをめくり、その文字と記憶に触れた——

「あなたと過ごす日々が、どれほど幸せだったか。

苦しい時もあったけれど、あなたがそばにいることで心強かった。

私も力になりたい。

この先何があっても、あなたを想い続けたい。」

丸く整った彼女の文字で書かれた文面に胸を締めつけられた。

静かな部屋に、遠くで秒針が刻む音が、鼓動と同調するように響き渡る。

視界が霞み、世界がにじんだ。

喉が焼け付くように渇き、胸が圧迫される。呼吸が、途切れ途切れになった。

「彼女の心の中では、ずっと……俺だけがいたんだ」

でも――俺は彼女を守れなかった。

結婚の約束と、彼女を失った痛みが、重なって胸の奥が痛んだ。

時間がぎこちなく止まっているようだった。

ゆっくりとページを閉じた。

その響きさえ、世界を引き裂くほどの切なさだった。

ため息が漏れた。

その場に沈黙が満ち、俺はかすれた声で呟いた――

「ありがとう」

言葉は震え、思いを込めたものだった。

その“ありがとう”は、彼女に──届いただろうか。

夕闇が溶け込む書斎に、静寂が漂っていた。

彼はふと姿勢を正すと、自分の腕をそっと掴んだ。

「──俺は、今でも彼女のことを忘れたことはない。あの日、彼女を守れなかったことを、ずっと…後悔している」

その言葉には、長く重い夜を抱えたような痛みが滲んでいた。

私は返す言葉を探すが、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、声は出なかった。

彼は少し間を置き、深く息を吸った。

「だけど、彼女はきっと…望んでいなかったんだ。オレがその後悔に縛られて、ずっと前に進めなくなることを――」

声は柔らかく、自分を慰めるように続けられた。

その響きからは、深い悲しみだけではなく、“進もうとする強い意思と愛情”が感じられた。

俺はその瞬間、言葉を失った。

ただ、この胸の内にひしひしと伝わる、彼の決意と悲しみの重さを、静かに受け止めていた。

しばらくの沈黙の後、彼はようやく声を絞り出す。

「…悪いな、話しすぎた。こんな時間まで付き合わせてしまって」

その声には、悲しみと共に、人を思いやるやさしさが混ざっていた。

「ありがとう。…気をつけて、な」

彼は小さく笑いながら私を見送った。



英雄として名を馳せたレイン・ハワード。その名の裏には、深い悲しみと愛、そして強い覚悟が隠されていた。彼の歩んできた道は、誰にも理解されないほど孤独なものだっただろう。

――だが、その悲しみを抱えながらも、彼は決して立ち止まることなく、傷を糧にして国を変え、未来を切り開いたのだ。

その姿は、ただの英雄伝説以上の意味を持つ。教育制度や救済院を整え、奨学生たちを育て上げ、社会の隅々にまで機会を届けた。

亡くなった恋人に語った夢と、彼女への深い愛情から生まれた壮大なビジョンだった。国の礎を築くその改革は、彼自身の喪失と誓いを形にしたものでもある。

そして俺は、今回の取材を通して、彼が抱えた孤独と闘いの一端を知った。だが、それ以上に感じたのは、傷を力へと昇華させたその強さだ。

彼はただの英雄ではない。過去の悲しみを背負いながらも、誰も歩んだことのない未来を、自らの手で切り拓いていった――真の意味での“守る者”なのである。

その日の帰り道、俺は暗がりの中でずっと考え込んでいた。

紙袋に入った資料と、ポケットに収めた彼の肖像写真。ノートを開き、原稿のタイトルをつらつらと見直す。

「英雄の悲恋―栄光の裏の絶望と再起」

悪くない。むしろ、心を揺さぶるドラマとして、間違いなく話題になる。読者はあまりにもセンセーショナルで、好奇心を刺激するこの部分に、きっと目を奪われるだろう。

けれど、胸の奥で、いつの間にか小さな違和感が芽生えていた。

彼女の愛が、彼の深い悲しみが、ただ「ネタ」として消費されてしまうのではないか――そんな思いが、静かに、しかし確かに俺を責めていた。

タイトル部分をじっと見つめる。

「読者の視線は一瞬で惹きつけられる。けれど、本当にそれが彼らのためになるのか? 彼らのためというよりも、俺自身の欲望ではないか?」

記者の血がざわつく。センセーショナルな見出しに飛びつきたがる自分を、俺は知っていた。

ノートを持つ手に、躊躇の重みが伝わる。

――彼女は、ただ彼を愛した。

――彼は、ただ彼女を守りたかった。

それだけなのだ。そこにどんなドラマ性があるのか、と問い直す。

俺はゆっくり息を吐き、資料と原稿をテーブルに置いた。これ以上、書き進めれば彼らの秘められた絆を白日の下に晒すことになる。

記事としては“価値”がある。読む人の心を揺さぶるだろう。だが、俺が書くべきは、「真実」よりも、「祈り」に近いものだった。

胸の中で、彼らの愛と哀しみが、小さな星のように光っている。

それを紙に落とすということは、まるでその灯火を奪うことにも似ていた。

そこに救いがあるとすれば、俺は記者としてではなく、誠実な人間として向き合いたかった。

彼らの今も、そして未来も、“守られるべき愛”として留めていたい。

文章は残されたが、文字に込める温度と優しさのために、俺は沈黙を選んだ。記者ではなく、人として。

彼らの今も灯るこの愛を胸に留めたいと思ったのだ。

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黄昏の英雄 葉月 初 @hadukiui

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