第二章 デオラⅢ【2】
ちょっとかび臭い空気の中で、アリスはマットが剥き出しになったベッドに寝転がっていた。
大きな船室だ。調度品はベッドとライティングデスクだけだが、接客用のテーブルが置いてあった形跡もあるし、小さなキッチンとバスルームもついている。ただし、使われた形跡はまったくない。
天井を見上げながら、胸のペンダントに手をやった。
ダイヤルをいっぱいに緩める。
とたんに、顔をしかめた。耳が割れそうなやかましさだ。あわててダイヤルを絞り、今度はゆっくりと、探るように緩めていった。
軍が追いかけてきている様子はない。
しばらく確かめてみたが、大丈夫なようだ。
そうするうちに、やかましさにも慣れてきた。
なんとか逃げのびることができた……。
その時その時は必死だったから特に意識はしなかったが、いま振り返ってみると、よく無事でいられたものだ。
特に、収集ボックスを出てこの船へ逃げ込もうとした矢先に警務隊に発見された時は、もうだめだと思った。
咄嗟に別の方向へ走って身をひそめ、オートドライブで港内を走りまわる貨物搬送用のイオノクラフトに飛び移り、この船に積み込まれようとしている最後のコンテナの陰で飛び降り、そしてしがみついた。
ほとんど取っ掛かりのないつるんとしたコンテナのわずかな窪みに手をかけて、指の力だけでぶら下がった。
クレーンで吊られている間は、生きた心地がしなかった。コンテナの縁から、わらわらと集まってくる兵士たちの姿が見えた。
どうにか船内にもぐり込めたが、そこは灯りひとつない船倉だ。不安を必死に抑えていると、いきなりエンジンが動き出し、続いて何かが爆発したような大きな響きが聞こえた。アリスはてっきり、船が攻撃されたのだと思い込んで、いよいよ覚悟を決めた。
だから、最後にロンという男が銃を突きつけてきた時、アリスは正直なところ、それほどうろたえなかった。感覚が麻痺していたのだ。
今は、人心地ついた……。
インタラプターを外してみた。
気持ちがじゅうぶんに落ち着いてきたから、やかましさにも何とか耐えられそうだ。
耳が涼しい。
あお向けのまま、インタラプターを手にとって、顔の前で持ち上げる。以前使っていた初期モデルよりも、軽くて、丈夫で、スマートなデザインだ。
――いつでも君を守れるように、精魂こめて作りましたよ。
デオラⅨの旅客港でアリスが定期旅客便に乗り込むまぎわ、ヒルベルト・ローゼンバーグ博士はそう言って、この真新しいインタラプターを渡してくれた。
あれから一年。
その間アリスは、寄宿舎が用意してくれた特別あつらえのバスルームで髪を洗うとき以外、文字どおり肌身はなさず、このインタラプターを着用してきたのだった。
ところどころ、傷や汚れも目につくようになった。教育センターのクラスメートにいたずらされそうになったこともある。知らない間にペンダントのチェーンが切れて、インタラプターのコントロールができなくなり、泣きながらペンダントを探し回ったことも。
ぜんぶぜんぶ、ヒルベルトに褒めてもらいたくて、我慢してきたのだ。
アリスは、今まで生きてきた長さの半分近くを、ヒルベルトと一緒に過ごしてきた。いや、ヒルベルトの助けを得られなければ、アリスの人生は最初の七年だけで終わってしまっていただろう。
ヒルベルトは、身寄りのないアリスを養女にまでしてくれた。けれどアリスは、まだヒルベルトを父親として呼んだことがない。
――ヒルベルト先生。
そう呼びつづけている。
教育センターの中等課程を終えてヒルベルトのもとに戻ったら、その時は、
――パパ。
そう呼ぼうと思っていた。
ヒルベルトの言いつけを守って、勉強して、友だちを作って、自分で自分をコントロールする力を身につけて、インタラプターなしでも問題なく日常生活を送れるようになったら、そう呼ぼうと思っていた。
黙って逃げ帰ったりしたら、叱られるだろうか。
でも、もうイヤだ。
ミラのことを思い出す。
かわいそうなことをしてしまった。あんなに締めつけられて、悲鳴を上げて……。
自分自身の姿を見る思いだった。人間はトリコロールよりも大きくて頑丈だから、つぶされずに済んでいる。それだけのことだ。
叱られたっていい。先生のところに帰りたい。ちゃんと説明すれば、先生はわかってくれる。きっと。こちらから連絡はできないけれど、会って話せばわかってくれる。
アリスはベッドから起き上がった。
船室の壁には、円い小さなシールドが二つ造りつけられている。その向こうは真っ暗な宇宙。
この船は、どこへ向かっているのだろう?
ひとまず軍からは逃げられた今、次の問題はそれだ。
あのロンという船長は、〈プリマヴェーラ〉に着くまでに降ろす、と言っていた。
プリマヴェーラ。聞いたことがない。どこだろう?
円形シールドの外を見た。見たからといって、プリマヴェーラを探し出せるわけもない。けし粒みたいな色とりどりの星の光が散らばっているだけだ。
不意に、耳鳴りがした。
頭の芯がずきん、と疼いた。
大急ぎでインタラプターを被った。
目には何も見えないけれど、このあたりの空間には、何か飛び交っているらしい。〈デオラストーム〉とかいうのがもうすぐ始まるせいかも知れない。
急に心細くなってきた。
ヒルベルト先生のところへ帰りたい……。
衝動的にアリスは立ち上がった。
これだけの船だ。小型のシャトルや緊急脱出用のボートぐらいは積んでいるだろう。
逃げよう。
シャトルやボートの操縦方法など、聞きかじったことすらない。そんなことはどうでもよかった。乗ってさえしまえば、何とかなる。そう思った。
ドアに跳びついた。
開かない。
さっきは自動で開閉したのに。
ドアに手をかけて引いてみる。びくともしない。
施錠されている。
いても立ってもいられなかった。力任せにドアを叩いた。
握りこぶしの小指側が赤く腫れてきた。
ヒルベルト先生! 助けて!
心の中で叫んだとき、ドアの向こうでカシュンという乾いた音がした。
ドアが開いた。
弾丸のように飛び出したが、壁に阻まれて一歩も進めなかった。
見上げると、壁だと思ったのは、ロンの胸板だった。
「出してよ! 出して!」
こんどは胸板を叩いた。が、すぐに両腕をつかみ上げられた。
「大人しくしてろと言っただろ!」
手首に激痛が走った。ロンは、右手一本でアリスの両手首をひとまとめにいましめていた。足が宙に浮きそうだった。
「放して!」
「部屋の中に戻れ」
ロンが腕をひと振りすると、アリスは部屋の中央のベッドまですっ飛ばされた。
すぐにスカートの裾を押さえ、アリスは上体を起こしてロンを睨みつけた。
ロンは気まずそうにちょっとうつむくと、左手に持っていたものを乱暴に投げて寄越した。
「使え。チャージはしてある」
足もとに落ちたそれを拾い上げてみると、小さなジェネレーターと操作ダイヤルがついた、金属繊維製の筒状のサポーターだった。〈メディカルプロセッサー〉だ。ケガをした箇所に巻きつけておけば、新陳代謝が活性化されて治癒が促進される。軽傷の場合専用の、簡易医療器具。
おっかなびっくり手に取って、膝にかぶせ、ジェネレーターのスイッチを入れた。じーん、と心地よい波が肌に伝わってくる。
「あと、この区画の水のリサイクラーを動かしておいた。シャワーが使いたければ使え。ただし、おまえが着られるような替えの服はない。プリマヴェーラまでは五日かそこらだ。それまで、ガマンしろ。じゃあな」
慌てた口調で言い終えると、ロンは逃げ出すようにその場を去ろうとした。
「待ってよ」
アリスは呼び止めた。ロンは通路に出たところで振り返った。
「なんだ?」
面倒くさそうにロンが聞く。
「プリマヴェーラ……って、どこ?」
「どこ、と言われてもなあ」
ロンは再び船室へ入ってきたが、一歩入っただけで足を止めた。
「場所を口で説明したってわからんだろ。ま、遠くだ」
「デオラⅨよりも?」
「ああ。当然だろ?」
当然と言われても、アリスにはわからない。答えられずにいると、ロンのほうから問いを重ねてきた。
「デオラⅨに行きたいのか?」
アリスはコクンと頷いた。
「なるほどな」
「近くを通ったりしない?」
「残念ながら、方向が正反対だな。デオラのLIPの場所は知ってるか?」
LIP、と言われて、ようやく気がついた。
「プリマヴェーラって、星系外?」
「そうだ」
LIPは、デオラⅨの軌道付近にある。ただし、デオラⅨそのものとは、恒星デオラをはさんでちょうど反対側だ。
「LIPまでざっと四日。HLAでジャンプして、LOPからプリマヴェーラまで一日弱ってところだな」
「その後は? デオラに帰ってくる?」
アリスは気負い込んで尋ねたが、ロンは唇を尖らせた。
「プリマヴェーラで、また次の仕事にありつける予定だ。たぶん、〈リューベック〉方面だな。デオラに戻るのは、だいぶ先だ」
「デオラⅨに、寄れない?」
「寄れるもんか。それまでにはたたき出すと言ったろ。甘ったれるんじゃない」
ロンがむっとした表情を見せた。機嫌を損ねたようだ。
面倒くさそうな受け答えに終始してはいるが、ロンはアリスの問いには、すべてにちゃんと正当な返事を返してくれている。教育センターのクラスメートとの不毛な人間関係にうんざりしていたアリスには、たかがその程度のことが、嬉しかった。だから、ついなれなれしい言い方になってしまった。それが失敗だったらしい。
「だいたい、何の義理があって密航者の頼みなんか聞かなくちゃならないんだ?」
ロンが言い募った。
メディカルプロセッサーの波動が、体になじんできた。センサーが皮膚や筋肉から着用者の固有電位を読み取り、最適の波動を自動的にチューニングしてくれるのだ。
アリスは、膝のプロセッサーに目を落とし、それからまたロンを見た。
急に腹立たしくなってきた。
「けち」
そう口走っていた。
「なんだと?」ロンが怒鳴る。「もういっぺん、言ってみろ」
「けち!」
アリスは怯まずに言い返した。
「けちけちけちけち!」
言っているうちに、なんだか度胸がついてきた。自分の言い分のほうが正当だと思えてきた。
「このガキ……」
ロンの顔に赤みがさした。
しかし、一瞬だった。すぐに皮肉な笑顔になって、腰に手を当て、胸を反らせた。
「けちで結構だ。俺を何だと思ってる? 運送屋だ。荷物を運んで金を稼ぐのが仕事なんだ。人間さまを運ぶのは、領分外だ。それとも何か、おまえが俺をチャーターするか? 今回の仕事の契約料以上の金を支払ってくれるんなら、プリマヴェーラ行きを取りやめて、デオラⅨへ回ってやってもいいぜ」
アリスは返答に窮した。お金なんて持ってるわけがない。それより何より、なんてイヤな言い草だろう。この男は、なんでもお金で解決するのだろうか。
「お金なんか……」
「ああ? 聞こえないな」
わざとらしく耳に手を当てる。
お金なんかない、とアリスがもう一度言おうとした時、船室の天井のスピーカーが口を挿んだ。
『無限加速電子エンジン、推力低下。位置制御ジャイロに補正数値の入力を要求します。無限加速電子エンジン、推力低下。位置制御ジャイロに補正数値の入力を要求します』
ロンが天井を見上げて舌打ちした。
よくは分からないが、どうやらエンジン不調らしい。とすると、さっきの耳鳴りは、デオラストームの先触れではなくて、エンジンのせいかも知れない。
「急用だ」
天井へ視線を向けたまま、ロンがうめくように呟いた。
「大人しくしてろ。いいな?」
背を向けて立ち去ろうとする。
「待ってよ」
推力低下とか言っていた。何かたいへんな故障でも起きたのだろうか。
「なんだ」ロンが足を止める。「俺は忙しいんだ」
「手伝う」
アリスは短く言い切った。
「はあ?」
ロンが素っ頓狂な声を上げた。アリスはすかさず言いかぶせた。
「お金、払えないけど、なにか手伝う。それじゃダメ?」
「よしてくれ。この船には、おまえに手伝えるような仕事は、何ひとつありゃしない」
「やっぱり、けちだ。けちけちけち」
「やかましい!」
ロンはとうとう大声を出した。
「よし。そこまで言うんなら、ちょっと来てみろ。お望み通り、手伝わせてやる。吠え面かくなよ」
ロンは先に立って歩き出した。アリスはつき従う。膝の痛みはほとんどひいていた。
行き先はブリッジだった。ロンは、正面左の席に座るようアリスに命じた。
「算数は、学校で習ったな?」
小馬鹿にしたような言い方だが、逆らわずに「うん」と答えた。続けて、
「何するの」
「自動操縦システムの肩がわりだ」
ロンは、コンソールに埋め込まれている球形のモニターを指差し、
「位置制御ジャイロのインジケーターだ。これが上下前後左右とも真ん中になるように計算しろ。計算したら、キーボードで入力する。入力したら、俺に言え」
そう指示すると、右隣の席に着いた。こちらが主操縦席らしい。
手順をもう一度確認したかったが、ロンは自分の作業に集中している。愛想のない横顔だ。
しかたがない。
アリスは黄色に点滅している球形モニターに目をやり、数値を読み取った。
計算じたいは簡単だった。しかし、入力には手間取った。教育センターでもコンピュータは扱っていたから、キーボードには慣れていたが、目の前のキーボードは規格が違うらしく、操作しづらいことこの上ない。おそらく、自動操縦システムだから、人間が操作する時のことなど考慮していないのだろう。
「早くやれ」
ロンが毒づく。
必死で操作を終えた。
「入力、したよ」
「よし」
ロンは自席の平面モニターを確認しながら、操舵桿を動かしたり、コンソールのレバーを動かしたりしていたが、ひとしきり操作するとアリスのほうを向いて、
「そっちにフィードバックが行っただろ。現時点での補正をしろ。それから、このあと必要になる位置制御のパターンがいくつか表示されるから、ひとつ選べ」
補正は、すぐにわかった。航法コンピュータが示唆する数値を入力するだけだ。しかし、
「選べ、って言われても、どれがいいのかなんてわかんない」
「バカ。どれだっていいんだ。好きなのを選べ」
「え? だって」
操縦の理屈は分からないが、間違った選択で船がとんでもない針路を取ったりしたらどうするのか。
しかしロンは当たり前みたいに言った。
「どうせまた推力不足で誤差が出るから、どれだって一緒なんだよ。とにかく、どれかを選択しておかないと、こっちの端末が操作を受けつけてくれないんだ。いいからさっさとやれ」
言われたとおり、表示された五つのパターンのうち、いちばん上を選んで入力した。
ロンはまた自席の端末を操作した。
『補正完了。自動航法、ロックします。補正完了。自動航法、ロックします』
ぐん、と船が加速した。
ロンは座ったままそっくり返って、うーんと大きく伸びをした。
そして、
「だめだな。俺が一人でやったほうが速い」
アリスに向かってそう言った。さらに、
「部屋に戻ってろ。邪魔だ」
感情のこもらない平板な声だった。
アリスは、言われたとおり部屋へ戻ることにした。
何か手伝ってやれば機嫌がよくなるだろうから、そうしたらもう一度デオラⅨ行きを頼んでみよう。そう思っていたが、あてが外れた。
デオラⅨへ向かえないのであれば、何か方法を考えなくてはならない。
ブリッジを出てエレベーターで降下し、船内通路を歩きながら、アリスはインタラプターのコントローラーを少し緩めた。
軍は、まだ追ってきていない。
苛立ち混じりの鈍くて遠い叫びのような〈音〉。これがストームの先触れだろうか。
それとは別に、心の中に果汁がじゅわっと溢れてくるような、不思議な温かい〈声〉みたいなのが漂っている。これは何だろう?
エンジンの調子は直ったらしい……待って。これは何? あと、これと、これ。
コントローラーをさらに緩めて、あやふやな不快感をしっかり捕まえようとした。
その途端。
ぎゅいいん!
アリスは不意打ちを食らって、その場で卒倒しそうになった。新しく強烈な響きが、いきなり襲いかかってきたのだ。
直後、警報らしいブザーが通路に鳴り響いた。続いて、航法コンピュータのアナウンスが聞こえた。
『中央船倉の気密度低下。外壁損傷の可能性あり。中央船倉の気密度低下。外壁損傷の可能性あり』
非常事態らしい。
アリスは、まとわりつく虫を追い払うように頭を左右に振り、ペンダントのダイヤルを元に戻して、ブリッジ行きのエレベーターのほうへ駆け出した。
どうして戻ろうとしてるんだろう、と自問しながら。
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