異界の旅はほどほどに

かぐや王子キティ雄

迫りくる奇人変人編

第1話 スポーツカーに跳ねられて

 長谷川潤はせがわじゅんは死亡した。真っ赤なスポーツカーに跳ねられて。

 その経緯はとある真冬の日、彼が深夜〇時の最終列車を降りたところに遡る。


 講義にバイトにサークルの飲み会。多忙を極めた一日を辛くも乗り越えた彼は、すでに息も絶え絶えになっていた。

 あとは家に帰り、灯油ストーブのスイッチを入れ、分厚い毛布にくるまって寝るだけ。人気のない電車の中、寝てしまわないよう立って吊革につかまる彼の頭には、そんな未来がささやかな安心感とともに描き出されていた。


 しかしホームを出た彼を迎えたのは、滝のような豪雨と肌を切り裂く冷たい突風だった。


「え……」


 町中を覆う分厚い雨が、街灯やネオンの光を淡くぼやかしている。車通りは少なく、通りの喧騒もいつもより小さい。代わりに地面を打つ激しい雨音のせいで鼓膜がキリキリと震えた。


「うわぁ、まじか」


 彼は重たい溜息を吐きながらも、自分が次にするべきことを考えていた。


 駅から家までおよそ八百メートル。徒歩でも十分と掛からない距離を、自分ならどれほどの速さで走り抜けられるか。

 小中高と格闘技を続けてきた彼にはいくらか自信があった。きっと五分もいらない。全力疾走で行けば三分以内に帰宅できるだろう。


 しかしそれらは全て、彼が万全のコンディションであった場合の話。現在、彼の眠気と疲労は許容量の限界を迎えようとしている。体は冷え切って、震えが止まらない。そして何よりこの狂風暴雨――。


「これは……」


 走っている途中、水溜りに足を滑らせるかもしれない。眠気のあまり道端に倒れ込むかもしれない。衰弱した身体が冷たい雨風に耐え兼ねて、最悪の場合、死に至るかもしれない……。


 何通りもの悪い憶測が頭の中を飛び交う。考えれば考えるほど、道半ばで野垂れ死にして雨に打たれる自分の姿が脳裏に浮かび上がってくる。


 きりがない。このままここにいても、真冬の夜気に体温を奪われていくだけだ。


 ならば――


「……しょうがない、走るしかないかあ!」


 そう叫ぶなり長谷川潤は降りしきる雨の中へ駆け出していった。


======


「寒い寒い寒い寒い寒い死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!!」


 長谷川潤はがむしゃらに走っていた。ネオンに彩られた繁華街の景色が音もなく視界を流れていく。


 今、彼の心にあるものはただ一つ。それは傘を忘れたことについての自責でも、安易に嵐の中へ飛び込んだことへの後悔でも、まして突然の悪天候に対する憤慨でもない。

 それは純粋な危機感だった。体の芯まで刺し貫くような寒さ、痛み。そこから来る純粋な、生命としての恐怖。


 だから叫んだ。脇目も振らず走って、叫んで、叫び続けて、それでやっと、今にもばらばらに崩れそうな自分を保てっていられるような気がした。


「ああああああああ!!!! 寒い寒い寒い寒い寒い!!!!」


 遠のきそうになる意識を幾度となく引き戻しながら、ただひたすらに四肢を動かす。

 すでに思考は停止している。雨に顔が濡れるのも構わず走り続ける。水溜まりを避けようともしない。目は光を失い、死人ように虚ろだ。


 繁華街を後にした彼は今、駅から少し離れた小さな商店街にやって来ていた。多くの店が閉まっているせいか、通りには妙に陰湿な雰囲気が立ち込めている。と、彼は近道となる一本の路地に差し掛かった。


 街灯の光が届かない路地は、道の果てに小さな光の点が認められるだけで、ほとんど真っ暗闇に近かった。道幅は狭く、肩幅二つ分もない。


 しかし彼はくるりと回れ右をすると、ためらう様子もなくその中へ入り、暗い道を少しも速度を緩めることなく駆け抜け、道の終わり近くで大きく足を踏み出し、そして――


 ――その先に溢れる、鮮烈な光の中へ勢いよく飛び込んだ。


 濡れた路面。星のない夜空。ヘッドライトの光を反射する無数の雨粒。


 そこで彼はようやく正気を取り戻した。音のない、奇妙なまでに鮮明な情景が、彼の瞳の中をゆっくりと流れていく。


「あれ……」


 そこは幹線道路の真ん中だった。次の瞬間、視界にスポーツカーの真っ赤な車体が現れる。そしてそれは彼、長谷川潤の見た人生最後の景色となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異界の旅はほどほどに かぐや王子キティ雄 @sennacherib

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ