西方の地にて

ベルリン王宮を出た馬車は、鉄道駅へ向けて雪解けの石畳を叩いていた。

曇天の空から落ちる湿った風が、車窓に曇りをもたらしている。

 

「……ご体調は?」

 

向かいの座席に座る侍従が、遠慮がちに口を開く。

 

「問題ない。いつも通りだ」

 

ヴィルヘルム二世の声を模して返したが、その実、胸の奥には重苦しい不安が沈殿していた。

 

――今日、俺は前線を視察する。

 

正確には「演習中の西部方面軍」を名目とするものだが、その実態は、皇帝としてシュリーフェン・プランの実行可能性を自らの目で確認するという一種の賭けだった。

 

“ベルギーを通過しフランスを制圧する”という作戦は、地図上では美しいが、現地の地形、補給、外交的リスクを考慮すれば、到底無傷では済まない。


(……理屈じゃない。現地を見て、実際に肌で感じなければ)

 

 

ベルギー国境を越えてすぐのリエージュ郊外・マース川沿いの一帯、国境に程近い一帯に、演習地と仮設司令部が設けられていた。

駅からは軍用の騎馬車列で移動し、視界に入る兵士たちは全員、塹壕構築や機関銃の陣地構築に追われていた。

 

副官が耳元で囁く。

 

「本日ご案内いたしますのは、フリードリヒ・シクスト・フォン・アルミン中将*1でございます。

西部軍団の実働を統括しており、陛下のご到着を心より――」

 

「構わん、案内してくれ」

 

軍服を纏った男が姿勢を正して一礼する。

 

 

 

 

「陛下、ようこそお越しくださいました。準備の至らぬ点はありますが、できる限りの実態をお見せいたします」

 

(この男がフリードリヒ・フォン・アルミン――)

 

五十を越えたあたりだろうか。皺の刻まれた口元は厳格な表情に固定されているようで、まるで感情を遮断する仮面のようだった。

だが目は違った。わずかに赤みを帯びたその双眸は、現場で長く兵を率いてきた者特有の疲れと諦観を滲ませていた。

 

「期待している。余は、実地こそ最上の報告だと考えている」

 

口にしながら、意識を集中させる。

 

――ここで見落とせば、未来は変えられない。

 

歩き出した一行は、凍土に覆われた演習地の傍らに設けられた、仮設の塹壕地帯を見学する。

兵士たちは懸命にクワを振るっていたが、その動線は狭く、補給車輌が通れる幅ではなかった。

 

「この幅では、物資の搬入が困難ではないか?」

 

「はっ。現地対応で一部拡幅予定ですが、演習中はあくまで小隊単位の動きを重視しておりまして」

 

「小隊の動きだけで戦争に勝てるか?」

 

アルミン中将が固まる。

 

視察に同行していた将校らが、ちらりと互いの顔を見合わせ、

同行の若い参謀は思わず息を呑んだ。

 

「……陛下、戦争の勝敗は、戦術より士気と信念に依るものでございます」

 

「ならば、士気は兵站で養うべきだな。凍えた腹では、どれほどの信念も死ぬ」

 

将校たちの空気が僅かに張り詰めた。だが、その奥に、否定しきれない現実を認めざるを得ないような空気も混じっていた。

 

「……気にするな。続けよう」

 

次に案内されたのは、鉄道貨車を改造した簡易補給基地だった。

 

中には弾薬箱、乾パン、薬品――そして無造作に積まれたコートや毛布が山と積まれていた。近くの係将校が説明を加える。

 

「これらは、もし仏独国境で膠着戦が起きた場合の備えか?」

 

「いいえ、陛下。ベルギー以西は温暖な気候が予想されており、大半はこの地に留まる予定です」

 

「……装備とは、持っていけてこそ意味がある。準備していること自体は評価しよう」

 

アルミン中将が黙る。

その表情には、何とも言えない曖昧な反応が浮かんでいた。

 

(この時代に、こんなことを言えば違和感を覚えるのも当然か)

 

見回せば、補給計画は準備だけは整っていたが、それが戦争の動線に組み込まれているようには見えなかった。

 

軍が準備しているのはあくまで戦勝を前提とした「短期作戦」の装備。

 

長期戦を睨んだ後方支援や、輸送線の整備は、見事なまでに後回しにされている。

 

(このままじゃ、戦いながら餓死する兵が出る)

 

頭が冷える。

 

だが、言いすぎれば疑われる。慎重に、言葉を選ぶ。

 

「アルミン中将、輸送路の再確認を命じる。勝利の道は、鉄路の上にあると心得よ」

 

中将は眉を顰めたが、反論はしなかった。

 

「……は、仰せの通りに」

 

その敬礼には従順さと、わずかな警戒心が交じっていた。

 

 

視察を終え、仮設司令部の幕舎に戻ると、少数の将校が集まっていた。

 

アルミン中将は軍用地図を広げ、改めて進路と部隊配置を説明する。

 

「フランスとの有事が起こった際はベルギー北部の平原地帯を抜け、マース川以西に展開してフランス軍の側背を突く――従来の作戦案通り、これが我が軍の勝機であります」

 

「英国は?」

 

「ベルギーの中立侵犯が遺憾だとは声明を出すでしょうが、即時参戦はしないでしょう」

 

(……しない、ね)

 

俺はその場にあって、図を見下ろした。

 

地図上では平原だが、実際は街道の幅、橋梁の耐久、民間家屋の密集度、全てが計画を狂わせうる。

 

そしてなにより――このプランの危うさは「英国の判断」を甘く見ていることに尽きる。

 

(現代史を知っている俺にとっては、それは間違いないことだ)

 

だが、それをどう伝える?

 

「万が一英国が動いた場合、艦隊戦の準備は?」

 

アルミン中将が言葉を濁す。

 

「……海軍は未だ整備の最中であり、現時点では……」

 

「つまり、背後を完全に明け渡す作戦ということだな?」

 

空気が凍った。

 

「……ご懸念はごもっともにございます、陛下。しかし、我が軍の戦略は――」

 

「勝てると断言できるか?」

 

誰も答えなかった。

 

沈黙を破ったのは、幕舎の奥に控えていた年配の将校だった。

 

「陛下、ひとつ、お訊ねしてよろしいでしょうか」

 

「申してみよ」

 

「この視察は、何を目的としておられるのか。現場の確認か、将軍団への信任の再確認か、それとも――」

 

言葉の先は言わずに止まったが、言外に「疑っているのか」と問うような重みがあった。

 

俺は答えた。

 

「未来を知りたいのだ」

 

一瞬、彼らの視線が揺れた。

 

「勝利が約束されている戦争などない。余が知りたいのは、勝利の幻想ではない。現実として、帝国が有事の際に戦争に耐えうるかどうか――その答えだ」

 

将校たちは無言のままだったが、その視線の中に、ほんの一瞬だけ、敬意のようなものが灯ったのを俺は見逃さなかった。

 

アルミン中将が再び頭を下げた。

 

「……本日陛下がご覧になったもの、我々としても再点検いたします。ご指摘に、感謝を」

 

 

その夜、宿舎の薄明かりの中、俺は手元の地図と書類を睨み続けていた。

 

簡素な机の上には、参謀本部から渡された資料と、昼間に目にした現地写真が並んでいる。だが、俺の視線はどれにも定まらず、しきりに行きつ戻りつを繰り返していた。

 

「……これが、本当に勝てる作戦か?」

 

俺の声はかすれていた。湿った空気と煤けた石炭の臭いが喉に残り、口を開くたびに咳き込みそうになる。

 

目の前にあるのは、地図という名の幻想だ。平原に引かれた進路、矢印、補給線――どれも計算上は美しく整っている。

 

だが、現実には雨が降り、馬車はぬかるみに足を取られ、兵は凍え、武器は錆び、補給は遅れる。

 

(……ここに描かれていないものが、兵士たちを殺す)

 

それは俺の知る史実と一致する。

シュリーフェン・プランは、想定外に脆い。

 

なにより、この時代の軍人たちは、それを“想定外”とすら思っていない。

 

彼らは戦争を、なお十九世紀的な一幕劇ひとまくげきだと考えている。勝敗は数週間の進撃で決し、戦争とは外交の延長に過ぎないと。

 

実際第一次世界大戦時、新しく徴兵された兵士たちは、戦場に送られる列車が発車するとき、駅で見送る母親に笑いながら叫んだという。

 

「クリスマスにまた!!」

 

(……今の俺には、笑えない冗談だ)

 

語る言葉を持っていても、それを口にすれば異端者扱いされる。

 

いや、それ以前に――

 

(周囲の視線が、微妙に変わってきている)

 

気づいているのだ。アルミン中将の静かな警戒、幕舎の年配将校の問いかけ、誰もが「何かがおかしい」と感じ始めている。

 

だが、まだ「それが何か」は掴めていない。今はまだ、皇帝の言葉として聞いてくれている。

 

(……綱渡りだな)

 

声を出さずにそう呟く。

 

この“皇帝の姿”が、どれだけ長く保てるかは分からない。

 

けれど、保たねばならない。

 

帝国の未来が、その虚構の上に乗っているのなら――

 

俺が壊すわけには、いかない。

 

机の上に置かれた懐中時計が、夜半を告げて小さく鳴った。

 

冷えた窓の外は雪ではなく、霧が立ちこめているようだった。

 

灯火の向こう、兵舎の明かりがかすかに揺れる。

 

(彼らを、無駄に死なせてはならない)

 

ひとりごとのように、心の中でそう繰り返す。

 

俺がこの地に憑依してしまった意味は、きっとそこにあるのだと。

 

目の前の地図に、鉛筆を伸ばす。

 

ひとつ、補給拠点の印を修正する。

 

それは誰にも気づかれない小さな点だ。

 

だが、この点ひとつで、何百人かの命が延びるかもしれない。

 

(……それが、俺にできる唯一の戦争の止め方なんだ)

 

視察は終わった。次に動くのは俺だ。

 

だが、まずは一歩ずつ――地雷原を踏み抜かずに、前へ進む。

 

皇帝という存在が、ただの看板で終わらぬように。

 

フリードリヒ・シクスト・フォン・アルミン:将軍級の軍人。1911年頃には西部方面の師団長・軍団指揮官を歴任。前線での指揮経験が豊富で、実務重視の性格。鋭い目が特徴的なイケオジ

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