第11話

 スマートフォンの冷たい光が、暗い部屋の中で朝倉美羽の顔を青白く凍らせていた。それは、彼女の虚飾が剥がれ落ちていく様を、残酷に照らし出すかのようだった。


 画面に映るのは、『工房ひだまり』のウェブサイト。


 そこには、美羽の知らない、穏やかで、それでいて確固たる自信に満ちた桐谷陽の笑顔があった。


 隣で自然体な美しさを湛え、微笑むのは、倉科紬という女。


 ――何これ。


 喉の奥で、悲鳴が寸断された。胃の腑が、熱い鉄の塊に掴み潰されるような激痛に襲われる。


 ――陽が、私の知らない世界で……こんな風に、笑ってる……?


 自分が捨てた男。


 自分が「地味」で「退屈」だと切り捨てた世界。


 その世界で、彼は自分の知らない才能を開花させ、自分の知らない女と、美羽自身が渇望してやまなかった本物の幸福を手に入れている。


 美羽がKAIと共に手に入れたものは何だっただろう。


 数字の羅列。


 虚構の賞賛。


 そして今、目の前で燃え盛る地獄の業火。


 心臓を直接握り潰されるような痛みに、美羽は息を詰めた。


 嫉妬、後悔、焦燥。どす黒い感情の濁流が、彼女の精神を激しく渦巻いていく。


 それは、陽を裏切ったことへの罪悪感ではない。


 自分が捨てたものが、自分が見向きもしなかったものが、これほどまでに価値のあるものだったと今さら知らされたことへの、惨めな屈辱だった。


 惨めな屈辱感が、皮膚の奥底から毒が回るように全身を駆け巡り、美羽を包み込んだ。


 ガチャリ、と乱暴な音を立てて玄関のドアが開いた。無機質な廊下の光が、リビングに投げ込まれる。


 酒と苛立ちの匂いをまとわせたKAIが、舌打ちをしながらリビングに入ってきた。


「おい、まだ起きてたのかよ。電気もつけねえで、気味悪い女だな」


 KAIはソファに乱暴に腰を下ろした。


 ネクタイを緩めるその瞳には、かつて美羽を蕩かせた甘い光はもうない。不満と軽蔑だけが、ねっとりと宿っていた。


「……どこ行ってたの」


「あ? お前に関係ねえだろ。こっちはお前のせいでめちゃくちゃになった後始末で、走り回ってんだよ」


「私のせいって……何を言ってるの!? 暴露されたのは全部、あなたの汚い過去じゃない! 私だって……私だって被害者なのに……!」


 抑えつけていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。


 スマートフォンをソファに投げつけ、美羽はKAIに詰め寄る。


「私を散々利用して、他の女とも遊び回って! 私がどれだけ傷ついたと思ってるの!?」


「はっ、傷ついただあ? お前も俺との関係を利用して、フォロワーと金を手に入れただろうが。共犯者のくせに、今さら被害者ぶってんじゃねえよ、承認欲求モンスターが」


 モンスター、という言葉が、鋭いナイフのように美羽の胸を抉った。


 それは、ネット上で自分に向けられる無数の罵声と同じ響きを持っていた。


 胸の奥底で深く響き、彼女を規定する言葉として襲いかかった。


「違う……私は、KAIのこと、本当に……あなたといることで、私はもっと輝けるって、特別な存在になれるって……信じてたのに……!」


「好きだった、とか言うのか? お前が好きなのは、インフルエンサーとしての『KAI』っていうブランドだけだろ」


 KAIは鼻で笑った。


「俺と付き合えば『いいね』が増える。特別な自分になれる。そう思って陽とかいう地味な彼氏を捨てて、俺に乗り換えただけの浅ましい女が」


 図星だった。


 反論の言葉が見つからない。


 KAIは嘲るように鼻を鳴らし、自分のスマートフォンを取り出した。


「もう終わりだ、美羽。お前はもう、俺のブランドにとって不良債権でしかねえ」


 彼は冷たく言い放った。


「お前と組んだのが最大の失敗だった」


 その言葉は、美羽に対する最終通告だった。


 KAIは薄ら笑いを浮かべ、慣れた手つきでSNSアプリの編集画面を開き、投稿文を打ち込み始めた。


「何、してるの……?」


「何って? 損切りだよ。お前っていうお荷物を切り離して、俺だけでも生き残るためのな」


 悪魔のような笑みを浮かべ、KAIは言った。


「見てろよ、最高のショータイムだ」


 彼は投稿ボタンを押した。


 直後、美羽のスマートフォンが、狂ったように通知の音を鳴らし始めた。


 恐る恐る画面を覗き込んだ美羽は、息を呑んだ。


 KAIの最新の投稿。


 それは、長文の謝罪文の形を取った、美羽への最終的な裏切りだった。


『この度は私の不徳の致すところで、皆様に多大なるご迷惑とご心配をおかけし、誠に申し訳ございません。


 元交際相手の朝倉美羽さんとの関係について、全てをお話しします。


 当初、彼女は熱烈なファンとして私に接近してきました。私自身、彼女の純粋さに惹かれたのは事実です。


 しかし、関係が深まるにつれ、彼女の異常なまでの承認欲求と金銭への執着が明らかになりました。


 今回の炎上も、私が他のインフルエンサーとコラボしようとしたことに嫉妬した彼女が、意図的に情報をリークしたことが発端です。


 僕は彼女に操られ、利用されていました。騙されていたのは、僕の方だったんです』


 嘘。


 全部、嘘だ。


 頭が割れるような眩暈に襲われ、世界がぐらりと揺らいだ。


 投稿には、数枚の写真が添付されていた。


 作り物のような美しさが剥がれ落ちた、陽といた頃の素朴な美羽の姿。今の洗練された『美羽』からは想像もできない、野暮ったく着飾る前の彼女の記録。


 そして、極めつけは、KAIが隠し撮りしていたのだろう、気の抜けた部屋着で、メイクもせずにスナック菓子を頬張る美羽の無防備な写真だった。


 完璧に作り上げた「朝倉美羽」という虚像を、内側から破壊するような、悪意に満ちたセレクション。


 コメント欄は、一瞬にしてKAIへの同情と、美羽への誹謗中傷の嵐で埋め尽くされた。


『KAIくんも被害者だったんだ……』


『やっぱりあの女が元凶かよ。見るからに承認欲求の塊だもんな』


『すっぴんヤバすぎw これが現実か』


『前の彼氏捨てて乗り換えたってマジ? 因果応報じゃん』


『#朝倉美羽の正体』というハッシュタグが、瞬く間にトレンドの上位へと駆け上がっていく。


「な……に、これ……。ひどい……あんた、人間じゃない……!」


 震える声でKAIを睨みつけるが、彼は肩をすくめるだけだ。


「言ったろ? 損切りだって」


 KAIは冷酷に言い放つ。


「これで俺は『騙された純粋な男』、お前は『全てを企んだ稀代の悪女』だ。俺にはまだ、同情票が集まる可能性がある。だが、お前はもう終わりだ」


 胸を締め付けるような絶望が、沸き上がる怒りをかき消した。


 この男に対抗しなければ。自分も被害者なのだと、世界に訴えなければ。


 美羽は半狂乱でスマートフォンを掴み、反論の投稿を打ち始めた。


『全部嘘です。KAIに騙されていました。


 彼はカメラの回らないところでは常に私を罵倒し、時には暴力を振るわれました。これが証拠です』


 以前、KAIに腕を掴まれてできた、痛々しい痣の写真を投稿する。


 さらに、彼の暴言を密かに録音していたデータも公開した。


 これで流れが変わるはずだ。


 これで、みんな私が本当の被害者だと分かってくれるはずだ。


 しかし、世間の反応は、美羽の期待とは真逆の方向へと突き進んだ。


 二人の泥沼の暴露合戦は、ネットの住民たちにとって格好の娯楽にしかならなかった。


『うわー、泥仕合始まったw』


『どっちもどっち。類は友を呼ぶってやつだな』


『被害者アピールうざ。自業自得だろ』


『この女、KAIと組む前は登録者数5000人もいなかった雑魚じゃん。KAIのおかげでここまで来たのに恩を仇で返すのか』


『そもそも、前の彼氏をあんな形で捨てて乗り換えた時点で、同情の余地ゼロ』


 かつて「カワイイ!」「憧れる!」と賞賛のコメントをくれたファンたちは、今や最も辛辣なアンチと化していた。


 無数の『いいね』が嘲笑へと反転した。かつての信者が今や最も冷酷な判事と化していた。


 画面の向こうの群衆から放たれる悪意の矢が、一本また一本と美羽の虚飾を射抜いていく。


 美羽の「被害者」という主張は、誰の心にも響かなかった。


 それどころか、彼女が反論すればするほど、「虚飾にまみれた承認欲求の怪物」というレッテルが、より強固に貼り付けられていくだけだった。


 KAIは最後のとどめを刺すように、インスタのストーリーを更新した。


 そこには、新しい、若い女性インフルエンサーと親しげに食事をする動画がアップされていた。


『心配してくれてありがとう! 〇〇ちゃんに慰めてもらってます。俺、もう一度ゼロから頑張るよ!』


 その投稿には「頑張れ!」「応援してる!」「新しい恋かな?」といった、好意的なコメントが付き始めていた。


 KAIは早くも次の「資産」を見つけ、乗り換えようとしている。


 自分は、ただ捨てられただけ。


 使い古され、価値がなくなったから、ゴミのように扱われた。


 美羽の中で、張り詰めていた虚飾の糸が、プツンと切れる音がした。


 それから数日間、美羽のインフルエンサー生命は、無慈悲に、そして徹底的に解体されていった。


 契約していたコスメブランドやアパレルブランドから、立て続けに契約解除の通知がメールで届く。


 違約金の発生を示唆する、冷たい文面。


 YouTubeの広告は剥がされ、収益は完全に停止した。


 企業から貸与されていた商品は、全て即時返却を求める督促状と共に、リストが送り付けられてきた。


 指の間から砂のように零れ落ちていく。掌で掴んでいたはずの輝きが、脆くも砕け散った。


「おい、いつまでそんなところで這いつくばってるつもりだ? みっともねえ。この部屋の契約は俺だ。お前はもう関係ねえんだよ。とっとと出ていけ、汚らわしい」


 ソファで死んだように蹲る美羽に、KAIが冷たく言い放つ。


「……行くところなんて、ない」


「知るかよ。実家にでも帰れ」


 胸に鉛を入れられたかのように重いプライドが、美羽を実家から遠ざけた。


 この無様な姿で親に泣きつくことなど、できるはずがなかった。


 KAIは美羽の荷物を乱暴にボストンバッグに詰め込むと、それを玄関の外に放り出した。


「二度と俺の視界に入るんじゃねえぞ。役立たずの不良債権が」


 ドアが閉まる直前、KAIが吐き捨てた言葉が、美羽の耳に突き刺さった。


 タワーマンションのエレベーターを降り、虚ろな足取りでエントランスを抜ける。


 かつては優越感と共に通り抜けたガラスの自動ドアが、今は自分を拒絶する断頭台のように見えた。


 自分のアパートに戻っても、そこは安息の地ではなかった。


 SNSの通知は鳴り止まず、画面は誹謗中傷の言葉で埋め尽くされている。


 世界中の人間が自分を嘲笑い、石を投げつけているような感覚。


 カーテンを閉め切り、ベッドの上で毛布を被って蹲る。


 耳を塞いでも、幻聴のように罵声が聞こえてくる。


 ――陽……。


 不意に、あの穏やかな顔が脳裏をよぎった。


 彼と付き合っていた頃の、何でもない、けれど温かかった日々。


 手作りのブレスレット。


 公園のベンチ。


 他愛のない会話。


 あの頃の自分は、少なくとも「怪物」ではなかった。


 なぜ、手放してしまったのだろう。


 なぜ、偽物の輝きに目が眩んでしまったのだろう。


 後悔が、今さらになって津波のように心を洗い流していく。


 だが、もう遅い。


 全てが、もう遅すぎた。


 その時、止まることのなかった通知の奔流の中に、一つだけ毛色の違うものが混じった。


 スマートフォンの画面にポップアップ表示された、一通のメール。


 差出人の名前に、心臓が凍りついた。


『東都大学 学生課』


 件名は、簡潔で、そして絶望的だった。


『【重要】一連のSNS上でのトラブルに関する懲戒処分の検討について』


 デジタルな虚像の世界だけではない。


 自分が所属する、揺るぎないはずだった現実の世界もまた、自分を排除しようと動き出している。


 美羽は、胸の奥から湧き上がる、声にならない絶叫を上げた。


 スマートフォンが手から滑り落ち、ベッドサイドに転がる。


 インフルエンサーとしての生命も、学生としての居場所も、全てを失おうとしている。


 真っ暗な部屋の中、朝倉美羽はただ一人、自分の手で築き上げた虚飾の城が崩れ落ちた残骸の中で、静かに、そして完全に崩壊していった。

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