第13話
駅のコンコースは、どこか遠い場所で、無限の足音とざわめきを反響させていた。
朝倉美羽の耳には、その喧騒が幻聴のように響く。あるいは、もう自分には関係のない世界の音のように、虚しく響いていた。
その中心で、美羽は一枚の広告ポスターの前から動けずにいた。
冷たい蛍光灯に照らされたその紙面には、かつて自分が捨てた男、桐谷陽の姿があった。
「時代が求める本物の価値――若き職人、桐谷陽の哲学」
その見出しの下で、陽は作業台に寄りかかっていた。
穏やかな、しかし揺るぎない確信を宿した瞳で、こちらを見つめている。
それは、美羽が知る、おどおどとした、いつも自分の顔色を窺っていた陽ではなかった。
自分を失ったからこそ、彼はこんなにも強く、輝ける人間になったのだと、美羽は痛感した。
自分の価値を過信し、彼を嘲弄した傲慢さが、かえって彼の真価を解き放ったという、残酷な事実を突きつけられたのだ。
その瞳に宿るのは、感情の波一つない、深い静寂だった。
憎しみも、未練も、憐れみも、かつての愛情の欠片すらも感じられない。
まるで、路傍の石を眺めるかのように。自分とは無関係な、遠い世界の出来事として認識しているかのように。
自分という存在が、彼の人生の水平線から完全に消え去ったこと。
美羽は、一枚の紙切れから、痛いほど理解させられた。
数日間、何も食べていない胃が、キリキリと痛む。
大学から突きつけられた、事実上の退学勧告。
解雇されたアルバイト先。
月末には追い出されるであろう、家賃を滞納した安アパート。
KAIとの泥沼の暴露合戦で失った社会的信用。
ネットには、自分を「承認欲求モンスター」と嘲笑う声が、とめどなく、無限に溢れていた。
まるで、世界中から指を指され、嗤われているかのような、終わりのない悪夢。
全てを失った。
いや、全てを自ら捨て去ったのだ。傲慢なプライドと、根拠のない万能感に酔いしれて。
スマートフォンを震える手で取り出し、頼りない指で画面をタップする。
バッテリーは残りわずかだった。
検索窓に、あの工房の名前を打ち込む。
「工房 ひだまり」
すぐに、温かみのあるデザインのウェブサイトが表示された。
そこに記された住所は、この駅からそう遠くない場所だった。
もう、これしかない。
最後の、最後の、ただ一つの望み。
美羽は、すがるような思いで、ポスターの中の陽の瞳から目を逸らした。
そして、冷たい雑踏の中へと、虚ろな足取りで踏み出した。
◇
工房「ひだまり」は、古い商店街の一角に、まるで光の粒が降り注ぐ聖域のように佇んでいた。
陽の師であった古川の工房を改装したその場所は、新しい木の看板と大きなガラス窓が特徴だ。
革の香りとオイルの微かな甘い香りが、道行く人々の鼻腔をくすぐるように漂ってくる。
美羽の視界に映るのは、暖かな陽光が差し込む別世界だった。
壁一面に並べられた革製品は、一つ一つが作り手の魂と愛情を吸い込んだように、やわらかな光を放っていた。
工房の中は、雑誌で取り上げられた影響もあってか、活気に満ちていた。
数人の客が、商品を手に取って感心したように眺めている。
奥の作業場では、陽が新しく雇ったと思われる若い従業員が、真剣な面持ちで革の裁断をしている。
その傍らには、穏やかな笑みを浮かべて指導する師匠の古川の姿もあった。
そして、その中心に、陽と倉科紬がいた。
二人は、大きな作業台に広げられたデザイン画を挟んで、身を寄せ合うようにして話し込んでいる。
「ここのカーブ、もう少しだけ深くした方が、手にした時の収まりが格段に良くなると思うんだ。使う人の日々に寄り添うものを創りたいからこそ、この小さな差が大切なんだ」
陽が革の端切れを指でなぞりながら言った。その声は、低く、落ち着いていて、確固たる意志に満ちていた。
「なるほど……陽くんのそういう、機能性への徹底したこだわり、本当に尊敬するわ。それなら、ステッチの幅も少しだけ変えてみようか。こっちのデザインの方が、全体のバランスが引き締まって、あなたのそのこだわりがより美しく際立つはず」
紬が、スケッチブックに新しいラインをさらさらと描き加えていった。
その横顔は真剣そのものだが、陽に向ける視線には、深い信頼と、慈しむような温かさが滲んでいた。
美羽には、二人が交わしている言葉の意味は半分も理解できなかった。
だが、理解できてしまった。
二人の間に流れる空気の、その意味を。
それは、美羽がKAIと必死に演じていた、カメラの前だけの「理想のカップル」などではなかった。
お互いの才能を認め合い、尊敬し、同じ夢に向かって共に歩む、本物のパートナーシップだった。
二人の間に、嘘も、見栄も、打算も存在しない。
ただ、創造の喜びと、お互いへの揺るぎない信頼だけが、そこにあった。
陽が、紬の描いたスケッチを見て、満足そうに頷いた。
そして、ごく自然に、紬の頭にぽん、と手を置いた。
紬は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに嬉しそうにはにかんで、陽の腕を軽く叩いた。
その何気ない仕草。
その穏やかな笑い声。
それら全てが、鋭利なガラスの破片となって、美羽の胸に突き刺さった。
あの笑顔は、自分といた時には決して見せなかった笑顔だ。
あの自信は、自分が彼から奪い、踏みにじったはずのものだ。
あの場所は、自分が捨てたからこそ、彼が手に入れた聖域なのだ。
自分がいた世界は、偽物の光に満ちた虚構の世界だった。
そして、陽がいる世界は、本物の光に満ちた、現実の世界だった。
羨望、嫉妬、後悔、自己嫌悪。
黒く、どろりとした感情が渦を巻き、美羽の足元を溶かしていった。
立っていることさえ、もう限界だった。
震える足で、道路を渡った。
もう、プライドなど欠片も残っていなかった。
カラン、と乾いたドアベルの音が鳴り響き、工房内の全ての視線が入り口に注がれた。
そこに立っていたのは、朝倉美羽だった。
しかし、その姿は、誰もが知る、完璧に作り上げられた「カワイイ」インフルエンサーのものではなかった。
数日洗っていないような髪はぱさつき、目の下には深い隈が刻まれている。
流行遅れのくたびれた服は、彼女のやつれた体をさらにみすぼらしく見せていた。
かつて何万人もの視線を釘付けにした輝きは完全に失われ、そこにいるのは、ただ追い詰められ、助けを求める、一人の哀れな女だった。
工房の空気が、一瞬で凍りついた。
客も、従業員も、古川も、何が起きたのか分からないといった表情で、美羽と陽を交互に見た。
陽と紬も、顔を上げていた。
紬は、息を呑み、心配そうに陽の顔を窺った。
だが、陽の表情は、変わらなかった。
驚きも、動揺もない。
ただ、静かに、そこに現れた過去の残滓を、感情の伴わない瞳で見つめているだけだった。
美羽は、他の誰にも目もくれず、まっすぐに陽の元へと歩み寄った。
その一歩一歩が、まるで重い鎖を引きずっているかのようだ。
作業台の前で、陽と対峙する。
数メートルの距離が、絶望的なほど遠く感じられた。
「……陽」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、かすれていた。
「……お願い」
堰を切ったように、涙が溢れ出した。化粧の落ちた顔を、熱い雫が次々と伝っていった。
しかし、その涙は、彼女がかつてSNSで完璧に演じ切った「悲劇のヒロイン」のそれとは異なり、無様で、醜く、そしてどこか計算された「演出」の名残が滲むかのようにも見えた。
「私が……私が、全部、間違ってた……」
言葉が、途切れ途切れにしか出てこなかった。呼吸が苦しかった。
「あの頃の私は、どうかしてたの。周りが見えなくなって……大事なものが何なのか、分からなくなって……あなたを、傷つけて……本当に、ごめんなさい……」
「KAIなんて、表面だけの人間だった……! 私、馬鹿だったわ……本当の優しさも、真実の愛も、全部陽の中にあったのに……なんで、気づけなかったんだろう……!」
頭を下げた。床に、涙の染みがいくつもできた。
「もう一度……もう一度、やり直したい……なんて、言える資格がないのは分かってる。でも……でも、お願い……」
顔を上げた。
涙で滲む視界の中で、陽の顔がぼやけて見えた。
「あなたがいなくちゃ、私、もうダメなの……! 一人じゃ、どうしたらいいか、分からないのよ……! お願い、陽……助けて……!」
その言葉と共に、美羽の膝が、がくりと折れた。
彼女は、作業台の前に、まるで糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
冷たい床に手をつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
それは、かつて彼女が陽を捨てた時に見せた、大勢の他人に見せるための計算された笑顔とは真逆の、あまりにも無様で、惨めな懇願の姿だったが、同時に、自己の価値を他者に依存してきた、彼女自身の根深い承認欲求の歪みが露わになった瞬間でもあった。
工房の中は、水を打ったように静まり返っていた。
客も、従業員も、ただ固唾を飲んで、この異様な光景を見守るしかない。
美羽の嗚咽だけが、やけに大きく響き渡った。
陽は、床に崩れ落ちたまま泣き続ける美羽を、静かに、ただ静かに見下ろしていた。
その瞳には、感情の波一つ立っていなかった。
怒りも。
憐れみも。
かつての愛情の残滓さえも。
まるで、彼の心の淵には、すでに美羽という存在が届かぬかのように。ただ遠い過去の出来事として、静かに見つめているだけだった。
不意に、陽がそっと手を動かした。
その手は、美羽に差し伸べられることはなかった。
陽の手は、隣で心配そうに彼を見つめていた紬の手を、安心させるように、優しく、しかし力強く握った。
紬の肩が、びくりと震えた。
彼女は驚いて陽の顔を見上げた。
陽は、そんな紬にだけ、ほんの少しだけ口元を緩め、穏やかに微笑みかけた。
「大丈夫だよ」
その微笑みは、過去の影すら寄せ付けない、絶対的な静けさと、揺るぎない温かさを秘めていた。僕たちの現在を、誰にも揺るがすことなどできないと、陽の全身が紬に語りかけているようだった。
握られた手の温かさが、陽の揺るぎない心が、紬に伝わっていった。
彼女の瞳から不安の色が消え、代わりに深い安堵と信頼の色が宿った。
彼女は、陽の手をそっと握り返した。
二人の間に流れる、静かで、確かな絆。
それは、泣き叫ぶ美羽の声さえも届かない、二人だけの聖域だった。
陽は、もう一度、床の美羽に視線を戻した。
そして、静かに、しかし、工房にいる全ての者の耳に届くほどはっきりと、口を開いた。
彼の唇が、決定的な言葉を紡ぎ始めた。
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