第14話

 革とオイルの芳醇な香りが満ちる工房「ひだまり」の空気は、張り詰めていた。微かな物音すら許さぬような、肌を刺すほどの静寂が、工房全体を支配していた。


 作業台に向かっていた若い従業員たちは、ぴたりと手を止める。


 壁際に並べられた商品を眺めていた客たちも、息を殺していた。


 工房の奥で、黙々と革砥(かわと)で刃を研いでいた古川までもが、その動きを止めていた。


 全ての視線が、一つの場所に注がれる。


 工房の中央、その石畳の床に。


 かつて朝倉美羽だったものの残骸が、いまや見る影もなく、崩れるようにひれ伏していた。


「私が……私が、全部間違ってた……ごめんなさい……」


 絞り出すような声は、しゃくりあげる嗚咽に何度もかき消された。くすんで艶を失った髪は乱れ、やつれた頬を涙が伝う。


 石畳の床には、美羽の頬から滴り落ちた涙の染みが、いくつも不気味に広がっていた。


 着古した毛玉だらけのスウェット。それは、彼女がかつて執着した「完璧なカワイイ」の、まさにその対極にあった。


「もう一度……もう一度やり直したい……陽……お願い……」


 彼女は、かつて当たり前のように呼んでいた恋人の名前を、まるで最後の希望であるかのように口にした。その声には、助けを求める切実さの中に、見慣れた甘えが混じっていた。


「あなたがいなくちゃ、私、もう……ダメなの……」


 すがりつくような視線の先に立つ桐谷陽は、ただ静かに、床にひれ伏す女を見下ろしていた。


 その隣には、心配そうに陽の顔を見上げる倉科紬がいた。


 陽は、紬を不安にさせないよう、彼女の手を安心させるようにそっと握った。その温もりが、今ここにある自分の世界の確かさを教えてくれる。


 紬は、握り返された手の力強さに、陽の揺るぎない意志を感じ取った。


 そして、小さく頷いた。


 陽は紬にだけ、本当にわずかに口角を上げて穏やかな微笑みを返した。それは、二人だけの世界で交わされる、静かで絶対的な信頼の証だった。


 そして。


 彼は再び、床にひれ伏す過去の幻影へと視線を戻した。


 彼の瞳には、もはや何の感情も宿っていなかった。憎しみも、怒りも、憐れみすらも。


 それは、かつて燃え盛った炎が完全に燃え尽き、何も残っていない灰色の更地のような、絶対的な静寂だった。


 やがて、陽の唇が静かに開かれた。


「朝倉さん」


 その声は、驚くほど平坦で、穏やかだった。しかし、その一言が持つ意味は、鋭利なガラスの破片となって美羽の鼓膜を突き破り、脳の奥深くに突き刺さった。


 ――アサクラサン。


 びくり、と美羽の肩が跳ねた。顔を上げた彼女の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。


 陽、と呼んでくれたあの声じゃない。美羽、と愛おしそうに囁いたあの響きでもない。


 それは、初めて会った他人に向けるような、どこまでも無機質で、他人行儀な呼び方だった。


 そのたった一言が、二人の間に横たわる、決して渡ることのできない深淵の距離を、残酷なまでに明確に示していた。


「な……んで……」


 か細い声が、唇から漏れた。


「どうして……そんな……」


 陽は、彼女の混乱を意に介することなく、淡々と、しかし誰にでも聞こえる明瞭な声で言葉を続けた。それは、判決を言い渡す裁判官のように、一切の情を排した宣告だった。


「君が今どういう状況だろうと、もう俺には関係のないことだ」


 関係ない。


 その言葉が、工房の静寂に重く響いた。美羽は、まるで平手で打ちのめされたかのように、呆然と陽を見つめる。


 そんなはずがない。この人は、桐谷陽は、いつだって自分のことを一番に考えてくれる人だったはずだ。


 自分が少しでも悲しい顔をすれば、世界が終わったかのように心配してくれた。自分が笑えば、それだけで幸せそうに顔を綻ばせた。


 自分の全てを受け入れ、肯定してくれる、それが陽だったはずだ。


 だから、ここに来れば、きっと許してくれると信じていた。自分がどれほど酷いことをしたか、今さらながら理解はしていた。けれど、この人の優しさなら、きっと……。


 自分は陽に許されて当然だという、根拠のない、虫の良い希望的観測。それが、目の前の男の静かな瞳によって、木っ端微塵に粉砕されていった。


「君がいた世界と、俺が今いる世界は、もう違うんだ。決して交わることはない」


 陽の視線は、美羽を通り越し、彼女の背後にある工房の扉、そしてその向こうの、自分の知らない世界を見ているようだった。そこには、過去を振り返る余地など一ミリも存在しない。


「そんな……そんなこと言わないでよ! 私が悪かった! 謝るから! 何度でも謝るから! ねぇ、陽! お願い、昔みたいに……!」


 美羽は最後の力を振り絞るように、床を這って陽の足元ににじり寄ろうとした。その手を伸ばす。かつて、当たり前のように繋いでいた、温かくて大きな手に触れたい一心で。


 だが、その手は空を切った。


 陽が、静かに一歩だけ後ろに下がったからだ。


 その小さな一歩が、美羽にとっては世界の終わりを告げる断絶だった。伸ばした手は力なく床に落ち、彼女の顔から全ての表情が抜け落ちていった。


 陽は、そんな彼女を静かに見下ろしたまま、最後の、そして最も決定的な言葉を紡いだ。


 それは、復讐心から生まれた言葉ではない。憎しみの発露でもない。ただ、彼の新しい世界における、揺るぎない真実を述べたに過ぎなかった。


「君の謝罪も、君の後悔も、それは全て君自身の問題だ。君が君の人生の中で、これから向き合っていくべきものなんだろう。だが、その解決に俺が関わることは二度とない」


 一瞬、その言葉に微かな優しさの響きを感じ取ってしまい、美羽の瞳に光が宿った。だが、続く言葉が、その僅かな光さえも無慈悲に奪い去った。


「だけど、一つだけはっきりさせておく」


 陽は、紬の手をもう一度、優しく、しかし力強く握り直した。


「君の謝罪も、後悔も、そして君という存在そのものも。俺の人生には、もう一ミリも必要ない」


 必要ない。


 雷に打たれたような衝撃が、美羽の全身を貫いた。


 それは、罵倒よりも、詰問よりも、遥かに深く、そして治癒不可能な傷を彼女の魂に刻み付けた。


 憎まれているのなら、まだ良かった。怒りをぶつけられているのなら、まだマシだった。それらは少なくとも、「桐谷陽」という人間の感情の中に、「朝倉美羽」という存在がまだ一片でも残っている証拠だから。


 だが、彼の瞳に映る自分は、道端に転がる石ころと同じだった。何の感情も喚起しない、ただの物体。


 彼の幸福にも不幸にも、一切関与しない、取るに足らない風景の一部。


 自分という存在が、かつて世界の全てだったはずの男の人生から、完全に消去されていた。


 その事実が、美羽の脆い自己を、内側から完膚なきまでに破壊した。


「あ……ぁ……」


 喉がひきつり、意味をなさない音だけが漏れた。


 陽は、もはや抜け殻のようになった美羽に一瞥もくれることなく、くるりと紬の方へ向き直った。彼の表情は、まるで何事もなかったかのように、穏やかなものへと戻っていた。


「紬。待たせてごめん」


「ううん……大丈夫」


 紬は、陽の瞳の奥にある静かな強さを見つめ、心からの安堵と共に微笑んだ。この人はもう大丈夫だ。過去の亡霊に、二度と心を乱されることはない。


「さあ、仕事の続きをしようか。あの新しい財布のデザイン、もう少し詰めたいんだ」


 陽は、そう言って紬の肩を優しく抱き、作業台の方へと歩き出した。


 その瞬間、凍りついていた工房の時間が、再びゆっくりと動き出した。


 黙り込んでいた従業員たちは、ほっとしたように顔を見合わせ、それぞれの持ち場に戻っていった。客たちも、何事もなかったかのように、再び商品を手に取り始める。


 奥からは、古川が革包丁を研ぐ、シャッ、シャッ、というリズミカルな音が聞こえてきた。


 工房は、その日常を取り戻した。まるで、床に転がる一つの染みだけを残して、朝倉美羽という存在が初めからそこにいなかったかのように。


 誰も、もう彼女を見ていなかった。


 やがて、美羽はふらふらと立ち上がった。その足取りはおぼつかず、まるで夢遊病者のようだった。


 彼女は、陽と紬が楽しそうにデザイン画を覗き込み、時折笑い声を上げている後ろ姿を、ただ茫然と見つめた。


 聞こえてきた。


 革を裁断する軽やかな音。木槌が革を打つ心地よいリズム。新しい作品のアイデアについて語り合う、弾んだ声。温かい光の中で交わされる、穏やかな笑顔。


 それは、自分が捨てた世界。


 いや、自分が捨てたことで、初めて生まれた世界。


 自分が必死に追い求めた、数字と「いいね」で構成された虚構の世界とは似ても似つかない、確かな手触りと温もりのある、本物の幸福の世界。


 そしてその世界に、自分の居場所は、もうどこにもなかった。


 美羽は、音もなく工房を後にした。自動ドアが閉まり、彼女の姿を外の世界へと完全に隔てた。


 工房の前の石畳に、彼女は再び崩れ落ちた。


「う……ぁ……ああああ……っ」


 今度は、誰に聞かせるためでもない、心の底から絞り出すような嗚咽だった。失ったものの大きさに、今、初めて気づく。


 失ったのは、ただ優しい恋人ではなかった。


 KAIがくれたような、見返りを求める刺激的な賞賛ではなかった。紬が陽に見出したような、才能への尊敬でもない。


 もっと根源的で、無条件の肯定。何者でもない自分の、ありのままの存在を、ただそれだけで「価値がある」と信じてくれた、たった一つの温かい眼差し。


 それを自分の手で捨て、踏みにじり、嘲笑った。そして今、その価値に気づいた時には、もう決して手の届かない場所へと去ってしまっていた。


 彼女の慟哭は、雑踏の音にかき消されていった。道行く人々は、汚れた服で泣きじゃくる女に奇異の目を一瞬向けるだけで、すぐに興味を失って通り過ぎていく。


 彼女が渇望してやまなかった他人の視線は、今や冷たい無関心か、あるいは軽蔑の色を帯びて、彼女の心を突き刺すだけだった。


 工房の中から漏れ聞こえてきた、穏やかな笑い声と、革を打つ心地よいリズム。


 それは、美羽の涙が決して届かない、新しい世界の音だった。


 工房「ひだまり」の大きな窓から、温かいオレンジ色の西陽が差し込んでいた。その光は、作業台に広げられた上質なヌメ革と、そこに並べられた銀色の道具たちをキラキラと照らし出す。


「ここのステッチ、少し曲線にしてみるのはどうかな。持った時に、もっと手に馴染む気がするんだ」


 陽が、革の上に指で柔らかな線を描きながら言った。


「あ、それ、いいね。女性が持った時も、印象が優しくなりそう。じゃあ、こっちのカードポケットの角も、少しだけ丸みを持たせてみようか」


 紬が、鉛筆を手に取り、デザイン画にさらさらと修正を加えていった。


 二人の間には、穏やかで、創造的な空気が流れていた。共に何かを創り出す喜びが、言葉にしなくても互いに伝わる。


 陽の新しい世界は、もう確かに始まっている。


 誰かの評価に依存するのではない。自分の手で、確かな価値を生み出し、それを分かち合える誰かが隣にいる。それだけで、世界はこんなにも温かく、満ち足りたものになる。


 窓の外では、陽が沈み始め、空が美しいグラデーションに染まっていた。


 工房の軒先に掲げられた「ひだまり」の木製看板が、最後の夕陽を受けて、温かい影を地面に落としていた。その影は、陽と紬が手を取り合って創り出す、未来への確かな光を静かに物語っていた。

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【悲報】彼女、SNS映えのために俺を振って人気インフルエンサーと付き合うも、俺が起業して大成功したら「やり直したい」とDMしてきた。 ネムノキ @nemunoki7

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