皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~
@CoreKun472256
始まり
寒い。
目覚めた瞬間、全身に触れる空気がそう訴えてきた。
暖房が切れた冬の朝のような、肌を刺す静けさと寒さ。
それは慣れ親しんだアパートの空調とも違い、何かもっと原始的な冷たさだった。
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、天井のシャンデリア。電球ではなく、蝋燭のような形状の光源がずらりと並び、鈍く光っている。
壁は漆喰に金のモールが走り、天井の四隅には天使や植物を模したレリーフが彫り込まれている。
そして目の前には、想像を超えた豪奢な空間が広がっていた。
重厚なカーテン。手織りの絨毯。
棚には銀の燭台、ガラスの香水瓶、蓋のついた陶器の壺。
すべてが、博物館で見る“19世紀のヨーロッパ貴族の寝室”そのものだった。
「……なんだ、これ」
喉が乾ききっていた。声はかすれ、低く、枯れていた。
体を起こそうとして、そこで更なる異変に気づく。
――重い。
筋肉のつき方が違う。胸板が厚く、肩幅が広い。
思わず腕を見下ろせば、白く毛の濃い、明らかに中年男性の手があった。
(……俺の身体じゃない)
混乱が頭の中を駆け巡り鳥肌が立つ。
夢か? 事故にあって昏睡状態なのか?
そうでなければ、これは――
そのとき、
「……陛下。お目覚めでしょうか?」
控えめながらも澄んだ女性の声が、扉越しに響いた。
「現在午前七時三十五分でございます。午前十時には閣議かくぎの予定がございます。ご体調が優れないようであれば、内務省へ伝達を――」
「……いや、大丈夫だ」
つい反射的に返事をした。だが声は――自分の声ではなかった。
低く、威厳を帯び、軍人のような強さと貴族のように洗練された抑揚。
それよりも衝撃的だったのは、口にした言葉が――日本語ではなかったことだ。
(……え?俺は今……何語を喋った?)
理解はできている。言葉の意味も、相手の返答も完全に頭に入ってきている。
だが、確かに口から出たのは、自分の母語ではない。
しかも流暢に、まるで長年それを使ってきたかのように。
異常な状況に、冷や汗がにじみ過呼吸気味になる。
だがそれと同時に、頭のどこかが冷静になっていく。
「落ち着け。とりあえず鏡で今の自分を見てみよう。俺の身体に何が起きているのかを確認しなければ……」
口に出すことで心を何とか落ち着かせた。
それから、おぼつかない足取りでベッドの縁に手をかけ、よろめきながらも立ち上がる。
視線の先、鏡の前までふらつく体を引きずるようにして歩き鏡の前に立つ。
そして――固まった。
鏡に映っていたのは、やはり自分ではなかった。
黒い軍服のような寝間着。
鋭い青い目*1。分厚い口髭。額に皺。中年を過ぎた貫禄と疲労のにじむ顔。
この顔には――見覚えがあった。
教科書で、ドキュメンタリーで、写真で、何度も何度も見たあの顔。
「……ヴィルヘルム2世……?*2」
思わず名を口にする。
まさか。そんな馬鹿な。
転生? 憑依? そんな非現実が――今、現実として目の前に広がっている。
彼は元々日本で生きていた。
歴史学を専攻し、軍事史を趣味にし、ドイツ帝国*3とオーストリア=ハンガリー帝国*4をこよなく愛していた。
ビスマルクの退任から第一次世界大戦への流れ、ヴェルサイユ条約の屈辱、ワイマール共和国の不安定な体制――彼はすべてを"知識”として持っていた。
だが今、その歴史の中枢に、自分が立っている。
つい頬を引っ張る。痛い。
(夢じゃ……ない?)
「お召し替えをご用意しました、陛下」
扉の外で声がした。中年の男の声。侍従だろう。
扉が開き、白髪まじりの従者が銀の服装棚を押し入れてくる。
彼はヴィルヘルム2世の顔を見て、微笑んだ。
「お目覚めの様子を拝見し、ご安心いたしました。」
(……良かった。俺に、違和感を抱いていない)
だが、それはそうだ。
彼らにとっては、“今ここにいる皇帝”こそが唯一の現実であり、皇帝そのものなのだ。
彼はふと思った。
(この状況――使えるんじゃないか?)
彼は知っている。この帝国の未来を。
これから始まる、破滅の連鎖を。
◆
1914年、サラエボ事件を引き金として始まる第一次世界大戦。
ドイツ帝国はシュリーフェン・プランに従い、ベルギーに侵攻。
中立国を侵犯したことで、英国を敵に回し、四面楚歌に陥る。
戦争は泥沼化し、兵站は崩壊、国民生活は困窮、最終的に敗北。
ヴェルサイユ条約で莫大な賠償を背負い、体制は崩壊、ナチスが台頭する。
――そして第二次世界大戦。ヨーロッパは地獄となる。
(……未来は変えられる。知っていれば)
そんなふうに思っている。
ドイツ皇帝に憑依した? まるで悪い冗談だ。
でも、これは――チャンスなのかもしれない。
戦争の悲劇も、帝国の崩壊も、知っていれば防げるはずだ。
未来を知っている“俺”なら、何とかなる。……そう思いたい。
ドイツ軍部は保守的で、陸軍は皇帝の命令にすら異を唱えるほどの自治を誇る。
官僚機構は重厚にして硬直。貴族層は利益にしか興味がなく、新聞は検閲され、帝国議会ライヒスタークは“議会”と呼ぶには形だけの存在。
この帝国は、現時点では手遅れに近い。
(でも……この知識を使えば……!)
「……服を。頼む」
皇帝は立ち上がった。
彼が導く未来が、血と鉄に濡れることのないように。
世界を焼く戦争が、起きないように。
「陛下、本日は参謀本部から、ベルギー国境の動向について報告がございます」
「……そうか。全て通すように」
彼には所謂“転生モノ”のような楽観が残っていた。
自分だけが知る未来。歴史を知っているという優越感。それが、どれほど儚く脆いものかも知らぬまま――。
これは未来の記憶を持つ男が、
ドイツ帝国の運命に挑む。
退廃を前に立ち上がる、帝国皇帝の物語――
青い目:当時のドイツでは、青い目はしばしば支配者の象徴とされてきた。とりわけ皇帝のそれは、ホーエンツォレルン家の血統を示すものとして知られている。
ヴィルヘルム2世:ドイツ皇帝(在位:1888〜1918)、プロイセン国王ホーエンツォレルン家の第3代皇帝かつ最後のドイツ皇帝。1888年に即位し、宰相ビスマルクを解任して帝国の直接統治を志すが、その後は軍部や保守官僚に実権を握られ、政治的に孤立していく。外見は大柄で口髭が印象的。左腕は先天性の障害で不自由であったが、軍服姿は堂々としており、威厳ある振る舞いを周囲に強いていたとされる。
ドイツ帝国:1871年、普仏戦争の勝利を機にプロイセン王ヴィルヘルム1世が「ドイツ皇帝」として即位し成立。プロイセン王国を中心に、南ドイツ諸邦などを連邦的に統合した帝国体制で、宰相が実権を握る半立憲的な君主国家。
オーストリア=ハンガリー帝国:ハプスブルク帝国がハンガリー王国と妥協し形成した二重帝国。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝とハンガリー王を兼ね、両国にそれぞれの議会と政府を持ちながら、外交・軍事・財政は共通の帝国機構で運営する国家。
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