第12話

 古川皮革工房に差し込む朝日は、以前よりもずっと柔らかかった。温かい光は、工房の隅々まで届く。


 まるで、そこにあるすべての存在に、そっと寄り添うかのように。


 工房の奥。桐谷陽が慣れ親しんだ作業台の上には、裁断を待つ上質なヌメ革が広げられていた。しっとりと吸い付くようなその感触は、すでに彼の皮膚の一部と化している。


 革の芳しい匂いと、オイルの微かな甘さが混じり合った空気。それは今や、彼の日常そのものだ。


 かつての、閉塞した灰色の世界とはまるで違う。彩り豊かな日々が、そこにはあった。


「陽くん、この新しいトートバッグのデザイン、どうかな?」


 隣のデスクでスケッチブックを広げていた倉科紬が、弾むような声で問いかける。喜びと期待に満ちた声だった。


「持ち手の部分、少しだけ細くして、女性が持った時にエレガントに見えるように調整してみたんだけど」


 彼女の指先は鉛筆の黒で少し汚れている。それがまた、彼女の創造性の証のように輝いて見えた。


 陽は作業の手を止め、紬の隣に腰を下ろしてデザイン画を覗き込む。彼女の描く曲線は、どこか柔らかな風を思わせた。


「うん、すごく良いと思う」


 陽は頷く。


「この曲線、紬さんらしい柔らかさが出てる」


「持ち手、細くするなら、付け根は二重ステッチで補強するといいかも。強度も出るし、それがデザインのアクセントにもなる」


「あ、それ良い! さすがだね、陽くん!」


 紬は屈託なく笑った。その笑顔は、工房に差し込む光よりも明るい。


「作り手の視点、いつも勉強になるよ」


 陽もまた、自然な笑みを返す。そこに以前のような、ぎこちない遠慮は微塵もなかった。


 彼らが共同で立ち上げたオンラインストア「工房ひだまり」は、派手な広告を打つことなく、静かに成長を遂げていた。まるで地層深く根を下ろす古木のように、揺るぎない、確かな成長だった。


 一つ一つの製品には物語を添え、購入者からの問い合わせには陽自身が丁寧に返信する。


 その真摯な姿勢が、本質を求める人々の心に深く響いたのだ。


 口コミはSNSのバズのような瞬発力はない。だが、深く、広く、着実に根を張り、静かに広がり続けていった。


 リピーターが増え、大切な人への贈り物として選ばれることが多くなった。それは、揺るぎない信頼の証だった。


「そういえば、先週問い合わせがあった件なんだけど」


 紬がPCの画面を陽に見せる。


 それは、ある有名ライフスタイル雑誌の編集部からのメールだった。


「『デジタルデトックス時代の新しい豊かさ』という特集で、私たちの工房を取材させてほしいとのこと。陽くん個人のインタビューもしたいようだ」


 陽は一瞬、大きく目を見開いた。驚きが、胸の奥からこみ上げてくる。


 しかし、すぐに落ち着きを取り戻す。以前の彼なら、他者からの評価に過剰に反応し、舞い上がったか、あるいは気圧されていただろう。


 だが今は違う。揺るぎない、強固な心の軸が彼にはあった。


「ありがたい話だね。でも、俺なんかが語れることなんて……」


「そんなことないよ」


 紬は、彼の言葉を遮るように、しかし優しい、真っ直ぐな声で言った。


「陽くんのその手から生まれるもの、それに込められた思いは、何より雄弁なストーリーだよ」


「陽くんの真摯なものづくりこそが、いま一番求められてる『本物』なんだから」


 彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられ、陽は少し照れたように頬を掻いた。深く信頼されていることの喜びが、じんわりと心に広がる。


「……うん。紬さんがそう言ってくれるなら、受けてみようかな」


「決まりだね! 私もデザイナーとして、しっかりサポートするから!」


 その時、工房の奥から、頑固そうな咳払いが聞こえた。


 師匠の古川が、分厚い眼鏡の奥から二人を眺めている。その眼差しは、厳しさの中に、どこか温かい光を宿していた。


「おい、陽。ちょっと来い」


 呼ばれて古川のもとへ行くと、彼は使い込まれた革包丁を陽に差し出した。


 それは、古川が何十年も愛用してきた、彼の手の一部とも言える道具だった。革と、汗と、職人の魂が染み込んだ、ずしりと重いその質量。


「そろそろ、こいつもお前に譲ってやる。わしはもう、細かい作業は目が疲れる」


 古川は淡々と言う。


「これからは、お前がこの工房の顔だ。好きにやれ」


「師匠……」


 陽は、言葉を失った。喉の奥が熱くなり、胸がいっぱいになる。


 それは単なる道具の継承ではなかった。古川という一人の職人の魂と、この工房の歴史そのものを、彼に託された証だった。


 途方もない重圧と、それ以上の深い信頼がそこにはあった。


 ずしりと重い革包丁を手に取り、陽は深く深く頭を下げた。


「ありがとうございます。大切に……大切に使わせていただきます」


 古川は「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、その口元には、満足げな皺が深く刻まれていた。


 陽の世界は、もはや過去の傷に囚われてはいなかった。あの頃の絶望は、彼を蝕むものではなく、むしろ、今日へと続く道を照らす、静かな灯火となっていた。


 創造する喜び。


 誰かの役に立てる、確かに手応えのある感触。


 そして、深く信頼できる仲間。


 本物の幸福が、彼の周りを満たしていた。


 ――――


 対照的に、朝倉美羽の世界は、音を立てて崩壊し続けていた。築き上げてきた煌びやかなSNSのフォロワー数も、流行の波に乗った虚飾の全てが、砂上の楼閣のように指先で触れれば崩れ落ちる。


 冷たく無機質な大学の会議室。


 彼女の向かいには、学生課長と学部長の二人が、感情の読めない、氷のような表情で座っていた。


「……というわけで、朝倉さん。君がSNS上で行った一連の言動は、本学の名誉と品位を著しく傷つけるものと判断せざるを得ない」


 学生課長が、まるで判決を言い渡すかのように告げる。事務的で、感情のこもらない口調だった。


「違う! 私は被害者なのよっ! KAIに……全部、利用されただけなんです! 騙されたのよっ……!」


 美羽の必死の抗弁は、空虚に響くだけだった。その声は、恐怖と混乱に震えている。


「君が被害者である側面も考慮はした。だが、君自身もまた、相手を貶めるための情報を積極的に発信し、騒動を拡大させた事実は覆らない」


 学部長が、深いため息混じりに付け加える。その声には、彼女に対する諦めが滲んでいた。


「多くの学生や保護者から、大学の対応を問う声が寄せられているんだ」


「我々としては、君に自主的に退学届を提出してもらうのが、最も穏便な解決策だと考えている。もちろん、強制ではないが……このまま在学し続けるのは、君自身にとっても困難だろう」


 事実上の退学勧告。それは社会的な死刑宣告にも等しい言葉の重みだった。


 美羽は頭が真っ白になった。脳の機能が停止したかのように、思考ができない。


 反論しようにも、言葉が出てこない。唇が震え、ただ俯くことしかできなかった。全身から力が抜け、座っているのもやっとだった。


 追い打ちをかけるように、不幸は連鎖した。まるで呪われているかのように。


 会議室を出た直後、彼女がアルバイトをしていたおしゃれなカフェの店長から、電話がかかってきた。


「ごめんね、美羽ちゃん。ちょっと、明日から来なくていいから」


「え……嘘でしょ!? だって、来週のシフトも入ってたはずじゃ……!?」


 美羽の声は上ずっていた。予感、あるいは確信に近い恐怖が胸を締め付ける。


「うちの店のイメージというものがあるんだよ。ネットで色々言われている子を、いつまでも雇っておくわけにはいかない。わかるだろ?」


 一方的な通告。店長の冷淡な声は、美羽の胸に鋭く突き刺さる。


 美羽が何かを言い返す前に、通話は無慈悲に切られた。プツン、という電子音が、世界との断絶を告げていた。


 学生という身分。


 アルバイトという収入源。


 その両方を、一日にして失った。


 自分のアパートに戻っても、安らぎはどこにもなかった。部屋全体が、まるで凍り付いたかのように冷たく感じられる。


 郵便受けには、真っ赤な文字で「最終通告」と書かれた家賃の督促状が差し込まれていた。その文字は、血のように鮮やかで、美羽の目を焼いた。


 スマートフォンの画面を開けば、銀行アプリが示す預金残高は、次の家賃を払えば底をつくことを冷徹に告げていた。残された数字は、彼女の未来を嘲笑うかのようだ。


 机の上に置かれたスマートフォンが、不意に振動した。


 画面に表示されたのは「母」の文字。実家からの着信だった。


「……っ」


 美羽は、反射的に着信を拒否した。親の愛情が、今だけは重かった。


 自らが築き上げた『成功したインフルエンサー』という虚像。それを、心配する母親の眼差しの中で、自らの手で壊すことなどできなかった。それが、彼女に残された最後の砦だった。


 部屋を見渡した。壁には、まだKAIと一緒に撮った写真が数枚飾られたままだった。


 最高の笑顔で、最高のブランド品に身を包んだ自分。


 何十万もの「いいね」を集めた、虚飾の頂点。それが、今の自分の痛ましい現実を、さらに強く突きつける。


 美羽は衝動的にその写真を引き剥がし、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に叩きつけた。


「あんたのせいよ……! 全部、全部……!」


 憎悪の言葉を吐き捨てても、虚しさが募るだけだった。虚しいほどに、何も変わらない。


 本当に憎むべきは、KAIの甘言に踊らされ、ささやかな幸福を自ら手放した自分自身だと、心のどこかで分かっていたからだ。その自覚が、彼女をさらに深く追い詰める。


 ――――


 数週間後、「工房ひだまり」には、プロ用の撮影機材を持った数人の男女が訪れていた。


 例のライフスタイル雑誌の取材チームだった。工房の空気が、いつもとは違う緊張感と期待感に満たされる。


「いやあ、素晴らしい工房ですね。この空気感、写真からも伝わるように撮らないと」


 ベテランの風格を漂わせるカメラマンが、目を細めながら工房内を見渡した。彼の視線は、空間の持つ物語を探しているかのようだ。


 ライターの女性は、熱心に陽へと質問を投げかけていた。ペンを走らせる音が、小気味良く響く。


「桐谷さんが、この道に進まれたきっかけは何だったんですか?」


 陽は一瞬、遠い目をした。脳裏に、絶望の底にいた頃の自分がよぎる。真っ暗なトンネルの、出口の見えない日々。


 しかし、それはもう、彼を苛む痛みではなかった。乗り越えた過去として、静かにそこにあるだけだ。それは、彼の内なる強さの礎となっていた。


「……自分の手で、実体のあるものを作りたかったんです」


 陽の声は、穏やかだったが、確固たる意志に満ちていた。


「誰かの『いいね』や評価じゃなく、ただひたすらに、目の前の素材と向き合える。そんな場所が、僕には必要だったんです」


「この工房と、師匠に出会えたことが、僕の全てを変えてくれました」


 彼の言葉には、飾り気のない真実の重みがあった。それは、彼の人生そのものの証だった。


 隣で聞いていた紬が、微笑みながら付け加える。誇らしげな眼差しが、陽に向けられていた。


「陽くんの作品は、彼そのものなんです。誠実で、嘘がなくて。だから、触れると温かい『ひだまり』のような温かさを感じる。それが、私たちの工房の名前にもなっています」


「なるほど……素晴らしいストーリーですね」


 ライターは、感心したように深く頷きながら、猛烈な勢いでメモを取っていた。そのペン先が、紙の上を踊る。


 その後、陽のポートレート撮影が行われた。


 カメラマンは、作業台で革包丁を握る陽の真剣な横顔や、完成した作品を手に穏やかに微笑む姿を、次々とフレームに収めていった。彼のレンズは、陽の放つ静かな輝きを捉えようとしていた。


「いいですね、桐谷さん! すごく良い表情です! 何かを成し遂げた男の、静かな自信みたいなものを感じますよ!」


 フラッシュが焚かれるたび、陽は少し気恥ずかしさを感じながらも、胸を張ってレンズを見つめ返した。彼の瞳には、未来への希望が宿っていた。


 隣で撮影を見守る紬と目が合い、二人はこっそりと微笑み合った。言葉にはできない、深い信頼がその視線の中にあった。


 取材チームが引き上げた後、工房にはいつもの静けさが戻ってきた。革の匂いが、心なしか甘く香るように感じられる。


「なんだか、夢みたいだね」


 紬が、ぽつりと言った。まだ、興奮が冷めやらないといった様子だ。


「ああ。これは夢じゃない。俺たちが、泥臭く、でも確かに積み上げてきた現実だ」


 陽は、窓から差し込む西日を浴びながら、揺るぎない口調で答えた。その声には、確固たる自信が込められていた。


「これから、もっと忙しくなるかもしれない。法人化も考えないといけないな」


「うん。二人なら、きっと大丈夫。どんなことがあっても」


 紬は、陽の隣にそっと寄り添った。その肩が、かすかに触れ合う。


 二人の未来には、無限の可能性が広がっているように思えた。希望に満ちた、温かい予感だった。


 ――――


 一方、美羽の現実は、終わりへと向かって容赦なく収束していた。


 家賃の支払い期限はとうに過ぎ、大家からは内容証明郵便で退去勧告が届いた。無機質な白い封筒が、彼女の心をさらに凍らせる。


 なけなしの金で数日分の食料を買い込み、部屋に閉じこもっていたが、それも尽きようとしていた。空腹が、彼女の体を蝕んでいく。


 空腹と、先の見えない絶望。彼女は、まるで夢遊病者のように、当てもなくアパートを抜け出した。体中に力がなく、足元がおぼつかない。


 すっぴんの顔を隠すためのマスク。着古してよれたスウェット。


 かつての「朝倉美羽」の面影はどこにもなかった。流行を追い、完璧に飾られていた虚像は、もはや影も形もない。


 雑踏に紛れれば、誰も彼女に気づきはしなかった。


 かつて、街を歩けば誰もが振り返り、羨望の眼差しを向けてきた自分が、今は風景に溶けて消え、ただの匿名の一人になっていた。その事実が、ガラスの破片のように心を突き刺した。誰にも認識されないという、耐えがたい孤独。


 ふらふらと歩き続け、気づけば巨大なターミナル駅のコンコースにたどり着いていた。


 人々が忙しなく行き交う、巨大な人間交差点。その喧騒の中で、美羽は足を止めた。


 いや、止められたのだ。


 目の前の、巨大な柱に設置された広告スペース。


 彼女の視線は、有無を言わせぬ引力に吸い寄せられるように、一枚のポスターに釘付けになった。それは、数週間前に発売された、あのライフスタイル雑誌の広告だった。


 洗練されたレイアウトの中央。柔らかな、希望に満ちた光が差し込む工房で、一人の青年が、穏やかな、それでいて絶対的な自信に満ちた表情で、こちらを見つめていた。


 その手には、丁寧に作られた革の財布が握られている。革のしっとりとした質感が、写真からも伝わってくるかのようだ。


 彼の隣には、控えめながらも確固たる存在感を放つ女性が、揺るぎない信頼を込めた眼差しで彼を見つめていた。その表情には、偽りのない幸福が満ちていた。


 そして、彼の写真の上には、大きなゴシック体で、こう書かれていた。


 ――時代が求める本物の価値。若き職人、桐谷陽の哲学。


「……あ……」


 声にならない声が、乾いた唇から漏れた。世界が、歪んで見える。


 桐谷陽。


 自分が捨てた男。


 自分が「地味で退屈」だと見下した男。


 その彼が今、自分の知らない世界で、自分の知らない顔で、社会的な成功の象徴として、巨大なポスターの中で微笑んでいた。


 ネットのサイトで見たのとは、まるで違っていた。画面越しの虚像とは比べ物にならない。


 これは、紛れもない「現実」の重みを持った光景だった。確固たる存在感。


 不特定多数の人間が行き交うこの公の場所で、彼は「価値ある存在」として堂々と掲げられていた。多くの人々に認められ、称賛されている。


 それに比べて、自分はなんだった?


 大学を追われ、仕事を失い、住む場所すら失おうとしていた。誰からも忘れ去られ、雑踏の中に埋もれていく、価値のない存在。その対比は、あまりにも残酷だった。


 頭がぐらりと揺れた。地面が、足元から崩れていくようだ。


 駅の喧騒が、遠のいていった。耳鳴りが、キーンと響く。


 ポスターの中の陽の、穏やかな瞳が、まるで自分を憐れんでいるかのように見えた。その視線が、美羽の心を深く抉る。


 いや、違った。


 その瞳には、憐れみすらなかった。感情の、何のひとかけらも。


 もはや、自分という存在など、彼の視界には映っていなかったのだ。


 完全な、無関心。


 美羽は、その場に縫い付けられたように、ただ立ち尽くすことしかできなかった。心臓が、痛いほどに脈打つ。


 涙さえ、流れなかった。枯れ果てたかのように、感情が麻痺している。


「陽……どうして、あなたが、こんなところに……私が、捨てたはずなのに……!」


 か細く絞り出した声は、無数の足音とアナウンスの波にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。それは、彼女自身の絶望の叫びだった。


 輝かしい光の世界と、底なしの暗闇の世界。


 一枚の薄い紙を隔てて、二つの世界は、残酷なまでにくっきりと分かたれていた。

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