後編

 マッキーとの約束の飲み会はあのラインから数日後に成立した。場所は大学生の時からよく行っていた居酒屋。値段の割には内装がお洒落で、落ち着いた雰囲気と料理の盛り付けがちょっと凝っており、当時は背伸びしていたい時にひいきにしていた。社会人となった今でも私と栞はここの豆乳鍋がお気に入りだし、あの時はなかなか頼めなかった刺身五点盛りも行けばよく頼んでいる。

 約束の五分前に栞と一緒にお店に着くと、予約されていた席に案内された。そこには当然マッキーが待っていた。眼力はあるが耳がほぼ隠れる程の長髪に頼りないアゴヒゲ、傍から見ると売れないホストか半端に怖い人に見えるのだが、実際そうではない。腕っ節は弱いし中性的な面がある、どちらかと言えばオタク気質の強い文学青年なのだ。口は悪いけど。

「いよぉ、時間どおりだな」

「マッキーお疲れさまー」

「お疲れ様です、マキさん」

 挨拶を済ませると私達はマッキーと向かい合うように並んで座った。そうして一通り好きな注文を済ませる。あの頃と違い、しっかり稼いでいるので多少は欲求のままに食べられる事に成長を感じる。肉に刺身にあの頃から好きだった鶏ナンコツ、栞はそれにピザと海鮮チャーハン、マッキーはやや控えめにチーズ盛り合わせ。

「じゃあ、とりあえずお疲れ様」

 それぞれにお酒が行きとどくと、マッキーの音頭で乾杯をした。週末で仕事終わりの夜七時、空きっ腹にアルコールが染み入る。学生時代ももちろん美味しかったけれど、社会人になると最初の一杯がたまらなく感じる。

「それでさー、あの結婚式なんだけど、お前らは行くの?」

 ジョッキを置くなりマッキーは本題に入ってきた。この人の好感の持てる所はズバッと核心に入る所だ。悪く言えば、デリカシーが無い時も多々あるのだが。

「そうですね、行こうかと思ってます。文香もそう言ってますし」

「マッキーはどうなの? やっぱ行くでしょ、可愛い後輩なんだしさ」

 もったいぶって腕組みをし、一呼吸置いてからマッキーが頷く。

「そうだな、行くしかないよなぁ。ここで行かなかったら今後の関係が切れてしまいそうだし、そうなれば俺はあいつらの子供の名付け親の権利を失ってしまうかもしれん」

「ばっかじゃないの。マッキーに任せるわけないでしょ、あの二人が」

「うるせぇ、何があるかわからんだろ。ほんとお前は視野も展望も狭いし、背も低いな」

「背は関係無いでしょ」

 正直、こうして気兼ねなく話せる友人は男女通してマッキーくらいだ。色眼鏡無く心の底から同性で付き合ってる事に何とも思ってなさそうだし、良い意味で気を使わせてくれない。私の友達にも何人かはこの関係を知っている人はいるし、大体認めてもくれているんだけど、それはどこか上辺だけっぽいと言うか……。

 お酒も進み、好きな料理にお腹も心も満たされていく。久々に会った堅苦しさはどこかへ消え、アルコールの力もあって私達はあの頃の三人へと戻っていた。

「それで、マキさんは結婚とかしないんですか?」

「結婚ねぇ、うーん……まぁ、いい人がいればって思うけど、今はそんな人もいないし、急いでしようってメリットも見当たらないからいいかなぁってね」

「ちょっと栞、その質問は失礼だよ。だってマッキーはその前に相手探しからだし」

「うるせぇな。相手なんて俺が本気出せば秒だからな」

 冗談とわかっていても挑発するような瞳に何だかカチンときた。私もちょっとマジになって顔を突きつける。

「じゃあ本気出して下さいよー」

「ばっかだなぁ、ほんとあの頃から変わらずばっかだなぁ、ふみっちは。俺が本気出したらお前らメロメロになって修羅場になるから、抑えてるのがわからないのかよ。そんな俺の優しさにひれ伏せ、ばーっか」

「ないわー、絶対にないわー。マッキーいい男だけど、それはないわー」

「文香いい過ぎだよ。マキさんも文香をあんまりからかわないで」

 あぁ、そうだ。いつも過熱しそうになると栞が絶妙なタイミングで止めてくれる。マッキーもそれに気付いたのか近づけてきていた顔をすっと離し、お酒に口を付けた。私も半分ほど残っていたファジーネーブルを口にする。

「いやぁごめんね、しおりん。……まーそうだなぁ、話を戻すと結婚する相手には祝福できるけど、いざ自分ってなった場合にメリットが見出せなくてさぁ」

「メリット、ですか」

 栞が聞きいるように身体を乗り出す。この流れは真面目な話が続くパターンだ。昔はちょっと苦手な時期もあったし、今でも全部は聞いていられないのだが、今日は結婚の話題なので素直に聞く事にしよう。

「そう。だってね、俺家事は大体出来るし、料理もお前らより上手いと思っているから嫁さんに作ってもらわなくても問題ないと思ってるしな」

 反論したいが言葉にできなかった。実際マッキーは物凄く料理が上手で、私なんかはともかく、栞よりもずっと上手だった。その手料理を食べさせてもらったのは数回だけど、そこらのお店で食べるよりも全然美味しかったのは覚えている。

「あとはセックスだけど、男はほら、行こうと思えば気軽に風俗とか性の解消手段の選択肢は多いからなぁ。こういうの、女の方が大変だろ。そういう風俗も少ないし、呼ぶとか出会うってのも危ないだろうからなぁ」

「んー、確かに」

「じゃあ最後は何かって言うと、子供に行きつくじゃない。子供ばっかりは一人じゃどうしようもないからなぁ。だから俺が結婚しようって気になる時は子供が欲しくなった時だと思うんだよね」

「えー、奥さんに対しての愛情は無いわけ?」

 憮然とした私の言葉にマッキーは数秒真面目な顔で考えると、すぐにまたいつもににやけ顔に戻った。

「初デートのようなドキドキなんて、ずっと感じてられないよ。刺激にも快楽にも慣れちゃうからね、そしたら後は惰性だ。あ、惰性っても良い意味でだよ。恋愛の浮かれた感じから、も少し落ち着いた愛情に移り、最後は情に……家族の絆みたいになっていくと思うんだよね」

 なんか上手い事言われた感があって言葉の止まった私達に満足すると、マッキーはジョッキを傾けた。

「だからいつまでも奥さんラブってのは俺の中で難しいと思うんだよね、今は。まぁ、そんな俺の考えを変えてくれるようなすんげぇいい女に出会えれば、また違うんだろうけどね。積み重ねた思考や常識を吹き飛ばすくらいの、いい女。そんな人いないかなぁ」

「いないと思いますよ、そんなマキさんの欲求全部受け入れてくれるような人は」

「ふみっちに言われるより、しおりんに言われる方がガチできつい」

 どっと笑いが場に溢れた。マッキーは追加のビールを注文するとトイレにと席を立ち、私達は話の合間とばかりに半端に残っているお皿を片付けて行く。美味しいねと栞と笑顔を交わしながらも、私はマッキーの先程の言葉を思い返していた。

 つまり好き同士でもいつか飽きるって事。まぁ、何年も過ごしていたらマンネリは避けられないって聞くけど、お互いにドキドキもしなくなるって事なのかな。確かに私達も初めて手を繋いだり、キスしたり、エッチした時のようなドキドキは無いけど、でも栞に対してそんな飽きたとかマンネリとか感じるんだろうか。

 ……そんなの嫌だ。それに子供とか、どうしようもない事を私達の前に持ってこられても、今はまだそれに対して考えるのも面倒くさいし、怖い。



 結婚……まぁ、マキさんの言う事も一理あると思う。昔ならともかく、今は男女自立できる時代だから、結婚しないと女性が生きていけないって時代でもない。だから結婚に何を求めるかと言われれば、非常に難しい。だってマキさんの言うように、子供の事を考えなければ結婚しなくてもできる事がほとんどなのだから。

 でも、どうしてだろうか、若干の憧れが胸の奥でくすぶっている。

 私も幼い頃は純白のウエディングドレスを着てみんなに祝福されたいと思っていた。バルーンなんかも飛ばして、一緒に白い鳥でも飛ばして、盛大にフラワーシャワーを浴びたりしておめでとうと笑顔や涙の中で言われたいなんて理想も描いていた。今もそれができるに越した事は無いのだが、実際はどうなんだろうか。

 もしも文香と結婚すると考えると、同性婚に抵抗のある人も少なくないからそんな思い描いているような祝福なんか無いだろう。家族間でも微妙だと思う。親戚なんてなおさらだ。社会や世間なんて、まだまだだ。じゃあもし、文香と別れたとしたら……。

 何考えてるんだろ、私。

「どしたの、しおりん。もう酔っ払った?」

 ちょっと考え込んでいたのだろう、トイレから帰ってきたマキさんが心配そうに顔を覗き込んできた。私は慌てて笑顔を作り、大丈夫ですと元気に振る舞う。

「それじゃ、ふみっちとの新婚生活でも考えてたりとか?」

「ち、違いますよ。そう言うんじゃないです」

 新婚生活……そっか、一旦今までの関係をリセットして、新たな気持ちになって歩めるのも結婚かもしれない。世間がとか社会がとか家がとか色々あるけど、結局は隣にいる相手と結婚するわけだし、そこが重要だよね。

 文香との結婚生活、かぁ。実際は今までとそれほど変わらないんだろうけど、結婚しているって余裕は生まれるかも。何が変わるわけでもないだろうけど、家庭ってのを感じるかもしれない。

「ふーん、そっか」

 揺れ動く私の心情を察したのか、マキさんはそれ以上追及をせず興味をやや無くした感じで一旦言葉を切った。そしてジョッキを傾け、今度は文香の方へ目を向ける。

「まぁ、好き同士でも結婚となりゃ二の足を踏むよな。好きとセックスがイコールではないように、好きと幸せもきっとイコールじゃないだろうからな」

「えー、何でよー」

「んー……好きでなくても結婚生活は続くだろ、きっと。いろんなしがらみもあるし、共存関係でもあるだろうから。恋人同士なら、好きじゃなくなれば別れるだけだろ。たとえ相手の事が嫌いになったとしても、そこ以外にも幸せを見つけられるんじゃないかなぁ、結婚ってのは。ま、ある種俺の願望だけどね」

「なんなの、その三回くらい結婚したみたいな発言」

「一回もしてねぇよ。なんかこう、先輩とかの話を聞いてたら、そうなのかなぁって俺なりに思うわけ。ほら、何が言いたいかと言えば、今は同性婚なんてあっても、別にそういうのに縛られなくてもいいんじゃないかって事。あ、でも携帯の料金なんかは同性婚でも家族割が適用されるみたいだぞ」

「携帯の割引なんかで結婚なんて決めないでしょ。ねぇ、栞」

 急に話を振られ、私は底なし沼のように沈む答えの無い悩みから引き揚げられた。曖昧に頷きながらグラスを傾け、ぼんやりと聞いていた話の中身を整理する。

「確かに。ま、でも結婚って深く考えると最終的には金銭問題に行きつくのは事実かも。憧れはあるけど、シビアな現実からは逃れられないよね」

「ドライだなぁ。でも、ま、そうだよね」

 文香は苦笑するとのけぞるように天井を見上げてから、私達に向き直った。

「あー、ちょっと話題変えようよ。なんかこのまま話していたら暗くなりそう。まだまだ私はそういうのに憧れを持っていたいの。お金とか権利とかは大事だけど、今はまだ幸せな事だけを考えたいじゃない」

「そうだな、ふみっちの言うとおりだ。おっし、じゃあこの話題はおしまい」

 マキさんが仕切り直しとばかりに乾杯をする。私達もどこかモヤモヤした気分を吹き飛ばしたく乾杯をすると、勢いよくお酒を飲んだ。

「それよりあれだ、二次会の余興でも考えるぞ。いいか、お前らも参加するやつだぞ」

「ちょ、何言ってるのよ。栞も反対だよね」

「そういうのはマキさんの独壇場なので、荒らしたくないです」

「うるせー。先輩命令だ」

 それからマキさんと二時間ほど飲んでから解散となった。マキさんの勢いもあって私も文香もいつもよりちょっと飲みすぎたみたいで、身体が熱い。途中、コンビニで買ったお茶を分け合いながら、家路に着く。人通りもすっかり減った通りをぼんやりと歩くだけで、何だか楽しい。時折ふわっと頬を撫でる夜風が気持ち良かった。

「ねぇ、文香」

「ん、なぁに」

 ちょっと眠そうな、それでいて酔って頬赤らめている顔をふにゃりと砕けさせ、私だけに見せる笑顔にどきりとする。

「文香は結婚とか、どう思う?」

 二人きりでこの話題をするのは初めてだった。だから私の胸は酔いもあっていつも以上にバクバクと鼓動を打ち鳴らしている。普段は結婚なんて考えないのだが、いやもっと言えば二人の明確な未来なんて考えていないけど、どうしても今訊いておきたかった。

「んー……結婚、ねぇ」

 ちょっとだけ目を閉じ、考え込むと文香はすぐにバランスを崩した。足がもつれ、よろけた身体を咄嗟に抱き締める。小柄で軽い文香だったが、勢いもあって私は背中を塀にぶつけた。ちょっと息が止まったが、何ともない。私は腕の中の文香を覗く。

「大丈夫、文香?」

「あはは、ごめんねぇ。痛かった?」

「私は大丈夫だけど」

 心配する私をよそに文香は相変わらず砕けた笑顔を見せている。

「私も大丈夫」

 そう言いながら私の背中をほろってくれる。

「あー、そうそう、結婚ね。そうだなぁ、私は正直栞と付き合ってから真面目に考えた事はなかったよ。だって幸せだもん。でもその幸せって世間からすれば脆いものじゃない。だから下手に考えたり意識したら壊れるかもって思ってた」

 笑顔の中に寂しい響きがあった。文香はすっと前を向くと、ペットボトルのお茶を飲みながらゆっくりと歩き出す。

「今日ね、マッキーと話していて色々私なりに考えさせられたの。色々あぁそうか、それもそうだ、でも違うなんて考えていたけど……忘れちゃった。なんだろうね、私は栞と違って難しい事を考えるのが苦手だからか、今はこう思うの」

 そこまで言うと文香は振り返り、抱きついてきた。今度は私をも抱き締めるように、優しく。同時にふわっと嗅ぎ慣れた匂いが胸を弾ませる。

「さっきみたいに転びそうになったら、抱き締めればいいかなって。私、さっき本当に嬉しかったの、栞が守るように抱き締めてくれて」

「そんな、当たり前じゃない」

「うん。でもその当たり前を平気でできるようにしたい。相手が汚れたら綺麗にしてあげればいいし、泣いてたらなぐさめればいい。一緒にいて楽しいだけじゃなく、私も栞も困っていたら助け合えるのを普通にしたいよね」

「文香……」

 抱き締める力が自然と互いに強くなる。

「なんかさ、誰かの歌にあったじゃない、家族になろうよって。きっと、そういう事じゃないのかなぁ」

 言いながら文香の膝の力がかくんと抜けるのがわかった。私は落ちないように抱き締めながらまっすぐに立たせると、胸から引きはがし見詰めた。別に怒ったりしたいわけではない、ただどんな表情をしているのかたまらなく気になっただけだ。

「良い事言ったと思っても、フラフラし過ぎ。もー、マキさんと飲んだらいっつもこうなんだから」

「……ごめん」

 軽口で言ったつもりだったが、文香は幼子が怒られたみたいにちょっと泣きそうな顔をしていた。そのあまりな無邪気な顔に私の心は最高潮に高まりつつあった。花のような可愛らしさ、それを愛でたい気持ちとアノ時と同じようにどこか嗜虐したい気持ち。穏やかな慈愛と燃え盛る性愛がマーブル模様のようにぐるぐると私をかき乱す。

「……別にいいよ、文香だもん。しょうがないよ」

「えー、なにそれ」

「文香だから、こうしていられるの。家族になりたいもん」

 目を丸くする文香がたまらなく愛おしい。

「たまに考えるの、いつまで一緒にいれるんだろうか、いつか普通に収まるために別れちゃうんじゃないかって。でもね、私はやっぱり嫌なの。なんでこんなに好きなのに別れなきゃならないの、なんでそんな事考えなきゃならないの」

「それは、私も……そうだよ」

「私は一生をかけて、文香を幸せにしたい。文香と一緒に笑っていたい」

 すっと私は文香の唇を奪った。唇同士が数瞬触れ合うような、軽いキス。人通りはほとんど無かったけど、それでも外でするのはドキドキした。人目なんか多少あっても気にしないつもりだったが、誰に注目されているわけでもなかったが、それでも。

 きっと月が見ていたせいだろう。あの三日月のように目を細めていたかもしれない。でもいい、今は見せつけてもいい。私と文香は照れた顔を見合わせると、夜風を切るようにニコニコと笑顔で再び帰り始めた。



 はぁー……まいったなぁ、ほんと。

 ランチを済ませると普段は仲の良い同僚と休憩明けまでお喋りをして過ごす事が多いのだが、今日はとてもそんな気分になれなかった。むしろいつものようにその場にいる事がいたたまれず、席を立った。

 どうすればいいんだろ……。

 正直どこへ行くあても無かった。ただ不自然さを見せないように階段を下り、会社の外に出ると、正面玄関傍にある自販機の存在を思い出した。普段あまり使わないんだけど、なんとなく気分を変えたくて微糖のコーヒーを買う。そしてタバコ休憩している同僚の死角になるような場所に隠れると、一口飲んだ。微糖とはいえそこそこ甘く、幸せな気分に一瞬なったが、すぐに長い溜息が出てきた。

 昨日の飲み会の帰りから、ずっとこんな調子だ。仕事も手に着かず、誰かと喋っていてもどこか上の空。注意されても、頭は下げるけど心ここにあらずって感じであまり響かない。栞と二人きりでいると、なおさらだ。普段通りに接しようとしているのだが、なんだかぎこちなくなっているのがわかる。

 原因はわかっている。はっきりとわかっている。

『私は一生をかけて、文香を幸せにしたい。文香と一緒に笑っていたい』

 あんなの、プロポーズも同然じゃないの。

 お互いきっと酔っていたから、あんな感じになっちゃったんだ。でも、それだけで片付けるのは寂しい。もちろん本心があったからこその栞の言葉なんだろうけど、だからこそ私も自然とあの場では受け入れていたんだけど、改めて思い返すととんでもなく恥ずかしい。でも、同じくらい嬉しい。

 だからこそ、何か伝えないといけない。昨日は帰ってから二人とも酔い潰れて寝てしまい、朝起きたら何となく気まずくてさらっと挨拶を済ませてお互い出社してしまった。それからはこの通り。時間が経てば経つほど、こういうのは溝が深まっていく。そんな事はとっくにわかっているんだけど、けど、どうしようか……。

「どしたの倉持さん、そんなとこでうなだれて。具合悪いの?」

 不意の先輩の言葉に驚き、いつの間にか縮こまっていた身体が跳ね起きた。その拍子に手にしていた缶コーヒーから少し中身がこぼれ、手にかかってしまった。

「違いますよ、大丈夫です。あーもー、びっくりさせるからこぼしちゃったじゃないですか」

「えっ、俺のせい?」

「そうですよーだ。あーもー、手洗わなきゃ」

 背中越しに先輩が謝っていた気がしたが、私は逃げるようにその場を離れた。私が今どんな顔をしているのかわからないが、きっと変な顔をしているに違いない。角を曲がると一気に飲み干し、ゴミ箱へ缶を捨てる。そしてそのままトイレに駆け込んだ。幸いにして誰もいない。でも、鏡は怖くて見れなかった。

あぁもう、どうしよう。このままじゃいけない、何もかもが駄目になる。全部私から離れて行っちゃう。何とかしなきゃ。考え込むなんて私の性に合わないのに、いつでも思い立ったらどかーんと行動する派なのに、こんなにグダグダと取りとめの無い事ばかり考えているなんて。ここはもう、しっかり受け止めるしかない。

 そうだ、あれは栞からのプロポーズだ。間違いなくそうだ、酔っていてもそうだ。私も酔っていたけど、絶対にそうだ、そう決めた……あー、そうね、プロポーズね、うん。ポロポーズ、かぁ……そう言う事にしよう、か……。

 駄目だ、恥ずかしくて死にそうだ。



 ……死にたい。

 私は憂鬱な気持ちで帰宅している。年に何度か仕事でミスったり、文香と喧嘩する度にそう思うのだが、今回のは相当重症だ。原因はわかっている、一週間前のマキさんとの飲み会の帰りだ。何を私は恥ずかしげもなく、文香にあんなことをペラペラと喋ってしまったのだろうか。あの時は素直な気持ちだったはずなのに、シラフになり今思い返せば、死ぬほど恥ずかしい。

 文香に対して大切な気持ちは変わらない。私のこれからを捧げても良いと思える相手だ。初めは彼氏がいない寂しさの穴埋め、それまでの繋ぎの恋愛ごっこだなんて考えていたけれども、今ではもう別れるなんて考えられない。だからこそいつかは家族みたいに離れられない間柄になりたいと思っているし、お互い支え合って生きていきたいと思っているのだが……早すぎたよなぁ。だってまだ、二人とも二十三歳だもんなぁ。恋愛経験だって豊富じゃないのに、結婚とか……。

 文香の様子もあの飲み会から変わったのは痛いほどわかっている。一生懸命それを隠そうとして普段通りを演じようとしているのだが、元々素直で単純なため、私にどう接すればいいのかわからないみたいなのが丸わかりだ。だから私も変に気をつかってしまい、表面上のさわりの会話しかできない。

 あんな事を言った手前、私の方から責任を取ってもう一声、もうひと押しするなりして決意を見せるべきなんだろうけど、何をどうすればいいのかわからない。どう言えば信じてもらえるのか、どう伝えたら笑われないのか、どう接すれば最悪の結末にならないのだろうか、どうすればこんな私を受け入れてくれるのだろうか。

 ……とりあえず、アイスでも買って帰ろうかな。

 コンビニを通り過ぎようとしたところで一瞬立ち止まったが、思い直して再び歩き始めた。そして自然と大きな溜息が漏れ、うなだれた。

 アイス一つあげてどうするつもりだ、私は。何か差し入れるにしても、もっとこう気の利いたものがあるだろうに。あー、でもこのまま手ぶらで帰るよりはマシかもしれない。日常を取り戻すために日常を演じるのも必要かもしれない。でもなぁ……。

 結局考えがまとまらないまま手ぶらでアパートの前まで来てしまった。重い足取りで階段を上り、鍵を開ける。すると玄関に文香の通勤用の靴があるのに気付いた。いつもは私の方が早いのに、どうしてだろう、珍しい。などと思いながら時計を見ればいつもの帰宅時間より三十分も遅れているのに気付き、またうなだれた。

 残業した覚えはないのだが、やはり仕事の能率が落ちているんだろうか。それとも帰る足取りが遅くなっているのかも。あぁ、これからゴハンの支度をしないとならないから、お腹空かせていたら悪いなぁ。やっぱりアイスでも買って帰るべきだったかも。

「おかえり、栞」

「うん、ただいま。早かったね、文香」

 寝室の方から声と共に文香がぎこちない笑顔で現れた。私はそれよりもずっと自然な笑顔を返すと鞄を置き、部屋着に着替える。

「お腹空いたでしょ。ごめんね、今すぐ作るから待っててね」

 そうしてキッチンに行きかけた私を文香はぎゅっと抱き締めてきた。

「どうしたの、何か嫌な事でもあった?」

 背中越しに伝わるふるふると首を振る文香。ただ、その手に力が入る。

「……寂しかったの?」

「違う」

 また同じようにふるふると首を振る文香。

「じゃあ」

「なんでもないの。ただ、栞とこうしていたいなぁって」

 私は一つ息を吐くと向き直り、文香を抱き締めた。

「私もだよ。文香を抱き締めるといい匂いがして、すごく好き」

「ありがと」

 何だか久々に抱き締め合ったかもしれない。ぎゅっと抱き締め合っていると文香の体温が徐々に伝わってくる。それは独り身では無い安心感。こんなに抱き締め合って安らげるのに、どうしてしなかったんだろう。自然と文香の髪の匂いが鼻をくすぐる。私と同じシャンプーなんだけど、何だか文香の方がいい匂いがする。

 しばらくそのままでいただろうか。やがて文香はぱっと離れると、顔も見せないまま寝室の隅へと移った。そして彼女の鞄をごそごそとあさると、小さなリボンのついた小箱をさっと私に差し出してきた。

「これは?」

「いいから、開けてよ」

 うつむく文香の顔は見えないが、震える声の様子からどんな顔をしているのかハッキリとわかる。私はあえて目の前の小箱に集中し、言われるがままにリボンに手をかける。ゆっくりと紐解く程に期待が猛烈に膨らんでいく。まだ中は見ていないが、野暮な私でも何かは想像がつく。でもこれをもらうってことは、その……そういう事だよね。

「あ、綺麗」

 それはシルバーの指輪。派手な装飾や大きな石も無い、どちらかと言えば地味な指輪。だけどそれは今までに見たどれよりも輝いて見えた。

「その、よかったらつけてよ。私とのペアリングなんだ。高い物じゃないから気に入らないかもしれないけど、私の気持ちだから。薬指はさすがにあれだから、とりあえず中指にでも付けていてくれると嬉しいな」

「高いも安いも、気に入らないわけないでしょ。文香と一緒なんだもの、一緒がいいよ」

「栞……嬉しい、そう言ってくれて」

 じわりと目の前がゆがんでいく。

「……私は、別に薬指でもいいけど」

「職場につけていけないでしょ。ずっと付けていて欲しいの」

「うん、そうだね」

 涙がこぼれるのを必死にこらえ、小箱から指輪をつまみだした。文香からの気持ちは私のそれと一緒で、私が踏み出せなかった気持ち。やられた。でも、文香のそういうところが好きだ。私には無い行動力でいつも私を驚かせる。それでいて同じ気持ちで傍にいてくれる。

 あぁ、もう駄目だ、泣きそうだ。泣く前に指輪を付けて、笑い合いたい。

「栞、ずっと一緒にいようね」

「うん」

 ……あれ?

「ねぇ、文香」

「なに、栞」

 文香はぽろぽろと涙をこぼし、耐えきれずに私の胸元に飛び込んできた。私はその指輪をゆっくりと指にはめていく。

「言いにくいんだけど、これ何号で買ったの?」

「……私と同じ八号だけど」

「文香と同じなら入らないよ」

 そう、幾ら押し込んでもどうしても入らないので思いきって聞いてみたらこれだ。大体、文香の方が小柄で華奢で、指も細い。そんな文香に合わせたら私に合うサイズなんて無い。

「ちょっと、もぉ。折角のムードだったのに、ぶち壊しだよ」

「ごめんって。だって恋人の指輪のサイズなんてそう言えば知らないって、買う時に気付いたんだもん」

「まぁ、確かに私も文香の指のサイズなんて今知ったから別にいいけどさ」

 笑った拍子に涙がこぼれおちた。私の中指にどうしても入らない指輪、何度も試すが入らない。それを見て二人して笑った。ここ数日のギクシャクなんてどこへやら、ただただおかしくて、嬉しくて、真っ白な世界に身を投げ出したみたいに笑った。

「じゃあもう、小指にでもはめてよ」

 言われるがままにやってみると、小指ならやや大きかったが入った。

「ほら、これで一緒だね」

「そうだね。うん、私、文香と一緒がいい」

 お互いの手を差し出し、その手に輝く指輪をうっとりと見つめる。

「私と栞、一緒だね。一緒がいいね」

「うん。ずっと一緒にいようね」

 どちらからともなく交わしたキスはやっぱり柔らかく、ちょっとだけ涙の味がした。

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いつか貴女とハッピーエンドを 砂山 海 @umi_sunayama

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