第二章 デオラⅢ【1】
人類の活動圏が銀河系全体に広がってから、どれほどの年月が流れたのだろう。
ソルⅢ、つまり地球を中心とした太陽系政府を盟主に仰いで結成された星系国家連邦も、規模が巨大になるにつれて次第に弱体化していった。今では、政治的には各星系国家は、横並びのゆるやかな連合体として存在しているにすぎない。
新たな恒星系を開拓し植民に成功すれば、その恒星名を国家名とし、恒星名と惑星番号との組み合わせを植民惑星の正式呼称として連邦に登録する、というルールも、すっかり形骸化してしまった。新国家の市民たちは、自分たちが最初に切り開いた星には、愛着を込めて独自の命名をするのが通例だ。
デオラ入植者の設立した新政府が、第二惑星に〈コンスエロ〉すなわち「なぐさめ」と命名したのは、この星を発見するまでに経験してきた数限りない苦難がついに報われた喜びを、星の名として刻みつけておきたかったのかも知れない。
そもそも、命名のルールを設けた太陽系政府自身が、機械的な〈ソルⅢ〉という新しい呼称を使わずに、自分たちの星を――通称として使っているのだという言い逃れで――〈地球〉と呼びつづけたことが、ルール形骸化の原因だ。
そしてその心情は、銀河系のすべての植民者に共通していた。
人の気持ちには、いつの時代にも、どんな場所でも、相通ずるものがあるのだろう。
政治的には強固な結びつきを失った星系国家群だが、銀河のあちこちに散らばった人類は、精神文化や同胞意識という面ではみごとな統一体であり続けていた。その国その国の環境条件の違いはあるが、同じような生活様式や社会規範を保ち、同じように泣き、笑い、怒り、同じような常識を共有していた。
ことに、宇宙空間での行動に関する不文律は、言語や、通貨や、度量衡など以上に、銀河系のどこでも同じかたちで通用する、絶対の常識だった。
例えば。
地上や大気圏内の乗り物とは異なり、宇宙船内の事故は、たとえささいなものであっても容易に死に直結する。このため、非常時の混乱を回避する意味で、宇宙船の責任者には絶大な裁量が与えられていた。
そのひとつの現れとして、宇宙船の密航者は、発見されれば船長の判断ひとつで射殺されても文句は言えない、というのが常識だ。たとえ悪意のない密航者であっても。
初等学校の子どもでも知っているその常識を、目の前の少女が知らないはずがない。
それなのに、銃を構えて迫ってくる男より、ヘッドホンだのペンダントだのを気にかけるなんて――正気の沙汰ではない。
さっき船倉で少女と出くわした時、ロンはそれこそ、少年のようにとまどってしまった。
ともかく、危険はなさそうだという心証は持てたので、ロンは少女を船倉から追い出した。航法コンピュータの要求で、また位置制御ジャイロを操作しなければならず、いつまでも船倉で睨み合いを続けるわけにはいかなかったからだ。
とにかくここを出ろ、とロンが命じると、少女は少しの間、壁に張りついたまま動かなかったが、やがておどおどしながら壁から離れた。ロンは少女を先に歩かせ、ブリッジへ連れ帰った。
宇宙船乗りになって、もうずいぶんと経つ。密航者と出くわしたことも一度や二度ではない。正確には、密航が主目的ではなく積荷をかすめ取ろうとする略奪者の場合が多かったが、ロンは殺すまでもなく、彼らをことごとくねじ伏せてきた。密航者もゴメンだが警察もゴメンだから、当局に突き出すこともせず、たいていは寄港先で船からたたき出して終わりにしていた。
だが、こんな密航者は初めてだ。
軍に目をつけられたと思ったら、今度は奇妙な密航者か。まったく、踏んだり蹴ったりだ――
心の中でぼやきかけたロンだったが、そこで思い当たった。
警務隊が探していたのは、この少女ではないのか?
自分が立てた仮説を確かめるため、ひとまず副操縦席に座らせておいた少女を、あらためて観察した。
体じゅう埃や油まみれだが、まみれる前の姿を見て取るのは簡単だ。髪は豊かなブロンドで、肌は白く、瞳はブルー。顔立ちも体つきも、幼さがすっかり消え失せる寸前の不思議な線の細さを漂わせている。
濃紺のブレザーは袖がほつれているし、同色のスカートは裾がかぎ裂きだ。手の爪がところどころ割れている。右膝には、できたばかりの擦り傷が血をにじませていた。
ロンは息をついた。軍の中の警察とも呼ばれる警務隊が、こんな小娘を血眼になって探し回っていたとは、ちょっと考えにくい。
ただひとつ目を引くのは、頭のヘッドホンだ。これがもしかしたら、大変な秘密を帯びているのかも知れない。
少女は副操縦席の座面に足を引き上げ、両手で抱えた膝に頬を埋め、頭を少し左へ傾けていた。
さっきからずっと黙りこくったまま、サイドシールドの外を凝視しつづけている。コンスエロの重力圏はとっくに抜け、真っ暗な宇宙空間に星が点在するという変わりばえのしない光景が広がっているが、星間物質の塵がそこかしこに漂っていて、シールドの向こうをたなびくように流れてゆく。
船長の当然の権限として、ロンは密航者を厳しく尋問しようとした。しかし、主操縦席と副操縦席とは、それぞれに座ったままで尋問という行為を行なうには、いささか離れすぎている。それに、少女はロンから顔を背けたままだ。
ロンは、咳払いをしたり、わざと大きな音をたてて椅子から立ち上がったりしてみた。
その都度、少女は一瞬だけロンを見る。おびえと怒りの入り混じったような目だ。ロンはつい怯んでしまい、言葉を継ぐことができず、途方にくれる。少女はまた顔を背ける。
そんなことが繰り返された。
居心地悪く頭の後ろを掻きながら、ロンはふと我に返った。
どうして船長の俺が密航者のガキに遠慮しなくちゃならないんだ?
ひときわ大きな音を立てて、ロンは勢いよく起立した。つかつかと靴音を立てて、副操縦席の前へ出る。フロントシールドにもたれて腕組みをし、少女を正面に見据えた。
「おまえ、どこから来たんだ?」
強い口調で尋ねる。
少女は、答えない。
「どこへ行くつもりだ」
少女は、答えない。
ロンは困り果てた。
質問を変えてみた。
「名前は?」
少女は、膝の間に顔を埋めたまま、ぼそっと呟いた。
「……アリス」
初めての応答に、ロンは思わず身を乗り出してしまった。そして、聞かれもしないのに、
「そうか。俺は、ロンだ」
などと名乗っていた。
アリスの反応は、ない。
ロンは肩透かしを食った格好になった。癪にさわったので、すぐに次の質問を投げかけた。
「どうやってもぐり込んだんだ」
「……」
「何が目的だ?」
「……」
腹が立ってきた。返事をしない少女にではなく、自分自身にだ。
「だんまりを決めこむつもりか。それとも」
ロンはアリスに詰め寄り、手を伸ばした。
「こいつのせいで聞こえない、とでも言うんじゃないだろうな」
そう毒づきながら、アリスのヘッドホンのアームをわしづかみにした。
今度は、アリスの反応は、劇的だった。
「やだっ!」
鋭い叫び声があがると同時に、膝を抱えていた両手がバネ仕掛けのような素早さで頭に回された。左手はヘッドホンを押さえ、右手はロンの手を払いのける。
思いがけない力だった。ロンはけっこうな痛さを感じた。それで、むきになった。
「ちょっと貸してみろ」
再び手を伸ばした。アリスは両手で頭を押さえつけると、椅子から転がり落ちて身をかわした。
「やだやだやだやだ! さわんないで!」
わめきながら、床に座り込んだまま壁まで後ずさりする。
ロンはなおも追いすがろうとしたが、必死にヘッドホンを庇うアリスの姿に、意気阻喪してしまった。
これは、重大な機密を奪われまいと抵抗している姿などではない。大切な宝物を全力で守ろうとする子どもの姿だ。まるで頭が体の中心であるかのように、首を曲げ、背を丸めて、瞼を閉じ、ちぎれそうなほど唇を噛んでいる。
俺はそんなに悪いことをしたのか、と、ロンはうっかり罪の意識すら抱きそうになった。
「わかったわかった」
両方の手のひらをアリスに見せた。
「何もしやしない。こっちへきて座れ」
副操縦席をポン、ポンとはたく。アリスはぜいぜいと息をつきながら、目に涙をいっぱい溜めてロンを見上げた。
「……ほんと?」
「船外にほうり出したいところだがな。そういうわけにもいかないだろ」
アリスは小刻みに頷いたが、それでも壁から離れようとはしない。
「言っておくが、ここはもう三か月も掃除をしてない。床はドロドロだぞ。座ってたって何もいいことはない」
軽口まじりに言ってみたが、やはり同じだ。
いい加減、相手をするのもくたびれてきた。
ロンは対処方法を変えることにした。
「もうひとつだけ聞く。答えないなら、ほうり出す。いいか?」
アリスは唇の形だけで、え、と答えた。
「俺の船に密航したのは、乗っ取りか破壊工作か積荷の強奪でもやらかすつもりだったのか?」
「そんなこと、しない」
脅したのが効いたのか、小声ながらはっきりとした返事だった。
「わかった」
ロンはアリスに背を向けた。
ほうり出すつもりなど、毛頭ない。ちゃんと答えがほしかっただけだ。
さっさと一人になりたかった。
だいたい、メモリア号のブリッジにロン以外の人間が足を踏み入れたことなど、皆無に近い。今日はすでに二人目だが。
ロンは、独りでいることに慣れていた。むしろ、慣れすぎていた。わが家同然のブリッジに他人が、それもこんな小娘が居座っていたのでは、落ち着かないことこの上ない。息苦しいとすら思う。
とにかく、ここから追い出そう。メモリア号には、空き船室はいくらでもある。適当に放り込んでおけばいい。
ただ、もしこの小娘が何らかの悪意に基づいてメモリア号に侵入したのであれば、そんな危険人物から目を離すわけにはいかない。ロンはそれだけを警戒していた。
幸いアリスは、ただ普通の――おかしな表現だが――密航者らしい。なら、しばらく大人しくしていてもらって、どこかの寄港地で退去させればいい。
そうだ。そうしよう。
自分の中で結論が出たので、ロンはそれなりに落ち着きを取り戻した。
改めて、ブリッジの隅で小さくなっているアリスに目を向ける。
「アリス、だったか」
ロンは口早に尋ね、返事を待たずに続けた。
「家は、どこだ」
アリスは首を横に振る。答えたくないらしい。
「家出か?」
やはり、首を横に振る。
何か、理由ありらしい。制服を着ているところを見ると、家出ではなく、逆に学校を飛び出して家に逃げ帰ろうとしているとも考えられる。
ロンとて、鬼ではない。いつもの密航者なら有無を言わさず船からたたき出すところだが、今回の相手は年若い女の子だ。時間に余裕さえあれば、きちんと親元へ送り帰してやってもいいと思う。あるいは金銭に余裕があれば、定期旅客便で家まで帰れるだけのクレジットを恵んで降ろしてやってもいい。
どちらの余裕もロンにはなかった。
今回の運行先は星系外だ。そこで荷降ろしをすれば、すぐに次の仕事を取る手はずになっている。デオラ星系に戻るのはずいぶん先の予定だし、寄り道をしている時間もない。
むろん、コンスエロに引き帰すなど論外だ。今にも、軍の連中が追跡隊を差し向けてくるかも知れないのだ。一刻も早く目的地に着いて、ヘレネに善後策を講じてもらわなくてはならない。
そして金はと言えば、これがまた悲しいほどに、ない。
ロンは自分を納得させるように言った。
「ま、なんにせよ、この船に密航したのが運の尽きだったと諦めるんだな。俺は運送屋で、この船は客の荷物を運搬中だ。寄り道してるヒマはない。どんな事情があるかは知らんが、おまえの相手をしている余裕はないんだ。〈プリマヴェーラ〉に着くまでのどこかで、とっとと降りてもらう。それまで、大人しくしてろ。わかったな?」
一気に喋り終えた。相手の反応を期待するのはムダだと思ったからだ。
しかし意外にも、アリスは問いかけてきた。
「警察とか、軍とかに、引き渡したり、しない?」
ロンは一瞬だけ返事に詰まった。そんなもの、願い下げだ。
「そうしたいのは山々だが、先を急ぐもんでね。とにかく、今の仕事が終わってからだ」
答えながら、アリスに歩み寄った。
「さて、立ってもらおうか。いつまでもそんなところで頑張られたんじゃ、こっちが困る」
いつもの調子で襟首をつかもうと手を伸ばした。が、途中で引っ込めた。アリスは体をびくつかせたが、それでもヘッドホンに手を添えたままよろよろと立ち上がった。
ロンは先に立って歩き出した。
「どこへ?」
数歩進んだところで声がした。振り返ると、アリスは突っ立ったままだった。
「ついて来い。さっきの船倉がよければ船倉にいりゃいいが、その気があるなら船室を使わせてやる。どちらでも好きにしろ」
今度は黙ってついて来た。左足を軽く引きずっている。
もともと、それなりの数の乗組員のことを想定して建造されているメモリア号には、複数の居住区画がある。そのうち、もっとも設備の整った船室のあるブリッジの真下の区画へアリスを連れて行った。とはいえ、現実にはロン以外に乗組員はいないから、最初から造りつけの調度品以外には何もない部屋だが。
船室のひとつにアリスを押し込んだ。
「好きにしてろ。ただし、鍵は外からかけておく」
船室の真ん中できょろきょろと周囲を見回しているアリスにそう言い置くと、ロンは通路に出て、言葉どおり施錠しようとした。
が、思いついて、もう一度入室した。
「おまえ、年はいくつだ?」
アリスはベッドの端に腰かけていた。
「十四」
「そうか……それじゃ、いいか。おかしな真似をするなよ」
扉を施錠し、ブリッジへ引き上げた。
ブリッジは、もとの平穏を取り戻した。
体になじんだ主操縦席に足を投げ出して座る。
レーダーのモニターが発する、とぅーん、とぅーん、という規則正しいかすかな作動音だけが、ブリッジの彩りだ。
やっと一人になれた。
軽く眼を閉じて、全身を脱力させ、ため息をつく。
疲れきっていた。
あんな年ごろの少女と接したことなど、ほとんどない。慣れないことは、くたびれる。
十四歳か……。
頭の中で十四という数字を書いてみて、その上に三十八と書いてみる。
本当なら、俺にもあれぐらいの年の子どもがいてもおかしくはない。
もしそうだったなら、俺は今ごろ、何をしていただろう?
それは、どんな暮らしだったろう?
しがない運送業者なんかじゃなく、もっとこう、別な……。
『磁力推進システム起動します。位置制御ジャイロに数値の入力を要求します。磁力推進システム起動します。位置制御ジャイロに数値の入力を要求します』
コンピュータの声で、ロンの空想は中断された。
頭を振りながら、副操縦席へ移る。
しょせん、俺の人生は、あの時から止まったままだ。今さら、何を望むというのか。
副操縦席と主操縦席を何度か往復する途中で、疲れているせいだろう、何もないはずの床に足を取られ、シートのひじ掛けに膝をぶつけてしまった。
「つっ……!」
ロンは思わずうめき声を上げた。
唇をゆがめて、ぶつけた膝をさすっているうち、アリスの膝の傷が思い出された。
航法コンピュータへの指示を入力し終えると、ロンは腰を屈めて膝をさすりながらブリッジを出た。
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