閣議は踊る
厚く塗られた漆喰しっくいの壁の向こう、巨大な天井画が空を仰ぎ、マホガニーの机が威圧感を放つ広間には、重々しい沈黙が満ちていた。
ここは帝国の心臓―― 帝国宰相官邸内会議室だ。
高官たちの咳払いすら慎ましやかに、銀のティーセットに紅茶が注がれる音がやけに響く。
俺――否、ヴィルヘルム二世の姿をしている俺は、勿論その中央に座っている。
昨日の目覚めからまだ一日も経っていない。
だが、今の俺にはこの国の命運がのしかかっている。
「……陛下、外務省より、情勢報告でございます」
進行を担う侍従長が合図すると、細身の眼鏡の男――外務大臣が立ち上がった。
「西方国境において、フランス軍の動きがやや活発化しております。軍事演習との情報もありますが、隣接村落における移動量が過去より増加傾向にあります」
俺は無言で頷いた。
言葉にすれば余計なものが漏れる。
未来を知っていることを匂わせてしまっては、立場を危うくするだけだ。
(まだだ。俺の立場は皇帝だが、中身は現代の日本人。しゃべりすぎれば墓穴を掘る)
外務大臣の報告が続く。
その言葉の端々に滲にじむのは、“平和への期待"という名の鈍さだ。
「我が国としては、現時点では仮想敵との外交衝突を避ける方針を維持――」
(だが、お前らは知らないんだ。もうすぐサラエボで銃声が鳴ることを。第一次世界大戦が始まることを)
現実と知っている未来の乖離が、脳を刺すように痛い。
「……軍の準備状況は?」
俺は自然な口調を装いながら尋ねた。
参謀総長のモルトケ*1が、重い声で答える。
(……典型的な、軍人の顔だ)
年の頃は六十手前。額は広く、表情は読めない。
口調も動きも節度を超えて抑制されている。
あの男の目には、俺の言葉も表情も、すべてが評価の対象として映っている気がした。
(何を見て、何を考えている……?)
軍務一筋で生きてきた者の重さがある。だが、それが今後の改革にとって、障害となるのか、それとも支えになるのか――まだ、判断がつかない。
「西部においては、シュリーフェン・プラン*2に基づく演習と予備動員の訓練を継続しております。現状、兵站線と鉄道輸送の調整に若干の課題があり、実行段階には今しばらくの準備期間を要する見通しです」
モルトケの報告は淡々としていた。
だが、その当たり前のような説明に、俺は思わず口を開いてしまった。
「……つまり、“奇襲を前提とした作戦”ということか?」
その瞬間、空気が凍った。
椅子の軋む音すら止まり、一瞬だけ閣議室全体が静止したように感じた。
モルトケの眉が、ごくわずかに動く。
外務大臣が視線をこちらに寄越す。
後方に控える侍従すら、目を逸らすように視線を下げた。
(……やってしまった)
胸の奥が冷えた。
“奇襲”という言葉――それは、作戦の本質にして最大の機密だ。
ベルギーを強行突破し、短期決戦でフランスを屈服させるためには、英国が動く前に終わらせなければならない。
その“前提”を、俺は知りすぎているような口ぶりで言ってしまった。
(本来の皇帝が、どこまで作戦の詳細を把握していたのかはわからない……が、今の俺の発言は"知りすぎ”だ)
数名の閣僚の視線が、じわりと俺を刺してくる。
とくに一人――参謀本部の書記官、灰色の瞳を持つ中年軍人が、まるで何かを計るように俺の目をまっすぐに見据えていた。
沈黙を貫いているが、その目はすべてを記録している。
ああいう男は、必要な瞬間にだけ動き、致命的な一手をためらわない――そういう匂いがした。
(こういうのが一番手ごわい。参謀本部の“影”ってやつだな)
俺は落ち着いた顔を崩さぬよう、わざと間を置いて椅子に背を預けた。
「……あくまで想像にすぎん。忘れてくれ」
そう言うと、何人かがホッとしたように息をついた。
(危なかった。次からは言葉を選ばなければ、何もできなくなる)
◆
閣議は続いたが、俺の頭の中は混乱していた。
(ダメだ、やはり無意識に未来の知識に頼ろうとしてしまう)
皇帝として、この時代の人々に受け入れられる振る舞いをせねばならない。
だが一方で、未来を少しでも良くするためには、正しい判断と修正が必要だ。
――それは綱渡りのような矛盾だった。
「……では、本日の議題は以上となります」
進行役の声で閣議が締めくくられた。
高官たちは皇帝に礼をし、次々に部屋を後にする。
その中で、モルトケがふと立ち止まり、俺にだけ聞こえるような小声で言った。
「陛下。……我々軍部は、常に最悪を想定し備えております。ご安心を」
それは忠誠にも見えるし、牽制にも聞こえた。
「……期待している。モルトケ将軍」
お互いに微笑みを返しつつも、俺の中では警戒心がひとつ芽を出した。
◆
俺は会議を終え、執務室に戻った。
机の上には、分厚い書類の束がいつの間にか積まれていた。
報告書、覚え書き、地方からの意見上申――どれも形式的で退屈なものばかりだ。
その中で、一枚だけ違和感のある紙が挟まっていた。
茶色がかった便箋、署名も捺印もなく、官製の用箋でもない。
だが内容は――短く、そして異様に鋭かった。
皇帝陛下におかれましては、御発言の一つ一つが“国家”そのものでございます。
ご自覚のほど、お願い申し上げます
文体は丁寧だが、文章の端々に皮肉と冷たさがにじむ。
“国家そのもの”という言い回し――これは忠告でもあり、警告でもある。
(……俺の発言、やはり見られてた)
今日の「奇襲」発言。それに対する反応。
モルトケの意味深な言葉。そしてこの覚え書き。
(これは――内務官僚か、それとも軍部の誰かか)
署名がないこと自体が、組織としての立場を匂わせていた。
あえて個人を伏せ、匿名という形で“皇帝に忠告する”というのは、
この国において「あなたは見られている」という無言の圧力だ。
(……敵を作るには、まだ早い)
正論を吐けば受け入れられるとは限らない。
むしろ、ただの理想主義者か、狂人扱いされる可能性すらある。
俺は静かに覚え書きを折りたたみ、他の書類の下に沈めた。
そして小さく、息を吐く。
(まだだ。焦るな。俺の言葉一つで、この国は動く。だが、潰されもする)
冷たい現実と向き合いながら、俺はようやく椅子に背を預けた。
◆
息抜きがてら王宮内を散策する。
王宮の壁にかかる一枚の絵――かつてのカイザーたちの肖像画が並ぶ回廊。
その中で、俺が知っているのはごく僅かだ。
皇帝という存在は、象徴でありながらも時に国を決する剣となる。
今、俺はこの剣を振るうのが正しいのかすら分からない。
……だけど
(この国を、守りたいと思ってしまう……)
それは、俺の本心だった。
日本人としての人生しか知らなかった。
ドイツ帝国という存在にロマンを感じていたが、愛国心などあったわけではない。
なのに――この重厚な歴史の中に放り込まれ、数々の破滅を知っている今、
俺はこの国の末路を黙って見過ごすことができない自分に気づいてしまった。
(俺がそう思うのは……この身体のせいか? それとも――)
……いや、それだけじゃない。
この国の未来を知っていて、
それでも何もしないなんて――俺には、そんなのできない。
俺が“俺”である限り、きっと背を向けることなんて、できやしない。
心が、皇帝いう存在に引っ張られていくのを感じる。
そしてまた、自分自身に問う。
(それでも――俺は、俺だ。皇帝でも、神でもない。ただの現代人だ)
だからこそ、冷酷になりきれない。
だからこそ、理想を抱いてしまう。
(その理想が、破滅を招くなら……)
俺は静かに、自問を切り上げ、歩き出した。
ヘルムート・フォン・モルトケ(小):
ドイツ帝国陸軍参謀総長(在任:1906〜1914年)伝説的名将モルトケ(大)の甥であり、シュリーフェン・プランを引き継いだが、計画をやや弱体化させた。
慎重で柔軟性に欠けると評され、軍部内では賛否が分かれる存在。皇帝との距離感はやや遠め。
シュリーフェン・プラン:ドイツ帝国が採用した対仏侵攻計画。
フランスを短期決戦で撃破するため、ベルギーを経由して北部からパリを急襲する構想で、元参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンが策定し、モルトケ(小)により修正された。
第一次世界大戦で実行されたが、予想通りには機能せず戦線は膠着した。
この構想は後にナチス・ドイツが1940年のフランス侵攻で参考にし、マンシュタイン案によりアルデンヌを抜けて機動突破することで初代計画の失敗を克服した。
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